異性愛VS同性愛に頭痛。

今回は、人様の読書した上の考察を引用して同性愛否定に疑問を投げかけつつ、それとは関係ない少子化と性愛について考えてみる。


2007-03-05

──ただ、一つ疑問もあるんです。倉数茂さんも「ヤコブの末裔」〔『早稲田文学』二〇〇二年五月号〕で指摘していますが、それは同性愛の問題(註)です。大西さんは、同性愛の行為やその芸術上の表現について、法律上の権利を完全に保障すべきであることを再三確認している。ただその上で、社会的な水準ではやはり反自然的であり、人間社会の発展にとって推奨されるに値しない、とも書かれていて、そこでは先に言った相互性の原則がない、異性愛と同性愛が対等に扱われていないように感じます。これは今日の社会的な了解と比べてやはり時代的な制約があった、ということでしょうか。

大西──いや、そうは思わんね。これは詳しく言わないと誤解を招くけれど、人間の性行為というものは、どうして考えてみても、やはり種族保全と快楽と、両面がある。それが一方で言えば、人間が一般動物よりも上位のものであるということだろうし、他方で言うと、恨めしいものであると思うが、同性愛は、種族保全の意味から言って、ゼロなんだな。だから推奨すべきものではないと思う。しかし、これを法的に差別することもまた反対であると、あの時書いたし、今でもそう思っている。今の世の中で、同性愛にはいろいろ功罪があるというようなことを言うと、いい加減な馬鹿者が、同性愛を差別していると思いかねないが、そういうことではないんですよ。偏見はないけれど、今言ったような二つの面があるから、決して世に推奨するべきものではない。それは今も思っている。

註・同性愛の問題…「同性愛および『批評文学』の問題」において大西は、「同性愛に関する学問的研究ないし芸術表現の自由は確保せられるべきであり、その自由に対する性的・検閲的禁圧が不正不当であることは原則的に公認せられなければならない」と確認しつつ、「同性愛は、社会的・政治的には、まさしく反自然的・反倫理的な現象なのである」という判断を下している。


そもそも性交が種族保全と快楽の二面性がある、と云うのも、所詮は一つの見方でしかあるまいし、他の視点に変換不可ではないっしょ。
そして同時に、同性愛が反自然・反倫理とするのも、「どこで」「誰が」見たかによるはず*1。(仮に反自然・反倫理だと断じられたからと言って、推奨されるべきか排斥されるべきか、と云う議論にはたどり着かない。←存在の否定は必要なのか?)


で、同性愛が槍玉にあがるとき、なぜか異性愛との対立図式で捉えられるが、異性愛と同性愛は対置なのか?対置であるなら、どういう文脈で対置なのか。

上と関係ないけど、少子化関連の違和感について。


特に槍玉に挙げられるときの話として、少子化やら、生殖の問題などと絡む場合が多いように思えるがどうか。
でもそれは、実は擬似的な問題化なのだと思う。


少子化という現実が、社会という私たち人類を囲む箱庭の中でどう解釈されどう捉えられるか。それは、私たち自身が信念道徳で判断するものではないのでは?社会と云うひとつひとつの約束(?)の中で、それ(少子化)がどういう結果を及ぼしどういう意味を持つのかという吟味の末にやっと見えてくるもののように思う。そしてそこが議論の本拠地ではないか。
つまり、「どう扱おうか?」という問いがあるべきで、最初から断ずるものではないはず(て勝手に思ってる)。そうしたらば、(少子化の話題において)同性愛を推奨すべきでない性と捉えるかどうかは、(本来少子化とは関係ない話の筋で)ただのイデオロギー論争のダシに使われるのがオチで、本質的ではないのでは?


たとえば少子化を数学、というか形而上的なものとして分析するのは当然ありなわけで。そうして、「〜〜を〜〜すれば〜〜になる」という学問的な諒解を得て、政治がそれを援用(?)するのも当然ありえていい。それが学問にとっての社会への還元(の一部の例)だからね。
でも、そこから、政治がその諒解を認知したときにその知識と事実自体をどう取り扱うべきか、は直結した話ではない。ただ、知識は知識であり、それ自体をどう政治的な場に乗っけるかは、私たち国民全体が協議していくべきことのはず。


そうであれば、直ちに奨励をすべき立場性、と云うのは自明のものではなくなるのではないか?
私はそもそも異性愛や男女自体を生殖の道具と見るのを良しとしない。*2
たとえば少子化と云う協議すべき対象を見る事で思うのは、そもそも国民は生産的であるべきか?ということなわけだが・・・・。
まず理解できるのは、国民が生産的であると云う事実。言うまでもないよね。で、国民を国家が生産性として扱うことは、もはや異論を唱えることではないのだろうか?どうなのだろう・・・?*3


まず、引っかかることにこういうのがあるんだけど。
生産的である、という事実を認知することと、生産の道具として見捉えることとは距離があるように思う。なぜならば、(たとえば国家が)生産の道具として見る事は、期待*4という観念的な要素が孕んであるように見えるからだ。


生産的かどうか?


勿論事実ではあるが(そういう側面もあるが)、その事実から国民を生産の道具“として扱うべき”かどうかは、議論の余地はないものなのか・・・?つまり、事実生産的である国民(と云う名の個人)を、国家や社会が生産性として扱うことへの抵抗感があったりする。
これはラディカルな見方のかもしれないが、私はその、一個の事実(側面)から個人を固定的に縛る視座を嫌う。


今現在は、社会の中で機能している実際の部分と、それをどう取り扱うべきか、という議論の次元での関係が、直接繋がってる気がする。つまり、少子化ダメ!〜〜を〜〜すべき!という断じる形式が成り立ってる気がするのね。
それに私なんかが異を唱えることは、何か議論の素地とか議論の前提を知らないからか?と不安なのだが、誰かご教授願いたいものだ。


異性愛も同性愛も、政治的ではない他の文脈から愛されてきた経緯があるだろうけども。では、政治的になった途端、それらは生産性という軸で語られるものになっていいのか?
よもや実際に異性愛と云う立場性があり、同性愛と云う立場性がある中、政治の話になったときそれらの立場性が社会にもたらす結果などが吟味反省されるのは当然の事。しかし、立場性ばかりを見るのは違和感がある。
結局少子化をどうしたいかという協議の中で直視したほうが良いと思うものは、異性愛同性愛と云う立場を談じることではない気がする。まずは、生産性のある当事者をどう社会の中で扱う(囲う)べきかということが先決じゃないのかな?と思うけれど、なんだかそれも違う気がする。*5

*1:自然という視座において同性愛を論じたとき、なぜか自然という概念が一面的に捉えられてる気がするのだが、どうでしょうか?

*2:ゴメン、理由は単純でね。そうしてしまうと私の立場を悪くするからと云う理由です。でも、私以外にも私にも抑圧的である価値感を放置する意義などないではないか。

*3:それを、社会に生きてる者として許容しなければならない現実とするならば、それはどれだけの範囲で許容するべきで、どういう境界線があるのかな?個人はどこまで自由を保障される?

*4:それも「当然そうあるはず!そうあるべきだ!」という類の強めな期待。

*5:なんだか、物凄く青臭い事書いてる気がするのは私だけ?