派遣村で聞こえてきた声と、「まじめで善良でまともな我等」が席巻する此処。

派遣切りされたりホームレスで貧困に陥ってる人がいる。その人たちは「年を越せない」と叫ばされるまでに追い詰められていた。ああ、私は恵まれている。暖かなベッドで寝れる。タバコ・・・は吸わないけどタバコくらいの値段のお菓子やガチャポンを買える。お風呂に入れる。帰る家がある。それくらいに甘えさせてもらってる。この日本で、それらの享受は当たり前ではなく、いわば特権階級の恵みなんだと思う。もしかしたら私も、家庭がものすごい差別的な所だったら自分のマイノリティ性を理由に似た状況に陥ってたかもしれないし、二重の意味で恵まれている。そして、恵まれていることは、きっと恥ではないのだとも、思う。思いたい。

そしてそれ以外にあたしが恵まれているのは、ーーーたとえ努力をしていなくてもーーーたかがタバコの一つや二つを(買ったにしろ貰ったにしろ拾ったにしろ)吸ってるくらいで「タバコ買うくらいなら貯めて自活しろ!」とはやし立てられずに済むところだよね。あるいは行政・企業に対して声を上げたりデモなどをしただけで「そんなのしてる間に職を探せ!」とか言われなくて済むよね。あれって当然の権利なのに、派遣村に集った人や、彼らのような境遇にある者は、「権利行使よりもまず自己努力」を求められているように感じる・・・。
しかしながら、少なくとも、労働以外の収入がある人や現在労働している人は、ホームレス・派遣村の人たちのように「少しの時間も惜しまず労働せよ、お前らにタバコや新聞を消費する暇はないはずだ」とは言われないだろう。お金がないとこんなにも惨めだ。

なんなの?仕事がなくなった等の失敗(?)をしてしまった人間には、そんな些細な<恵み>を受けるくらいの資格もなくて、それゆえに一切の余裕と贅沢を捨て去り、労働者としてのみ存在し、ただひたすらに節制と労働に自身を費やさなければならないって訳?(ところで勤労の義務って国家による強制労働のことじゃないし、労働しなければーー国家に対する請求権であるーー社会権すら認められない的な性質でもないと思うよ?あ、あと税金も同じに。)


ネオリベ自己責任論でぐちゃぐちゃ言ってる人たちは、どうも上から目線で(「善良な市民の我等が施しをしてあげる」的)、何より困窮してる者にこそ厳しい(「本来働かせていただいてる身だろ」的)。
「職を失っただけで即路頭に迷うなんて今まで怠けていたのか」「派遣村に集まった人たちはハローワークがないと職も探せないのか」「派遣村に集まってるのはまじめに働く気のない人(≠ホームレスが想定されてる?)もいるのではないか」「雇用も用意してあげてるのになぜ人が埋まらないのか」

色んな声があるが、それらの批判的な声が、結局は
「貧困者は自己責任でそうなった(はずな)のだから、(たとえ就職後の離職率や待遇や適応が良くなくても)職業を選り好みせず馬車馬のごとく働き、(我等努力者の払った税金を一切使わずに)自分の力だけで生活するべき」
という主張を構築し、是認してゆくのではないかなと危機感を持っている。


しかも、なぜか不真面目な人間は保障されず死んでもやむなしといった前提すら感じられるが、一体どんな社会観を持っておられるのか。


血税が怠け者に」と嘆く人がいる。果たして個人の金がどれだけ使われてるのかは知らないけど、たとえ極度の怠け者であろうとまじめに働いてきた者であろうと最低限の生を認められるべきではないのか。そして、やはり非難の声には想像力の欠如がありそう。いや、ここで言う想像力というのは、「なぜ家元に帰らないのか」という声に「家元に帰れないような人が今困っているとは考えられないのか」という想像力が欠けている、という話ばかりではない。
もっと基本的なこと。そう、誰だってなるべくは良い待遇の職に就きたいし、良い家に住みたいし、贅沢したいし、そもそも働く気力を失う(奪われる)こともある。当たり前じゃない。だから、馬車馬のように働くべき、と言われても、「それって誰の話?自分がそう言われ続けて何も不満はないの?そしてその不満はそんなに叱責されるほど身勝手なものなの?」と思ってしまう。


また、近年不況ゆえに問題が可視化した雇用問題だが、おそらく他の層(女性など)は昔から過酷な状況を強いられてきたのだろう。それを思うと、今頃になってやっと問題が可視化したのは、なにを意味するのだろうか。健常者男性という社会的マジョリティの主体すらも雇用が保証されなくなってやっと社会が問題化した、ということなのか。そして、不況ゆえに起こった問題のように論じだすことで、まるで「今まで何も問題がなかった」かのように振舞わってはいないだろうか・・・など考えることは多い。

気持ち悪いのは、いつだって「善良な市民のためにある社会」「国家のためにある国民」と言った考えだ。そういう考えは、雇用問題以外にもクィアの問題でもありえたと思う。小児性愛者や同性愛者は監視されるべきだ、次世代の生産性にコミットできない上にストレートにとって迷惑な存在だから、と。


今回に限らずだけど。まるで人は国家のために生きる存在で、善良かつ「まとも」な人にこそ価値がある、そうでない者は社会的に承認される価値もない、我等の様になれなかった事の自己責任だから仕方がない。
いつだってどこだってそういう声が響いてくる事が、なんだか末恐ろしいのだ。


追記:
というか、派遣村に訪れた人たちって「(派遣ではない)ホームレス」「元派遣」としてしか見えないわけだが、もしかしたら元々社会的弱者層が多いのではないか、というのは当然思いつく問題です。それこそ障害者や国籍のない人やクィアやその他も含め、それぞれの属性が重なった人たちがいるかもしれません。健常者でストレートで日本国籍で非部落出身で男性で・・・といった人ばかり、ではないかもしれないんですよね。
そう考えると、より踏み込んだ社会的見地も必要になってくるように思います。