反省。

前回の、人は独りでは生きていけない、と言ったエントリですが、視点を一つに纏めず書いてしまったせいで、『健常者』以外の人を不可視化した理屈を書いてしまった。
人全般のことを書いたので、人の中の差異にあまり意識しないような文面でしたが、無標の存在以外は社会にいないかのような印象を与えてしまったようで、申し訳なかったです。不可視化するなと普段言ってるのですから、私の立場ならもっと注意して書くべきでした。何の気なしに書いた文章ですから、かえって不可視化があった。それについて申し訳なかったです。

もったいないお化けが出そう。*1

ちょっと前の記事なんですが・・・。
http://entertainment.aol.co.jp/movie/news/news_20070419.html

 ナタリー・ポートマンは、地球人口の半分を恋愛の対象から外してしまうのはもったいないので*1、相手がいれば女性と恋愛してもいいと思っているそうで、同性愛に関してはオープンな考えを持っているようだ。「女性とデートしたことがあるとかいうわけではないけど、相手が男性か女性かということより、どういう人間かということのほうが大事だと思うの*2」「50%の人間を恋愛対象と見なさないなんてもったいない*3」と語っている。

えー、今から私は筋肉以外はアウトオブ眼中の人になります。え?「相手は男性か女性かどっち?」だって?そんなの関係ないよ。私は筋肉があるかどうかで人間を選り好みしてるんだから。性別で選り好みしてるナタリーと一緒にしないで。

 ノダダ・ポートマンは、『世界中の筋肉のある人ない人。』これらの内のどちらかを恋愛の対象から外してしまうのはもったいないので、相手がいれば筋肉のない人と恋愛してもいいと思ってるそうで、ガリ嗜好に関してはオープンな考えを持っているようだ。「筋肉のない人とデートをしたことがあるとかいうわけではないけど、相手が筋肉があるか・ないかということより、どういった人間かということのほうが大事だと思うの」「筋肉のない人なんて五万といるのに恋愛対象と見なさないなんてもったいない」と語っている。


ナタリーの意見はわかった。あんたは性別フェチなんだな。よしわかった。でも私は、性別という軸ではなく、私の好むような筋肉質を持った物体であるかどうかという軸で人間を選別することと思う。
でも、その嗜好にマッチした筋肉の中から誰を選ぶかって言うと、それは人間性が優れてる人であるかどうかだよね。人間性*4マンセー
まあオレッチ恋愛はしないけど。愛のないセックスは悪いか!?


発言の意義。

彼女の発言が意味あるものなのは、「どのモノセクシュアルにもバイセクシュアルの可能性はある」という超当たり前の可能性が自分にもある事を認め、もし女性に恋をしてもそれを否定しないと公言したこと。これが意味あるんだよな。
バイセクシュアリティの可能性はどのモノセクシュアルにも完璧には否定できない。なのに、同性を愛することだけを殊更に否定したがる傾向が世の中にある。その中では、こんな当たり前すぎる可能性すらも認められない現状がある。だからこそ声を上げて、可能性をそのままに受け入れる、といった発言に意味があるような気がするんだよな。
当たり前な可能性。それを受け止めるだけのこと。それに意味がある事自体とっても不思議な話だとは思う。


まあ結局は、性別と人間性だけはいつの世も大事だということで・・・。

*1:その「人口」の中には小児や老人は当然含まれてるんだよね?

*2:モノセクシュアルであろうと、そりゃ誰にとっても多少は人間性も重要だと思うよね。

*3:もったいないという理屈ならどんなものを対象にしてもよいはずなのだが、男性女性以外の者を選り分けてしまうのはもったいなくないのだろうか?

*4:+「筋肉質かどうか」。ナタリーの場合+「性別」。