クィア入門総括、後編。

やたら長くなった。お暇があれば、前回のと合わせて読んでね☆
では、後編。

(注:以下、セクシャリティ関連。)





三橋順子氏。

この方は、女装家であり、フルタイマーではなく、パートタイムのトランスをする人で。つまり、一時的にジェンダーを越境するということだすね。

所謂TVの範疇に見られる人だろうが、伏見氏が氏のセクシャリティを「どう呼べばいいか」聞いたところ、広義的なTG、トランスジェンダーでいいと言った。
TVではなく、あくまでTGとして呼べばいいと仰られるのは、ジェンダーの越境やジェンダーのあり方自体を柔軟に捉え、広く解釈することができる(本来不明瞭で可変的ものである)と認識されてるからじゃないかなと思う。
と言うか、TV,TSとか言う分類をあまりシックリ来ると思ってないみたいよ。
伏見氏もゲイ、TG等も「とりあえず」暫定的につけられた名前である、と言う注釈が必要だという。

伏見 [・・・]性的主体というものの構成を、性自認ジェンダー性的指向性、セックス(生物学的な性)、その四つの独立したパラメーターでとらえていこうという議論を出したんですね。それはなぜかというと、同じ同性愛的な行動をとる人間でも、あるいは異性愛でもいいのですけれど、先の四つのパラメーターの動き、方向性はずいぶん違うんですね。それまでジェンダー性的指向は連動するもののように捉えられていたけど、たとえば、セックスが男性で、同性に性的指向が向かう人でも、必ずしも、[女制]のジェンダーではないし、ジェンダーが[女制]でも性的指向は女性に向かっている人もいる。僕は性は「個性」と言っていいくらい多様なんだということをどうやって表現したらいいかなと思ったときに、その四つで性的主体のチャートを作ってみた。でも最初のチャートでは[・・・]性自認の多様性をちゃんと表現してないんですね。[・・・]性自認を男/女という二つのベクトルで表現するだけでも事足りない。

性自認、つまり、自分がどういう立ち居地に立てるかどうか、あるいは立ちたいか。これによる人々の差異は全く持って混沌としている。なぜなら、言語的ジェンダーという出発点から私達は、性(自認)のありようを、自身の認識的次元を遠く離れた形としても配置・表現できる性質を持ちえるからだ。
それにより、性自認性的指向の関係性が大変多様・多元的となる・・・。つまりは、「男→女」や「男→男」という、性自認(自我同一性)と欲望する側のジェンダー(他者性)の関係を、より制限のない形で表出させることが可能な性質を(人間という存在が)持ちえる。ということなのだ。

三橋氏との対談で私が一番学んだと感じたのは、要するにこういうこと。


セクシャリティを、一元的でない性のあり方を実践できるものとし。尚且つ、自身のセクシャリティの重要点を、必ずしも「他者への欲望」という点に集約されるものと限定しない。

、ということだ。

三橋 [・・・]私みたいなタイプは根本的に二元性、二元的なんですよね。つまり、男の私と女の私と、二元的であることが大きな特徴になっているんです。

そう、ジェンダーを「越境」するのだ。三橋氏の場合、性自認*1は行き来してナンボ、というわけだ。
自身の性を二元的な取り扱いにして、越境すること自体が、自身のセクシャリティの実存なのだと語る。勿論、趣味と言うお話でなく。*2
これを伏見氏のゲイ・アイデンティティーと並列して見ると、なかなかセクシャリティの多様性を見捉えられ、興味深い。目的と(広い意味での)指向性をもって機能する性自認。このような解釈も今更ながら新鮮に写った。


しかし、二元的である、と言うのも暫定的な物言いであり、氏のセクシュアリティの本質を必ずしも説明しているとは限らない。

三橋 [・・・]私は境を越えて戻ってくるんですよ。いま二元的といったのは、トータルな面でみて二元的なんで、私は女装をやっているときはジェンダー的にはかなり女なんです。それでいてやっていない時は結構まともに男です。[・・・]

三橋氏は越境する、つまり性を振幅させるその過程(というか変化前後の落差)を自身のセクシャリティの重要点だと語る。

より柔和、混在なもので、フレキシブルに拠るグラデーションを可能とした性認識。性の実践をより自覚的にし、且つ能動的に構築する様。
そんな印象を持った。

変わることでなく、変化を起こすことでそこから自分自身に、越境する側のジェンダーを見つけるという作業を重んじる人も居るんだとか。*3
「男女」をこのように、固定的に捉えるより(越境する過程において)「見つける」という作業は、なかなか世間一般ではお見受けしないので。人間の認識とはかくも広い可能性を持つのかと改めて思った。

伏見 SMってもはや「性」という概念を超えた領域にあるんですよね。[・・・]同様に、女装の快楽もほとんど社交的なものじゃなくて、ジェンダーアイデンティティーを「振幅」させていくこと自体の快楽なんじゃないかな、と思ったんですけど。けっこう独立した快楽の領域ですよね、これは。
三橋 そう。それを確かめる行為としてセックスを使う。確認行為なんです。
[・・・]
三橋 自分の女装の評価を確認するために男を相手にする。女装が目的でセックスは手段。[・・・]セックスは二の次なんです。

まあ、しかし。女装する人の中には、男とセックスしたいがタメに女装を手段にする人もいます、とのことです。これはあくまで自分話との事。

その後、ジェンダージェンダーの言語に関するあり方を議論された。これも興味深かった。私達はセクシャリティについて使用する日常的認識をいくらでも問い直してよさそうだ・・・。しかし、このような多様である自分の実存に合わせられるキャパシティが社会に在る事が、結局は重要なのではないかと思った。
三橋氏に関してはこれ↓
http://subsite.icu.ac.jp/mt/cgs/post_57.html



次、ハッシーこと橋本秀雄氏。
・・・インターセックスクィアの範疇に入れていいものかは、議論の次元と内容、議論する人とで違うだろうが、それはそれ。とりあえず、インターセックスについて、セックス(生物学的性)についても楽しんでみよう。
先にインターセックスに関しての情報をあげておく。私は科学的なことはノーサンキューであるので、ここで参考にしていただきたい。↓
日本インターセックス・イニシアティヴ


インターセックスにまつわる言語も学界での議論で色々変化があろうが、とりあえず、この本におけるハッシー氏の解釈を引用。

ハッシー 両性具有というのは真性半陰陽、本当に男性器と女性器の二つあるのを指すんです。僕の場合は半陰陽といいまして、両方あるわけではなくて、あるように見えるわけです。

ハッシー氏ご自身は、染色体がXYでホルモンを受け止める受容器と言うのが不全で、あまり男性ホルモンを受け止めてないとのこと。
遺伝子が命令しても、ホルモンが働かないので男性器が形成されない、と。
伏見氏はインターセックスとして、具体的にどのように運動されるのか?と聞く。

ハッシー 先日、大阪府弁護士会人権擁護委員会医療部会の弁護士と会って、[・・・]法律的には、雄は精巣があるもので、雌は子宮を持つものというふうに決まってるんですって。つまり僕たちのような半陰陽は法律的にはないものとして無視されてるわけですよね。[・・・]
伏見 ハッシーがその弁護士の方に会ったというのは、何をどうしたかったからなの?
ハッシー 医療過誤の問題です。人権擁護委員会に異議申し立てをしたところ、男性、仮性半陰陽尿道下裂の場合、これは医療過誤になるだろうと。
伏見 なんで医療過誤になるの?
ハッシー 男女の区別ができない外性器を持って生まれた子どもは、内性器をチェックしても、まだ未熟で医師もどちらか判断できないんです。だから、もしその子どもの内性器に子宮のような器官があれば女性器に、前立腺のような器官があれば男性器に形成してしまうことになるわけです。検査をしているうちにその子どもの出生届を出す期日が迫ってきて、進退窮まったところで、医師が両親に男性器にするか女性器にするか選択させるそうです。
[・・・]
伏見 つまり、どちらかの性に医者が無理やり性器を作っちゃうということが問題。
ハッシー 本人の意思を無視した医療行為です。

ただ、適切な医療と、文化的ゾーンの仕組み(男女と言う制度)で強要される身体の健康上不要な手術とが、どのようなバランスを保たせるのか・・・。これは充分医療的見地と医療の倫理観との折り合いで、慎重に取り扱われないといけないといけないと私は思う。


そして、インターセックスの重要点。アイデンティティー。
ハッシー氏は、外国当事者団体とインターセックスの子ども・子どもの家族の交流が、仲間のネットワークとして存在するという。そして、ネットワークの中で子ども達が孤立をしないよう同じような気持ちを持てるコミュニケーションが存在することは「人情ですよね」と言う。

伏見 でもさ、尿道下裂で女として育てられたら、その人のジェンダーアイデンティティーは女で、自分は女だということに感覚としても疑いを持たない人が多いんじゃないかな。そういう人が他の半陰陽者との共感を求めたりするのだろうか。
ハッシー やはり、自分は女だといいたいでしょうね。僕も僕は男だといいたい。[・・・]男である、女である、というアイデンティティーが崩壊してしまったら、行き場所がなくなてしまう。自分を女でも男でもないインターセックス=半陰陽であるとしてしまったら、性別自己同一性の崩壊を招いて苦しくなる。 

しかし、結局医療の現場で、「性別」がどのように解釈されるか、の問題でもあるのだとしたら、それは単純にアイデンティティーの問題とも言い切れない。(社会全体のことでもあるしなぁ。)
ハッシー氏は、半陰陽のジレンマ(?)を危惧しつつも、それがあるからこそ・・・なのか、第三の性を提示できたら、と思ってるみたい。
その後は、ご自身の身体の取り扱われ方を具体的なところで語る。
三歳くらいに病院に連れて行かれたときの事。医者は、おそらく停留睾丸であるということは分かっていたであろうが、はっきりとは親にも言われなかったと。親を安心させるため、「こういう人はいくらでも居る」と言われたそうな。
家族はその後の身体の変化に対しても、タブー視しておられたみたい。学校の先生も同様。
身体そのものをタブー視される中、性に関することは何も言葉に出来なかった。
そして、個人的な性欲の事に話題が移る。

伏見 エッチな気分と言うのはハッシーの中にあまりないの?
ハッシー ないですね。ムラムラっとするのはない。
伏見 でも、性欲がムラムラっていう感じだとどうして知ってるの?
ハッシー 皆が言うから。
[・・・]
ハッシー あ、キュゥンはあるよ。
伏見 [・・・]けっこう難しいよねぇ。お互いの感覚を言葉にするには、まだまだ性に関するボキャブラリーが少ないんだもの。

あと、セックス観。
どうも彼は性的指向性自認は曖昧みたいで、学童時代も周囲のヘテロ的話を聞いても、「どうやって入れるねん」となったとか。あと、ゲイ男性との確執とか・・・。(それは違うか・・・。)


で、アイデンティティーの問題に話を戻して。
難しいかもしれないが、「中性って言う性もあるはずだ」、・・・といいたいとのこと。性別自体がそうはっきり分けられるものでもない、との実感があるようです。で、あくまで性自認は「決めるのは本人」と考えておられる。まあ当然。
で、インターセックスにも色々種類みたいのがあって、人によっては早い時期に何らかの処置を施さないとアイデンティティの崩壊を招く危険性があると指摘*4。そのとき、「男女」以外にも「自分は両性具有者(半陰陽)なんだ」という選択肢も置いておきたい・・・ということらしい。色々現実的に難しいことではあるけど。


次。
花田実氏。
この方も、ゲイであると同時に障害者である、と言うことで、幾分身体の事に関わるのでその点をもってしてクィアの範疇に入れていいのかわからないが、花田氏の視点を見ていこう。
まず、脳性麻痺の障害に関しての説明で始まる。

脳性麻痺について。花田自身は、脳性麻痺と言う言葉のイメージが、「脳が働きにくく何もわからないし何もできなくてかわいそう」という連想に繋がるようで通常はCP(Cerebral Palsy)という言葉を用いる。1968年の厚生省脳性マヒ研究班は定義を「受胎から新生児期(生後四週間)以内に生じる、脳の非進行性病変に基づく、永続的なしかし変化しうる運動及び姿勢の異常である。その症状は満2歳までに発現する。進行性疾患や、一貫性運動障害、または将来正常化するであろうと思われる運動遅延は除外する」とのこと。(飛松好子「シリーズ障害者リハビリテーション入門10」日本障害者リハビリテーション協会

あと、自身はデブ専なんだとか!貴乃花のような人がタイプで、ペンネームも花田にしたんだって!きゃぁあ!w
彼はゲイとしての交流をしていく中で、やはりゲイ男性の中にも障害者である事からの差別や偏見を受けたという。ゲイの中に障害者が居るのは当たり前。パン屋さんの中に日本人やフランス人が居るのと同じこと。
で、障害者の自立生活のための支援団体にゲイである事を言った上で電話相談をしてみたところ、拒否するような口調で「今のところそういった問題をやっていく予定はありません。」と言われた。「自分で考えてください」ってなんだそりゃ。

花田 [・・・]でも、チョット前に言っておかなければならないことは、「障害者の性」といっても、別に特別なことではありません。「障害者と性」と表現する方が的確だと思います。[・・・]具体的には、健常者がつくりあげた、男性が女性の上に乗っかって結合する行為を「正常位」と呼びますが、このような「正常」と呼ばれる行為にとらわれずに障害者が性や生を楽しむことができればと思います。

この本は少しばかり古いのだけれど、現代の世間においても、あまりに「正常」という言葉を美化された位置として意識しすぎではなかろうか?ヘテロで一般的性嗜好を楽しむ人達も、色々な「性の肯定」を成す必要があるだろうが、しかし。それにしたって、なにかを自分達の視点から見て、「逸脱」だとかどうとか捉えるような不当な圧力をそこに置いてしまうのはどういったことか・・・・?
肯定の為に排除を行うようでは、他者に対して不当な圧力をかけるだけで、本来的目的とは違うはずの「差別」さえも生みかねないのではないだろうか?
身近なことではあるが、そこに潜む排他性に気づける視点を持ちたいものだ。

そして、彼はCPということで、他者の援助が必要な立場である。(家族と言うのは誰にとっても権力関係であるが、花田氏はそこからなかなか逃れられないよねと伏見氏は指摘する。)その時、ゲイである事で排除されたり被害をこうむるとき、自立的な生活が保証されてないと、そのことが原因で命さえ危うい・・・という現状が人によってはあるのだ。
そして彼はこの本では、家族にカミングアウトはしていないとの事。
そういえば、最近のパレードでも障害者としてパレードに参加をした方もおられたようだ。
パレードをともに歩く(3) (GayComニュース061)10/13掲載+大阪パレードの画像(10/21開催) | わたる 's blog - 楽天ブログ
このようにひとつの差別の中に埋没しがちな複雑で多層的な差異を可視化できたら、と思う。
彼自身、「ボク自身にとって、ゲイと障害者は表裏一体で、決して分断できるものではありません」と自らのアイデンティティーを語った。

伏見氏からは、筑摩書房からのこの本を「まことに残念なことですが、対話者の一人であります花田実氏が、2002年春に急逝されました。障害者と同性愛の問題をその活動で世に問うた彼に、感謝を込めて、この文庫版を捧げたいと思います。」とあとがきにて書かれました。


次。
川本恵理子氏。
最初「レズビアン・セラピィの会」の活動について伏見氏が質問。そしてその活動をしていく上で、レズビアニズムとはなんなのかと考えてきた・・・とのこと。
レズビアンの定義に関しては、自身のヒストリーを交えて語りだされている。
自身がレズビアンである事を確信したのは中学の頃、ある女の子と親密になりたいと思ったとき。性的なことも欲望した。
恋愛感情という言葉がよく分からないと語る川本氏。しかし、その言い様のない気持を「惚れる」という言葉で認識したとか。
それで、その感情は友達に対する物とは異質だった。しかし、それを恋愛だといってしまうと、自分はレズビアンである事を受け止めると同時に「異常者」のレッテルを貼られると思い。それを恋愛と言えなかった。
で、そこから色々あって、なかなか認められなかった感情を認め、「レズビアン」と言う言葉を引き受けることにしたんだという。
伏見氏は、ゲイである自分の欲望と「ゲイである」という認識が欲望を中心軸になっている事から見て、ゲイとは違い、レズビアンをアイデンティファイする人達との距離を川本氏に話す。レズビアンを自称する人々には(ゲイと異なった)いろいろな立場が見られ、その中身は多様である事に注目して問いかけるのだ。
・・・つまるところ、レズビアン・セラピィの会では中身が異なるレズビアンを、どこまでをどういうふうに区切るのかということだ。
川本氏の答えは、
「女が女を愛する、と言うことかな。」と言うものだった。
それは広い意味での愛であり、主義主張でのレズビアンや性欲からのレズビアンやライフスタイルからのレズビアンを明確に分けるような定義ではないとする。

レズビアンアイデンティティを)性的欲望にだけ限定することは危険であると捉える。(女性が性的存在として否定される可能性を考えて。)そのようなわけ方では、排除されるレズビアンがでてくるということだ。
伏見氏と川本氏は、「セクシュアル・オリエンテーション」というのは、非常に男性的な概念だと語る。

そして、彼女は(この本の中では少なくとも)パートナーがおり、その方のお子さんと暮らしている。


米国では盛んに議論されている事だろうが、世間ではゲイやビアンが子を育てるのは子どもに対して悪影響ではないか・・・と言うアホっぽい感覚がある。
2004年のことだろうと思うのだが、「米国心理学会The American Psychological Associationが、同性婚支持を打ち出した際、同性カップルの両親と異性カップルの両親との間になんら違いはなく、子供の心理的健康や幸福は、両親の性的指向には影響を受けないことが判明した」と、発表したらしい。とのこと・・・。*5


子どもさんは、オープンなカップルとしての二人のありように、「自分の親と川本さんは友達ではない」とちゃんと認識してるようだ。
子どもさんは、川本氏のことを「川本さん」としか言いようがなく、ここにも関係性のボキャブラリーが少ないことが見える。(まあしかし、この場合それは結局どうでもいいことなのかもしれない。)
そして、これから子どもが受け止める事実に対してはこう言う。

川本 これからだよね。私達は言語ではなく、生活実感から学んでるっていうところがあるでしょ?言語では社会的な偏見があるけど、基礎的な生活実感は経験できていくわけだから、それをもって子どもたちには伝えようと思ってる。
伏見 生活実感がベースにあるって強いことかもね。子どもたちだって、自分達にとってふつうの生活はふつうとしか感じられないもんね。[・・・]

社会の中の偏見とは、一体どこからどのように噴出してきたものなのか?少なくとも、レズビアンマザーの存在を悪として捉えるのは、そう思った人自身の問題でもあるようだ・・・。
実感が実態を捉えていないということはよくある事だよね。それをしっかり検証した上で、人の権利をどのような範囲で見捉えるのか。(それを私達はただのなんとなくある「実感」で解釈して断言することをしてはいけないのだ。それは時に私的な搾取になるであろう。)

川本氏は、パートナーのお子さんを「家族」だと言い切る。
家族の形と、その認識は結局当事者自身の問題であり、当事者の実態とか意識とかに拠るものが大きいのではないだろうか。*6
よって、家族形態を誰かが一方的に恣意的に縛るということは、誰かの実態だとか望みを不当に奪うことになるのではないか。私達は、私達のあり方を、これからも(ときには実態に合わせ)固定して、しかし流動的に変更可能な存在として保ち続けられたらいいと思う。



次。柿沼瑛子氏。

彼女は、私にとってとても興味深い立ち居地に居るので、ちょっと深く見ていきたいのだけれど。今回総括と言うことで、主にセクシャリティの部分を見ていく事とする。
日本の中の、ゲイ文学の需要と、「やおい」にその市場を移されたことを、“女性たちの欲望”と絡めて簡単に話されている。柿沼氏は、ゲイシーンの「どこがいい」って、「はっきり言ってセックスシーン」と断言w
微妙な、わかりづらい経緯からそれに惹かれている、と。
ゲイの関係性がヘテロと違い、そこに純愛を見出せるから好きなのだと思っていたが・・・どうも、純粋な欲望らしい。・・・とのこと。自身もよく分からないんだとさ。
やおいの需要はあくまで、純粋な興味だとか欲望だとかではないかと語る。やおいを求めるその出発点に、「ヘテロの恋愛は女性に対して抑圧的」であるからこそ、やおいに流出された女性はいただろう。が、それはあくまできっかけである、という見方のように私には思えた。
「従来のヘテロものに飽き足りないというか、どうしてもこういうものが必要な人達が居るんですよ。」

そして。女性がやおい(というか漫画や文章)を欲望することと、男性がポルノ的な情報や生の物を求める傾向とを比べて両者は語りだす。

柿沼 想像力を広げやすい方が好きなんじゃないのかな。だからそれこそ『薔薇族』と『JUNE』の違いなんじゃない。『薔薇族』って即物的じゃないですか。だからあれじゃ女の子の夜のおかずにはならない(笑)。

ただのロマンスの欲望というイメージからではなく、ひとつの欲情の仕方として、一般とみなされるヘテロ的文化では掬いきれない欲望の需要がそこにあるのではないか・・・ということかなと感じた。
そして話は最後に、日本のゲイ・ブームが女性が担ってきたというひとつの見識を持って、腐女子の系譜にも語っていた。

自分の欲望と自分の現在のセクシュアリティとが、矛盾するギャップがあるとか変容しあうとか。そのようなことを柿沼氏は自身に感じておられるのやも。



最後。松沢呉一氏。

ヘテロの人がペニスに関してどういう感覚を持っているのかをまず話し出す。
要するに、マン・ヘイティングはそこにあるか?と。
松沢氏本人としては、どうも自分のペニスには愛着と言うような固執があるみたい。固執というか、それが自身のセクシュアリティに直接重要な意味やあり方を持たせると感じておられる。「ペニスは自分の兄弟」。どこか他人めいた存在であるとする。
あと、ゲイは性的に他者に見られることを意識する立場になりえるわけだが、ヘテロ男性の(時代による)ペニスの誇張の仕方と言うのは、文化的な抑圧や他者との性的な関係から来る需要によって変わりえる物と氏は捉えている。
ジェンダー的な関係がそこにある、と言うことなのか。


中学生くらいの頃、自分の性器を性的対象に見る傾向があったらしく、ペニスを通して自分を欲情する形でのマスターベーション・ファンタジーがあったらしい。
しかし、この人は面白い。感覚が直なのだ。
この人も私同様、妄想派みたいw子どものころから妄想しているので、大人になってマスターベーションの物語が長くなったと感じている。
・・・この本ではよくマスターベーションファンタジーと言うのも問われるのだが、性が早熟だった人を見るには、これはとっても有効で有意義な作業だと思う。なんたって、子どものころからの早い時期の「性」を見る事で、本人の性の全体性を歴史的に見通せる。自身のセクシャリティを紐解くにはそれは絶好の素材なのだもの。
マスターベーションの中にも、欲情の仕方とか傾向とか中身には差異があるみたいだ。
そして、私がいいなと思ったのは、

松沢 俺個人で言うと、わりと勃起しなくてもへっちゃらだけどね。事実、最近立たないことがけっこうあって、そこに対する不安もなくはないけど、[・・・]本当はべつに射精もしなくていいのになっ、て思ってるんだけど。射精するかしないかっていうのが、俺の中で、絶対的な価値になってるわけではないから[・・・]
松沢 [・・・]精子はオナニーで出せばいいやってところが、どっかにあるんだよね。だからセックスする以上は、オナニーですむ範囲じゃないことをしたい。

それで、結局セックスは、相手を満足させた充実感や支配欲が満たされたってことで求められるみたいらしいんだけど。
でも、私。固定観念というか偏見と言うか。男性は正に排泄の為に性を消費するのかな?て言う化石みたいなことをどこかで考えてて。でも当然セックスはそのような単純な排泄行為というだけではない。
彼の欲望は確かに私にとって恐怖の物かもしれないけども、彼自身がセックスはコミュニケーションなんだ、と言う意識があるみたいで、そこに私は少しばかり好感を持てた。
あと、他者のペニスはどうでもよくて、尚且つペニス以外の部位はあまり重要でなく、感じもしないらしい。

ペニスがある男性にとって、射精と言うのはやはり大きい位置にあると思うだが、それはある意味、身体性の事情とも言えるだろうか。身体的性が、性欲望(この場合快楽が主)に直接働きかけるということがあるかと思うのだが。しかし(少なくとも松沢氏にとっては)、快楽と自身の性認識(イメージ)が合さるとき、それは、単純に身体と欲望の独立的乖離ではなく、(快楽と性イメージの)融和の発生なのかもしれない。
身体と自我がかかわりあう中で、自分の中のあらゆる要素で構成される性欲望が複雑な個性を生む・・・。そういうことがあるかもしれないと感じた。
彼自身、想像力の幅が広いのと同時に、身体性への正直な解釈が、かえってセクシュアリティの本質の多様性を見出してくれてると感じた。(勿論、多様性であるのだから、性の多様性を見捉えるのは「混沌とした中の性欲望の経路」であってもいいのだが。)
そして、実際、彼のナルシスティックな要素と自己の性自体とがかかわり合うとき、彼のセクシャリティの具体性を浮かび上がらせてくれる。
単純な話だが、性格と身体性、それがあって始めて個人のセクシャリティは具体性を帯びるのだな、と。ヘテロの中にも確かに多様性はあるな。なぜか性の多様性と言うと、セクシュアルマイノリティの方に集約されがちな言葉であると思うが・・・。


そして、そういった自身のセクシャリティと「恋愛」という文化が混ざり合う時、やはりそこにはなんらかの溝が出てくるものなのだ。

松沢 [・・・]付き合いの中でべつにセックスを媒介にしなくてもいい節があるんだよね。でも通常、恋愛に入り込んだとたんにセックスをすることになっているわけだから、一応するけども、こっちとしては単に仲がよければいいんじゃないかっていう気もある。[・・・]必ずしもそのときにセックスがなくてもいいような気持ちがどこかにあるんだよね。でも一番わかりやすいつながり方としてセックスがあるから、しなかったらしなかったで不安になるかもしれないしね。分かりやすいからそこでセックスと言う手段を使っている。
伏見 性が中心でない対の関係も、本当はあるんだよね。実際に長く付き合ってりゃだいたいそうなるわけだし。でも現在の考え方としては、無理やり、性的排他性みたいなところにカップルのアイデンティティを持っていくことでつながっていこうとする。[・・・]僕等はいままで、性を中心にして人間の対の関係を考えすぎていたっていうところはあるよね。

つまりはそういうこと。この本で私自身一番何が訴えかけられたって言うと、あまりに既存の社会的関係性のあり方に慣れすぎて、私達本人が持ちうる可能性とその本質をどこかに忘却してしまってはいないか。ということ。
どうしてもそれ(既存の性文化)がシックリきてて捨てがたいというのなら、それは結局その人の個性であり、その人の実存であったんだと思う。そういう性認識をちゃんと根本的意義から保障できないことには、結局(セクシュアルマイノリティだけどころか)現代の性文化に馴染んでる人にさえ、ニーズが合わなぬゆえの排除・抑圧をしてしまうのではないかな、と感じる。どうだろうか?
私達は私達自身の土台に目を向け一旦立ち返って、その意義・目的と本質・・・そして私たち自身の公共性への反省を持ったほうが過不足なく生きられるのではないか・・・?
さしずめ、家族のあり方や、性認識のあり方を、何度でも問い直す形を取っていけたらと思う。




最後の最後に。
この本は、基礎も少しは学ぼうかと思って手にしたが、最初ちょっと刺激が足りなく物足りなかった。まあ色んな人の体験を交えて性を見直すのにはいいかと思ったものだが、侮りがたし。人に歴史あり。そこにこそ、
我々自身の持つ『性』が見え隠れするものなのだと思った。
性は生。この本を機会に、いろんな性への体感を受け取れてよかったと今では思っている。

長いことお付き合いくださって、読者様もありがとうございました。それでは、読んでくださってありがとうございました!

*1:というか、この人のは性役割かな?

*2:と言っても、セクシュアリティが趣味嗜好とどうかけ離れられるものであるかは全く持って不明だが。

*3:その作業も、人により大きく差異が出そう。たとえば、越境するときに越境する側でない方(たとえば自分側の)のジェンダーを見つける、と言うのもありだろうし。その目的も意義も人によって様々だろう。

*4:というか、身体の健康上で考えても危険性のある場合もあるみたい。先のリンク、「医学的な質問」の性腺形成不全についてを参照。

*5:http://tummygirl.exblog.jp/tb/772325

*6:YOUTH TALK 14 石川大我さん調査~ケータイの「家族割」同性パートナーで利くかどうか - YouTube