ミソジナス論争再び。

馴染みの方にコメント。『ミソジニー』について。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない
大分前に書いたエントリなんだけど、こちらにゆんゆんさんからTBをもらいました。といっても彼女はすでにブログを閉鎖させているので、ここで引用してるのはまだ閉鎖していなかった頃にコピペ保存したものです。原文を確かめたい方はご面倒ですがキャッシュなどネット上で保存されているものを探してご覧になってください。

http://blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/809034.html

さて、当時の私が提示した論点は主に「語りの倫理」であり、ゲイのミソジニー自体が中心ではなかったんですね。とまれ、今の私と当時の私では微妙に問題意識が変化した気がします。ゆんゆんさんはすでに議論の場から退いたようだし只のひとりごとになってしまいそうなのだけど、これを機会に改めて書いてみたいです。

当時の私のスタンスはこれ。

繰り返しますが、実際に、ゲイにミソジナスな人が多かったとしても、私にとってソレは問題じゃない(もちろん、その偏見ーー「事実」でも何でもいいけどーーをもってして人を排除するのは差別だと思うからそれは論外としてね!)。ただ、そういう偏見を無配慮に植え込んで何がしたいのか、と私は不審におもっている。
本当にゲイのミソジニーに対してなにか実りのある議論をしたいのなら、偏見の植え込みの暴力性くらいは考えてください。私だってゲイを批判するときはしますよ。でもそのやり方はもっと慎重であるべきでしょ、と思うんです。

ていうかね、もし、今回あなたの発言の全体が「いいや、ゲイにミソジニーがない訳ではない。そうやってゲイを美化してちゃんとゲイと向き合わないのはいけない。私はゲイコミュニティという限定的な現場しか見ていないが、私の体験した中でもゲイにだってミソジニーの内面化は見られた。ただ、ミソジニーは誰にでもあるのだから、それを対話できる共通項として役立てて、目をそらさずに相手と向き合いましょうよ。そうすることでミソジニーを内面化している者同士よい関係を築く努力をしよう」という趣旨だったらなにも問題なかったわけよ。

なのにあなたときたら、「ゲイの多数派は他集団よりもよりひどくミソジナスなんだよ、怖いんだよ」と印象付けるだけ*1。そして、問題なのは、あなたの体験談だけでは事実の程は問えないということ。だって情報が偏ってるんだもん。

あの場でゲイへの批判自体をナンセンスとした人はいなかったと思うのだけど、今の私からしてもゲイに不信感を抱いている人に向かって一方的に「実際ゲイはミソジナスだ」と語るのでは更なる不信感を煽るだけで、ゲイのミソジニー批判とは言いがたい気がします。たとえ言えたとしても、そこに問題がまったくないわけではなさそうですし。そういう“何をどう語るか”という『語りの倫理』は今の私にとっても重要な論点です。

ただ、今となっては強調しすぎた部分もあると思います。
たしかに検証すべき事実を喧伝するならある程度有効な根拠を示すべきだし、一方的な断定やレッテル貼りはあまりほめられたものではないでしょう。しかし、検証済みの情報だけでしか現状を議論できないのは窮屈だし、実感から見えてくる事・対話のきっかけが生まれてくる事もあるので、科学的データのない実感だけで現状を語ることそれ自体を「オフィシャルな場から締め出すべき」とまでは言えないように思います。
そしてミソジニーを強く多く内面化した集団がいたとして、その集団を特別祭り上げてバッシング対象に認定するのは色々望ましくない面もあるとは言え、実際そういう現状があるならその事実を知らないとより深い議論に入れないかもしれません。だから、実態を探るまなざし自体を抑制するのも望ましくないし、その点にも配慮すべき。
当時私はミソジニーをゲイだけに照射する危うさを語りました。やはりミソジニーを特定集団だけの問題に矮小化してはいけないけど、「社会全体に存在してる」という前提の下、(バッシング材料に利用するのではなく)固有の問題性を読み解く文脈でゲイに注目すべき場合はあるでしょう。


それからもうひとつ。私は当時、偏見の不利益に対してあまり真摯的ではない論者に不信感を抱いていたけれど、私自身も権力を持つ側からの差別隠蔽を疑われる言動をしていたのではないか。
私は女性ではないので女性への差別を被らずに済む立場です。対して、女性側にはいまだ不公平な社会状況があるはずで、そういう非対称な特権的立場からゲイ(男性集団)へのミソジニー告発を批判するのなら、ただ「全体の問題として仲良く共闘しよう」と呼びかけるだけでなく、まず「ゲイ(含む男性)のミソジニーを自分自身から問題化・解決してゆく」と表明すべきではないか。そうしないと、男性自身の差別隠蔽に与してしまうのではないか。などと悩んでます。

また、女性が男性に対して警戒を求められる現状がある限り、ただ「男性というだけで全員を警戒するのは問題だ!」と訴えるだけでは済ませられない問題があります。と同時に、私自身の実感では「ゲイは女の子の味方」か「ゲイは女嫌いだから男が好き」のどちらかで語られガチな印象がどうしてもあって、それなのにテキトウな言葉だけが飛び交い、実際の人間関係にひびを入れられるのはやっぱり迷惑。

これらを鑑みるに、“偏見が強化されることへの警戒と丁寧な語り方のバランスを慎重に行うべき”というのが私の結論。
・・・私にはまだまだ必要な問題意識が不足してると思うので、精進したいです。


***

さて、ここからゆんゆんさんへのレスポンス、というかひとり言なのだけど。

「男らしさ」を常に志向するアイデンティティ政治から抜け出せない限り、ゲイネスはミソジニーの温床だと思います。

彼女の論旨は上で問題にした事実認定や実感表明のレベルではなく、「ゲイという集団やコミュニティ(共同体?)はミソジニーの温床なのだから、本来批判されるべき対象」といった主張だと理解しています。(間違ってたらゴメン。)
さて、私自身それほどゲイのことに詳しくないのだけど、これはどうでしょう?
「男らしさを志向すればミソジニーの温床となるしかない」というのは事実と異なるだろうケド、たしかに男性性が構築される中でミソジニーが組み込まれる事は今も昔もたくさんありますよね。たとえば現在ストレートな『男らしさ』が実際に「ホモではないこと」を条件にしているように、「男らしさ」が「男は女より強くてエラい!」みたいなソジニーを条件としてきたのではないか。この意味でたしかに男性性とミソジニーは結びついているのが現状でしょう。
そしてゲイとはそういう覇権的男性性から排除されてきた側面があるものの、かれらもあくまで男性として生まれ育てられてきたはずだし、ゲイムーブメントから独自の男性性が構築される時にも、その都度ミソジナスな観念が再び条件化されていないか警戒する必要があります。トランス・バイフォビアやその他多くの差別的観念についても同様に警戒が必要。もっといえば、(ミソジニーの問題に限らない話だが)男性の中心性がゲイコミュニティでも働くことを考えれば、きっとゲイコミュニティも問題は含み。

しかしながら、今回のゲイとミソジニーを因果付ける論理に私は違和感を抱きました。


私の違和感を説明するためにちょっとここで別記事を紹介したい。これもかなり昔の記事だけど、ひびのまことさんはゲイとゲイコミュニティに関してこのように述べています。

「バイセクシュアル」 という問題領域から見えるもの

で、特にゲイのコミュニティーにおけるバイセクシュアル嫌悪は、性指向を問わずに多くの男性が抱えている女性蔑視(ミソジニー)の反映であることがあります。「女なんかうっとうしい」というマッチョなゲイのわがままは、常にミックスの場を創ろうとするバイセクシュアルや、オネエのゲイなどに対するコミュニティー内の抑圧を創り出すことがあるのではないでしょうか。「女嫌いのゲイは一番怖い」と言った人がいましたが、的を得ています。ある意味では、男性同性愛者の理想郷には女性は必要ない、とも言えるからです。そういうコミュニティーの中では「女嫌い」であることは何ら問題にされません。実際に嫌いだったりする訳ですから、「女の人」と直接コミュニケーションすることを避けることが何となくできてしまう危険性が、ゲイのコミュニティーにはあります。そしてもちろん、今の社会の中で女性とみなされ女性として扱われる人がどういう目にあっているかなんてことには全く関心を持たないでも済むわけです。女の人にも関心を持っている人の場合は、好きになった女(とされている)人からの突きつけをきっかけとして社会の中の女性蔑視に気がつく可能性があるのですが、ゲイ男性には残念なことにそのきっかけが一つ少ないのです。
【強調部分引用者による】

ここでひびのさんは『女性に対する差別に気付く機会』という話でゲイを語っていいらっしゃるのだけど、これはゆんゆんさんの議論と近しいものがありそう。
ここで一つ疑問なのは、ゲイが「好きになった女性から問題を突きつけられる」機会がない(とされる)ことで「ミソジニーに気付く機会が一つ少ない」ことは、たとえば男子校に通ってるために気付く機会がひとつ少ないことや、あるいは女性がいない家庭に育ってるために気付く機会がひとつ少ないことと同じ意味なのでしょうか?
もしそうだと言うなら、ーーー「ひとつ少ない」ことが実際にどの程度ミソジニーへの無関心さに繋がっているかは定かでないにしろーーーこうした数々の事実に注目することは、“ミソジニーがいかに内面化されるか”を探る意味でも価値がありそう。
けれどもしそうではなく、性愛・恋愛の場でひとつ少ないことが他の機会と比べ、何かことさらに重要な問題性があるというなら、それは一体どういう根拠なのでしょうか?

どちらにせよ、各機会の持つ意味合いの違いというのは、あまり自明ではない気がするんですね。

次に疑問なのは、ゆんゆんさんがゲイを「その気になれば個人レベルで女性を必要としなくてよい人」と規定している点。

どうも世の中にはゲイを二丁目やハッテン場だけに存在するセックスモンスターとして見る傾向があるのだけど(セックスモンスター大いに結構なのだけど)、当然ゲイだって社会生活をしなければならないです。だから職場や学校や役所や病院や町内会やその他多くの場所に行く必要があるし、自分から女性の友達・家族と遊びに行きたい気持ちも当然あるでしょう。この意味でゆんゆんさんの規定は実態と大きくかけ離れていると思います。
こう考えてみると、「その気になれば」という前置きがあっても女性を一切必要としないゲイの生活は、非常に実現困難なものに思えます。
性愛恋愛の場で必要がなければ「個人レベル」のすべてにおいて必要じゃなくなる、と言うことではないですよね?なのになぜそんな思考実験が必要なのか、正直よく分かりません。


・・・ただ、ーーこうしたゲイ像の妥当性は置いとくにしろーー当時のエントリでも幾人から「ゲイの女嫌い」というコメントがそれなりにリアリティを持って強調されており、その現象自体が何かを意味しているかもしれないです。
しかしながら、そこでゲイのアイデンティティやライフスタイル(と言えるものが仮に日本にも定着してるとして)がいかにミソジニーと結びついてるかはなかなか複雑かもしれないし、因果付けるにしろ もう少し慎重でも良い気がします。

また、もうひとつ忘れてはならないのは、性愛恋愛対象(のひとつ)が女性だったり実際女性との性愛恋愛関係があることを、素朴に「ミソジニーに気付く機会」としていいのだろうか?という点。

もちろん気付く機会になるケースだってあるけれど、女性への性的関心及び関係がかえってミソジニーに結びつくというケースも一応考えられるわけで。たとえば結婚制度にしたってミソジナスな(・・・というか男性優位で家父長的な)背景によって維持されてるはず。そこで彼女や奥さんがいることをどのような機会として捉えるかは正に場合によることでしょう。
これらを単純に「ミソジニーに気付く機会」であるとしたまま、ゲイを「気付く機会がひとつ少ない」カテゴリとして批判することは、ずいぶんヘテロ男性には優しいというか、じゃっかん不公平かつ大雑把な議論だと感じるのだけど、ここでは暫定的にゲイに注目しただけで、ひびのさんもゆんゆんさんもそういう意図はないのかもしれない。でも少し引っかかったのでごめんなさい。

もちろんこの懸念はゲイのミソジニーを楽観視しないことと同時に考えるべきだけど、ここも少し慎重でありたいと私は思います。


あと、ゆんゆんさんの「ミソジニーによって誰が得or損をするか」という問題意識は、たしかに私に足りない視点でした。とまれ、そこで「女性が損をして男性が得をする」と言い切ってよいのか私には分からないし、その視点で何を語るべきかも分からないので、なにか今後に活かせたらと思います。


次に余談だけど。ゆんゆんさんは私がBLレビューブログで書いた最新記事の冒頭について、「へそで茶を沸かせ」たらしいのです。

この前の、日常的には男性としてパスしているのだださんの「今日も男扱いされて気がmaleぞう」という親父ギャグを「へそで茶が沸かせるわ」と思いながら読んでいたのですが。

これについて私がハイクで以下の愚痴を書いたのです。

うーん・・・・。まあでも、ヘテロだろうと何だろうと確かに全く揺らぎのない人も少ないのかもしれないような気もしなくもないような・・・。キンゼイあたりの昔から言われてる事かもしれませんが。
ところで私は彼女のアイデンティティや立場をあまり知らないのだけど、もしシスジェンダーでありながら「へそで茶を沸かす」と言ってるなら、たとえ“自己のポジショナリティに敏感であれ”という意味の問題提起だったとしても(いや、そういう問題提起をしているかもしれない人だからこそ)、不快でーす^^

http://h.hatena.ne.jp/nodada/9236533425541164173

すると、これ対してゆんゆんさんは以下の反論を寄せてきました。

のだださん個人が私の言葉を不快だと思われるのは全くの自由ですが。
全てのケースにおいて「抑圧者のシスジェンダーVS被抑圧者のトランスジェンダー」という構図を当てはめようとするのは無理があると思いまーす^^。

女性で「自分が男だったら……」「女でなかったら……」と夢想しなかったことのない人は結構少数なのではないでしょうか(私はこれは女性のミソジニーだと思います。ゲイや異性愛男性と違って不利益を蒙るのはもっぱら女のほうですが)←統計的根拠が必要だというのなら^^ここの箇所は削除してくださっても結構です。主旨に致命的ダメージを与えるわけではないので。
私も自分が男だったら、なめられなかっただろうとか、もっと簡単に望みのものにアクセスできていただろうとしょっちゅう考えてしまいます。
同じ仕事をしていても、初対面の相手に「女は甘やかされてていいよなー」みたいなことを言われてむかむかするのは日常茶飯事です。

http://74.125.153.132/search?q=cache:OM5ws06IdzUJ:blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/812985.html+%E3%81%BE%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%B6%9A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88%E2%80%A6%E2%80%A6%E7%AC%91&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

まず一点目。私があそこで言いたかったのは、「性別違和(による問題)を持たないで済む特権を享受してきた人に、私の経験を笑われる筋合いはない」という意味だけど、これがトランスの人から言われたことなら、一歩譲って「性別違和に向き合ってきた先人として非男性をカミングアウトしない自分を叱咤激励しているのかな?」などと読めるかもしれません。なのだけど私はゆんゆんさんと信頼関係にないので、やっぱり自分の抑圧を笑われるのは何れにせよ非礼だと感じざるを得ないです。(まあ私にとっては「非礼」程度の話なもんだから、ハイクで愚痴ったら気持ちも収まっちゃったんだけどw)


二点目。実は↑の反論を寄せられた時点では、「もしかすると今回は単に私の駄洒落が下らなくてへそ茶を沸かされただけなのかもしれないな」、と思ったんです。でも閉鎖されたブログ以外の発言を読んでみると、どうやら違うみたい。
ゆんゆんさんはcalibaby(イチカワユウ)さんからブログ『押して、押して、押し倒されろ!』で「男共同体からの離脱をしてないことを理由に誰かを批判するのはおかしい」と批判されてこう応えています。

3)だがその時の批判の方法は「男の共同体から離れろ」ではないのでは?
あ、それは嫌味で書いたつもりなんですよ。
のだださんが「女の子として受け入れてもらえない」とか「冗談めかして」言うから。
男性の特権や利益というものを重々承知している人はそういうこととか、女性もミソジニーを内面化してるからゲイのも相殺していいだろうとか間違っても言わないと思うし。

http://yuichikawa.blog28.fc2.com/blog-entry-1598.html#view_comment

コレを読む限り、ゆんゆんさんはやはり“男性の特権性を自覚するなら性別違和を軽々しく(?)語るべきではない”と考えてるように読めるんですね。
こうした女性差別トランジションの関連性といった難しい問題についてはmacskaさんの本家ブログで書かれた「人種的違和」と「性別違和」に関する記事が示唆的。

でも、男性から女性にトランジションする人たちが、「人種的違和」を訴える人と同じようなオリエンタリズムから自由であると言えるかというと、そう言い切る自信はない。トランス業界では物凄く不評なオートガイネフィリア(男性から女性にトランジションする人たちの一部は、男性として「女性の性器」そのものに欲情しており、それを自分のものにしたいという倒錯した動機で性別再判定手術を受ける、というあんまり根拠のはっきりしない理論)を持ち出すまでもなく、あるトランスセクシュアルの女性が思い描く「女性像」が現実の「女性」とはかけ離れており、それはむしろ多くの男性が抱く「女性像」に近いのではないかといった印象を受けたことは少なくない。

かといって、そのようなトランスセクシュアルの人の「性別変更」については認めないと言ってしまうと、かえって「典型的な女性はこうである」という押しつけになってしまって別の部分に不都合が起きる。「特権のある側」から「特権を受ける側」へのクロス・アイデンティフィケーションは批判的に注視されるべきだけれど、それだけでは否定する理由にはならないと思う。

http://macska.org/article/47

・・・ちょっと“「特権のある側」から「特権を受ける側」へのクロス・アイデンティフィケーション”の部分がよく分からないけど、ともかく。現在リンク先の記事ではmacskaさん本人から書き直しが行われて、この箇所について正しくは“「特権のある側」から「抑圧を受ける側」”であると表記されています。
男性としての権力性(ポジショナリティ)に敏感になりつつ性別違和を訴えることはある程度両立すると私は思いますし、アイデンティフィケーションを批判的に注視することと性別違和の訴えを尊重する事はある程度両立すると思ってます。

そう考えないとMTFは自分の性別違和を訴えられなくなるし、さすがにそれは認めがたい。だから目指すべきは、あらゆる方法で諸問題と各不利益をなるべく軽減してゆく路線でしょう。もちろんゆんゆんさんもトランジションそのものは否定していないけれど、MTF他のトランスが性別違和を訴えることを一方的に「特権や利益を自覚してない」とジャッジしていて不当だし、仮に注視した結果問題点があったとしても相手の性別違和を笑わなくたっていいでしょう?

・・・まあ、「冗談めかして」の部分がいけなかったのかもだけど、誰だっていつも神妙な面持ちで抑圧を語らなくたってイイと思います。というか、自分の権力性を隠蔽する文脈でもないんだし、自分のブログで単発的に「男扱いは気が滅入る」と愚痴を書くぐらいで「特権や利益に自覚的ではない」と断定されるのは、・・・正直困ります。仰りたい事は分かるのですけどね。

ちなみに事実確認として言うと、私は「女の子に見られたい人」ではなく「男でも女でもない人」です。一応今のところは。


・・長いけど三点目。再び引用します。

女性で「自分が男だったら……」「女でなかったら……」と夢想しなかったことのない人は結構少数なのではないでしょうか(私はこれは女性のミソジニーだと思います。ゲイや異性愛男性と違って不利益を蒙るのはもっぱら女のほうですが)←統計的根拠が必要だというのなら^^ここの箇所は削除してくださっても結構です。主旨に致命的ダメージを与えるわけではないので。

えぇと、個人的な問題は置いとくにせよ、この文脈でこういう事を言われますと、(女性の)シスジェンダーとトランスの権力関係を隠蔽したいのかと疑ってしまいます。杞憂だといいのですが、何せ多様性を理由に両者間の差異をなかったことにするレトリックは割とありふれてますので。


更に細かい話になって恐縮なのだけど、四点目(三点目の続き)。

のだださん含めた生得的な男性の場合、男性として女性差別から特権を捨て去ることが、「MtFトランスジェンダー」になるコストに加えて、「男性になりたい」「女性でありたくない」という欲望と天秤にかける対象になるのでは?

いやー、ぜんぜん(苦笑)。
むしろ「その特権群全部いらないのでこの立場から抜け出したい」みたいに思い込むことまであるかもしれません。
それから心苦しい話ですけれど、私は男性から様々な性的視線を浴びせられている女性ポジションに一種憧れさえ抱いてて、しかしその『憧れ』は「女性は男性にまなざされるもの」という固定観念を背景としてるわけで、オリエンタリズムな視線が自分にもあるんだと思います。だから時に「女性の実体験を知らないくせに」と怒られるでしょう。その批判は甘んじて受けたいです。ただ、別の言い方をすれば、ストレートな男女の利害がそのまま直ちにこちら側に適用できるとは限らないんですよ。
そんな訳で、「特権性とトランジション(とその結果)を天秤にかける」という考え自体、どこかしらシスジェンダー的発想な気がします。(まあ性別違和に限らず心は人それぞれでしょうしあくまで私の実感ですが。)


で、本題。
もしやゆんゆんさんは「女性には内面化したミソジニーのために性別越境を夢想する人が多くいる」ことを理由に、性別違和に関して言えばトランスと非対称な権力関係がない(?)と主張してるのでしょうか。
しかし、そもそもトランスの問題はたとえ女性地位が向上しようが(あるいは男性に対する扱いが大幅に変わろうが)終わらないものです。対して、ゆんゆんさんが仰るような多くの(シスジェンダー)女性が抱く「性別違和」というのは、トランスのように性自認の次元で働くものではなく、性別役割や性別格差の次元で働くものが一般的ではないでしょうか?
もちろんこれらも一言では語れない複雑さがあるだろうけど、まさかトランスでもない多くの女性が(与えられた性別と)異なる性自認を持っているとは正直考えられません。

もちろん、自分の性別に対する扱いが不当に感じるとき、シスジェンダーとてジェンダリズムの抑圧を受けていますが、「男性女性はこうあるべき」という社会規範と「与えられた性別として生きるべき」という社会規範の違い、それによる抑圧の違いは大きいのではないでしょうか?そしてこの面において、ーーー自分の性別に何らかの葛藤を抱かさざるを得ないにしろーーーシスジェンダー女性が特権的地位にあることは事実だと思います。よってここで問うべきは、彼女たちがトランスの性別違和を「へそ茶」と笑っても、はたしてそこに権力的な暴力がなかったと言えるのか、ということです。*1


ゆんゆんさんが例示したように、確かに特定のカテゴリはいつも一定で均質なものではないし、揺らぎもあると思います。その意味で両者のボーダーは曖昧と言えます。
しかしながら、それにもかかわらず実際私たちはシスジェンダーかトランスかで権力に差異があり、後者が(女性を含めた)シスジェンダーの権力によって差別されてきたという歴史は動きようのない事実だと思います。そうしたとき、シスジェンダー内の特定集団を切断し、その集団だけを両者間の対立構図からズラす言論は、それ自体が権力を持つ側による差別隠蔽に近しくなる恐れがあるかもしれません。・・・そりゃあ差別加担の有様も個別的に見る必要はあるし、個人が集団に属してるからって全ての責任を均等に押し付ける事も出来ませんので、とても難しいジレンマですよね・・・。
私自身、トランス(と呼ばれ得る)磁場とシスジェンダー(と呼ばれ得る)磁場のどちらにも引き込まれており、すでに両者の間に作られてしまった権力関係と無縁ではいられませんし、無縁な人はいないでしょう。ということは、各ポジションは最初からけっして一枚岩的ではないながら、様々な立場から様々な作用があって今日の「シスジェンダーの特権」や「トランスの問題」が維持されてる、と言えそうです。


最後に。これは私も最近ひしひしと感じてることなのですが、相手に厳しくなるなら自分にも厳しくなる必要が少なからず出てくると思います。
男性のミソジニーと女性のミソジニーでは内面化の事情も違うだろうし、言動の意味も変わってきますよね。そういう細かな違い(と意外な近さ)や権力について厳しい視線をお持ちになるのは必要な事だと思います。ならばこそ、男女以外の権力関係にも厳しい視線を持ってほしいと思います。

*1:もっとも、ゆんゆんさんは私に対して「へそ茶」と言ったのだから、トランスとは言いがたい気がする私への言動を『トランスへの言葉』として解釈してはいけないかもしれない。だけど、実質的にトランスとシスジェンダーの話になってるので一応書いておく。そして私に対する言葉だとしたら、すでに書いたように「非礼だなぁ」という感想を持っています。