ガチと名乗れない私の、「シスなヘテロが性の標準」説に対する恐れ。


私は、「ガチ」に関しては「バリバリの」とか「筋金入りの」と同じ意味合いで理解してて(ソレが正しいのかよく分からないけど、多分一般認識とそんなに違わない)、そういう文脈における「ガチ」って言葉に何かしらの距離を感じていました。そのことをはてなハイク サービス終了のお知らせで書いたら、わたくしがガチな人だと名乗るわけ - みやきち日記でみやきちさんから反論を頂きました。ありがとうございます。


しかしあんな日本語の怪しい意味不明なハイク書いちゃって恥ずかしいです…。後から読んだら自分でも文意が分からなくて困りました。
なので、お返事しつつ改めて説明していけたら…と思います。


まず、私はこう書きました。

「ガチ」なもの=各カテゴリの正真正銘な代表者とする考えは、グレーゾーンというか、アイデンティティが分かりづらい人には、外野へ追いやる力学として機能しやすい。

それに対してみやきちさんは

ええと、「「ガチ」なもの=各カテゴリの正真正銘な代表者とする考え」「(ガチ=)揺らぐ事のないモノセクシュアル」なる発想が存在することを今初めて知ったんですけど、これってそんなにメジャーな考え方なんでしょうか。少なくともあたしが名乗る「ガチ」はこれじゃないわ。ていうか全然違うわ。

と書かれました。


ここらへん、私は正直それほど「ガチ」について深く考えなかったと言うか、知りもしなかったんですね。みやきちさんが「実際にバイセクシュアル(ガチ)を名乗る人もいる」と仰ったけど、確かにガチバイで検索かけたら他称にしろ自称にしろ結構ヒットするんですよね。だから自分は認識が甘かったなぁと思いました。


ただ、私が最初のハイクを書いた時点で抱いた「ガチ」の印象は、ーーメジャーかどうかは分からないもののーー正直なものです。そして、その印象ゆえに抱いた私の恐れの原因は、「個々人が『ガチ』をどういう真意で使っているか」ではなく、その語自体が持つ線引きにあったのです。つまり、言説の構造問題です。 (それは正に、「ガチ」と「なんちゃって」を分ける言説政治から起こる問題、とも言えます。)


さて、「ガチ」ではない私がここにいます。そして私は「ガチ」と名乗れる自信が色んな理由でありません。そんな折に、特定のカテゴリ内に「ガチ」な人が居ると思うと、「では、所謂『ガチ』じゃない人は一体何なのか?」と私は立ち止まります。つまり、「ガチ」じゃないなら私って実はーー「なんちゃって」のようにーー「異性愛のなりそこない?異性愛者のごっこ?」と思う所があったんですね。(ところで私は過去に「なんちゃって」を非難する記事を書いています。今そのことの整合性が合わなくて困っているところです)


確かに、「ガチ」に対して「誰がどんなニュアンスを込めて名乗っているかなんて、全員に聞いて回りでもしない限りわかりはしない」ですが、個々人がどういうニュアンスで名乗っていても、「ガチ」によって「ガチなもの」と「ガチでないもの(…なんちゃって?)」が自然に作られるニ重構造は生まれますよね。(以前マサキチトセさんが書いてらした、いわゆる「アライ」の三重構造問題と近い話かもしれません。http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20081226/1236954044


で、私は「ガチ」に「=揺らぎのないモノセクシュアル=カテゴリの正真正銘な代表者」という印象(本人の真意に関わらず、そういう意味が付与されている印象)を持っているために、ニ重構造の中で事後的にカテゴリから追い出される主体が生まれるはずだ…、と危惧したわけです(杞憂なのかもしれませんが、私はそう思いました)。
勿論それが妥当な危惧か要検討でしたが、仮にそうであるなら「ガチ」の力学は多様な使い道があるにせよ、外に追いやるタームにもなるはずだ(「正真正銘の代表者がいる」という考えへの親和性)、…と。


ですから、一人一人の当事者が掲げる真意を「ひとつの意味(=各カテゴリの正真正銘な代表者とする考え)」だと決め付けたつもりはありません。いえ、つもりなだけで、書き方が足りなかったかもしれません。アイデンティティの占有を否定する「ガチ」ケースにも、触れるべきだったと今思いました。すいません。


ただ、ここでひとつ明瞭な事実がありますよね。結局私の恐れは、みやきちさんが「心底イヤだ」と仰る偏見(ヘテロノーマティビティ・セクシズム)に根付いてることです。


世の中何かと言うと、シスジェンダーヘテロが標準とされます。セイブツガク(笑)的な“本来性”が特別に付与された唯一の存在。私は、この確固たる存在感が恐ろしくてたまりません。
私は自分が女アイデンティティに憧れていた経験もあり、思春期過ぎるまでは全く男性以外に性欲求がなかったので、突然notモノセクシュアルになった日は、そらもう色々おびえました。「実は自分はヘテロ女で、やっぱり間違って生まれたのか!?(同時に、自分がヘテロ女にアイデンティファイしてるのか、あるいはヘテロ男にアイデンティファイしてるのかよく分からなくなった)」「実は今まで異性愛の魅力に気づいていないだけの未成熟な人間だったのか!?(やはり同性愛は『治療』される類なのか?)」というありきたりな、しかし覇権的にささやかれる言説に私は惑わされ、まるで自分が少しでもシスなヘテロに近づけば、世界中のクィアは所詮「本来あるべきシスジェンダーヘテロ様!」の成り損ないになると思い込んで。(幼少期から男フェチだった自分こそが「ガチ」じゃないと、世界全体がそうなるんだと思い込んで!)
という訳で、揺らいだ時点で私は「ガチ」とは名乗れなくなったんですね。今まで信じきっていた「自分」が、足場から崩れたのですから。…いや、「実は今まで揺らぎに目を瞑ってきただけではないか?」と現在進行中で悩んでます。

それこそ、

「『本当は』異性愛者なのに、同性ともつきあえるのがカッコイイとか思ってるんだろう」とか、ありもしない「本当」を

自分で探し続ける羽目になりました。
…だからこそ、「ガチ」と名乗る存在に縋りたいのです私は。


こうした恐れは、「ガチ」の言説政治と無縁だとは、正直思えません。
なぜなら、少なくとも私にとって「ガチ」は、“真の”意味を指す権威として映っているからです。…よく「ガチ」は「真性(本当?)」と重ねられますが、私はついつい“真の”自分や“真の”定義を脅迫的に探してしまうのです。「真があるなら偽もあるはずだ」と。すると、「ガチ」の二重構造にはまって自分が余計に分からなくなる。だって、どんな自分が真かなんて、本来理屈で分かるハズがないもの。そんなものは、科学的にだって現在証明できていない。なのに、揺らぎ続けてる今の自分を、まるで偽者かのように思い込む…(たまにだけど)。それは究極的に言って、本質主義です。
それが的外れな「ガチ」認識なら恥ずかしい勘違いでしたし、強迫観念に捕らわれるのは誤りだと頭では分かっています。(でも、セイブツガクはそれを暴きたてようとします)(時々ニュースで見かける同性愛や性同一性障害の生物学的根拠らしき証明が、どれほど私の精神と自我同一性を脅かす事か!!)


…しかしもちろん、みやきちさんの仰るように「ガチでクエスチョニング!」と名乗ればよかったのかもしれませんし*1、「ガチ」定義の乱立方式に気づけばよかったかもしれません(後述)。

「ガチ」と「ガチでない者」の狭間で勝手に不安になったのは、そんな名乗り方を想像すらできなかった私の自己責任(て言葉嫌いなんだけど)でもあります。「ガチ」の広い可能性を見誤った私が浅慮でした。
ですから、「ガチ」を名乗る個人に私の恐れの責任は、もちろん負わせられません。一方的に責任を擦り付ける言い方をして、すいませんでした。一人一人に「ガチ」と名乗らなければならない動機・背景もあったのに、配慮が足りませんでした。特にクィア女性はクィア男性より「おしゃれな遊びだね☆」「ヨシヨシいつか卒業するよ」等と、矮小化の偏見に晒されやすいので、「ガチ」を名乗る必要性が端からも理解できます。
あくまで批判対象は個人ではありません。各マイノリティがどう自己を守るかの実践は、常に尊重されるべきだからです。「ガチ」と名乗ることで個人が不利益を解消できるなら、それ自体は否定すべきではないはずです。*2


ただし、私が危惧する「ガチ」の使い方がなされた時、私はその「ガチ」を批判しますし、やはり「ガチ」そのものにある種の危険性“も”見出すでしょう。
そのてん、みやきちさんの「ガチ」使用法は画期的でした。

ちなみに、「わたくしがレズビアンだと名乗るわけ」の方にも書いてますが、あたしゃ

ひょっとしたらこれから男性相手に雷に打たれるような出会いがあって、恋に陥ったりして、下手したら結婚出産なんかしたりして、そうしたらヘテロセクシュアルバイセクシュアルを名乗ることになるかも
わたくしがレズビアンだと名乗るわけ - みやきち日記

というのはずっと思ってますし、

レズビアンが全部自分と同じだとか似ているとかは全然思わない、つか『同性が好きか異性が好きか』という側面だけで人間を分類しきれるはずがないと思ってる、だから『レズビアンです』と名乗ったって実はあまり意味がないっちゃないと思う
わたくしがレズビアンだと名乗るわけ - みやきち日記

っていうのも、昔からずっと変わってません。

これには目から鱗です。…すいません、かの記事は当時も読んでいたのですが、今の今までその意義に気づいていませんでした。
皆さんはお分かりになっていたでしょうか。この「ガチ」使用法はセクシュアリティが揺らぐことすら予定(?)して、それでも「レズビアンである自分」を守る。「ガチ」であることの担保をモノセクシュアルにしないこと、また、その「ガチ」使用法が全員共通だと言わないことで、他者に向かって「ガチ」の別な使用法を否定しないし、同時に「ガチ」でない人から「LGBT」を「自分のこと」として語る自由を奪わない。
ある種、二重構造の外側に別の二重構造を作り、二重構造に収まりきらない人が自由に解釈できる隙間を用意しているんですね、きっと。*3
たぶんこれなら、私も「ガチ」と聞いたからって「真の自分探し」をせずに済む…ような気がします。いや、結局のところ、私の恐れって精神状態に大きく左右されるし、どの道「ガチ」を名乗ることはナイんですけどね。ただ、「ガチ」の意味が拡散されることで権威を発揮しないのであれば(「『ガチ』じゃなければ自我同一性や居場所を脅かす!」て訳じゃないのであれば)、私も無理して「ガチ」を名乗らずに済むということです。



それはともかくとして、ですが。改めて書いておきたいことがあります。

みやきちさんは

それはシャドウボクシングというか自家中毒というか悲劇の自給自足というか、あるいは単に、枯れ尾花を幽霊と見立てる行為にすぎないなのではないでしょうか

と仰いますが、そう言われれば否定はできません。
とまれ、私の恐れ(自信と尊厳を持つ機会の不足)が「自家中毒」であったとしても、その事実は、私の恐れが単なる一人相撲・個人の問題だという結論を導きませんよね。そのことは、みやきちさんなら分かってくれてると思います。


しかしながら、揺らぎを経験する機会が少ない“お墨付き”なストレートには分かりづらいかもしれません。実はソレもストレートに保障された特権であって、私の恐れは確実に「シスジェンダーヘテロが標準だ」と考える社会規範に根付いています。


そして、「ガチ」と名乗れないために、よりストレート標準説に脅かされたのも事実なのです。少なくとも私の中では。 それはナイーブな恐れで、確かに「シャドウボクシング」「自家中毒」かもしれません。ですが、私の悩み恐れが全部全部自分の勘違いだったとは思えません。前述したように、私は確かに要請されました。シスなヘテロであることを、「ガチ」な自分であることを。ですから、社会的文脈で私の恐れを見てほしいです。


…今回、「ガチ」のニ重構造が引き起こす政治について、もっともっと要検討だなぁと反省しましたが、これだけは明記させていただきます。


最後のまとめ。

クィアにばかり「ガチ」か否かを問うストレート標準な社会こそ、こういった恐れを解消すべきだ。「ガチ」でなければ自信と尊厳を持てない社会、「ガチ」であることを不本意な人にまで要請する力学に注視すべきだ。なにより、クィアクィアとして生きる尊厳をもっと寄こせと主張すべきだ。
ということです。

それでは、お付き合いありがとうございました。



  • 蛇足。


これ、ずいぶん前に買って帯の内容に衝撃を受けたものでした。

YELLOW 完全版 上 (B's-LOVEY COMICS)

YELLOW 完全版 上 (B's-LOVEY COMICS)

帯裏。

ゴウはバリバリのゲイ、タキはガチガチのヘテロ。どこまで行っても平行線、そんな二人の裏家業は麻薬の横取り屋!!危険な仕事も相手に背中を預けて乗り切ってきたが、二人の関係に微妙な変化が……!?

とありますが、こうやってみると、「バリバリ」とか「ガチガチ」とか有徴なゲイが存在するせいで、お墨付きを与えられた無徴の存在(シスなヘテロ)ですら、己の「確かさ(ガチさ)」を問われる羽目になるんですねぇ。
そう思うと、「ガチ」だの「バリ」だのまるで硬いものを噛み砕いた擬音ぽい響きも(笑)、有用かもと思いました。


ちなみにこの作品、内容自体はそんな記憶に残りませんでした…。タキにしても、どこらへんが他より「ガチガチ」だったのか、よく分からないしー。なんか普通のBLと同じで、「いつの間にかすんなりデキちゃいました」って話だった気がするのよね。(そこが面白いのかもしれませんが)

*1:とまれ、「ガチなクエスチョエニング」すら名乗る自信がないと、更に問題です。というか、クエスチョニングのガチって何だろうという問いは、再び生じますし。…まあ、そこはゆっくり考えたいです。

*2:たとえばマサキさんが仰るように、アライにしたってLGBTがあえてアライを名乗ることでカミングアウトせずに運動できるメリットがあるけど、それは否定すべきか?と言うと難しいと思う。

*3:…ん?もしやポストモダン的バラバラってこういうこと?いや、そもそも誰だってガチじゃなくてもいいんだし、あまり関係ないか?