ありきたりな、だなぁ。

下と関係ないけど。
http://spa.fusosha.co.jp/ent_3071.php
なんていうか、こういうのって1人で忙しないネェ。とか思っちゃう。



今はようつべでBLの翻訳も読めるので便利みたいね。
アメリカンやおい

あっちでやおいを英語にしたり、こっちでスラッシュを日本語にしたりもしてるみたいよ?
私はせいぜいBL商業誌読むだけですが。

http://coolboys.jp/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=8704;id=talk
で、同性愛とBLに関しては、とりあえずこちらにある論争だけでも把握しておくと議論しやすいかもしれません。(というか、このテーマにおいてどういう議論がなされてあるのかが、この掲示板のやり取りでイメージできるかもね。)

そういえば私も最近DVD『BOYSLOVE』で「禁断の愛」て文句を出してることをエントリで書いた気がする…。ま、他の箇所でも突っ込むところは突っ込んでみてください。


ていうか、多分私がBL描いたって美化しちゃうでしょうね、ゲイ。どういう美化かって言うのは人それぞれだろうけど、私は「ゲイ」という存在を本当に「知っている」のかと問われるとどう答えていいかわからないもの(ゆえに、自分の中の美化と評価されるようなイメージのゲイを表現するかも。)。これは何の名前にも言える事だけれど、たとえば「セクシュアリティ研究」とはどの領域を指すのですか?と問われれば、「人がセクシュアリティと呼びセクシュアリティと認識する集合的な知を研究する領域」くらいの意味不明な回答がなされるんじゃないかと思う。学者じゃないからどうとも言えないけど。
そういうものに対して、どうしても「この描き方が『より当事者視点だ』and『現実的だ』and『美化していない』」という言い方をしてしまうけれど、それは実は逆で、美化されたりとデフォルメされた姿と云うのは、実は現実を逆説的に説明してるわけだから、逆に対象を立体的にする効果を持つと私は思う。まず答えがあるのではなく、「見えざる本質」という(偶像を崇拝するかのような)「真実」の上で語ることから「答えと思える答え」が証明されていくんじゃないかしらん?*1
この「読み」と「語り」の膠着(構築?)状態の関係を読み解くことから、「現代において『ゲイ』がどう語られうるものか、どういうものとして社会的に存在しているか」が見えてくるわけで。
文化的なものを文化媒体を通して読み解くのは、実は(やおいなどの)美化されたファンタジー性を消費するだけにとどまらず、表象の分析と云う意味を持つのではー。

*1:念のために言っておくけど、私は「ゲイはいない」などと言ってるわけではなくて、「ゲイとして」生きている人々が社会文化の中でどのように存在しているか?という構築主義的な視点でものを言ってるわけよ。