ブクマ感謝劇。社会を作る多数の意見。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nodada/20070412

2007年04月19日 rocoroco3310 米欄参照。管理人様の言っていることに深く同意するが、今現在の社会では誰もジェンダーから自由ではないのだから「今の」社会においては女性という性自認を尊重しないことは「してはいけないこと」でいいのでは?と

うん、ぶ熊ありがとうございます。
読者様にはここでまず注意しておきたいけれど、このブクマは中村中の話ではなくて、性自認の尊重の仕方の事を言及してます。
それで、雑誌YESで中村中は、男女どちらの実感もない!みたいな発言もしていたそうですから、女性の性自認を尊重するべきかどうかは本人に聞いてみないとね。でも、コメント欄で読者様と意見交換をした内容とブクマの内容は中村中性自認がどうであっても直接的に関係ないので、このブクマも当然(中さんとは関係なく)意義あるコメントでした。そう、結局はこのブクマの意見は「今」においての戦略論を語っているようなものだと私は解釈する。注意終わり。


確かにジェンダーと云うものがあり、社会の中の仕組みはジェンダーに基づいた形でも作られてるのだよね。そうしたとき、誰もが完璧にはジェンダーから自由とはいえない。
そういうことだから誰かのジェンダーアイデンティティ性自認)を尊重しなければ、特定の人だけが不均衡な状態に陥る。そのことで不利益を被っちゃいけないだろう。じゃあそうなのだから、結局現時点のような社会の中では「性自認を尊重しないのはしてはいけないこと」とするのが良識で、現時点でとるべき姿勢なのだ。という意見が全体に共有されるべきか?というのが議論の焦点になると思う。


んーとね。でも性自認って結局なんだろ?男である事?女である事?では、そのどちらでもない人の尊重するべき性自認とはなんなのか?
で、私的に問題だと思ってるのは、この世の中には性自認があるひとばかりではないということなんだよね。そりゃ皆が性自認を持っているのなら話は簡単。「みんなの性自認は尊重しましょ!それが社会的合意であるべきだ!」という意見はあってもよい。
けれど世の中は男や女にアイデンティファイしてる人ばかりではない。性自認のない人だってこの社会の中で共存しているのだ。そして、性自認と、さらには性別というものの取り扱われ方と云うのは、性自認のない人にだって影響はあるわけだし、性別カテゴリ関連の話には性自認のない人の意見だって十分に吟味されるべきだ。
そうしたとき、性自認を尊重するというアクションが「期待されるべき行為だ」という社会的合意がなされる場合においての「性自認のない人への取り扱い」と云うものも無視されるべきではない。
私は、「性自認を尊重するべきだ」、から、「性自認を尊重しないのはしてはいけないことだ」、というのには少し距離があると思っていて。
性自認を尊重することには反対する理由もない。逆に尊重されないことでの不利益に反対する動機すら私にはある(アイデンティティの等価を求めたいからね)。けれど、一度性自認の扱いに関して「してはいけない」という『強い期待』を認めてしまうのなら、性自認は常に「ある」べきだとする向きが強まるのは必至だろう。そうしたとき、性別カテゴリを全体に共有させるべきではない!という意見と対立しちゃうかもしれない。ではどちらが尊重されるべき意見だろう。
性別カテゴリを全体に共有させるべきではないという意見は少数派だろう(性自認がない人も少数派)。だけれどだからって無視されるべきではない。では、少数派を苛めるのはいくないことなので多数派が譲ってあげるのが適当か?それは違うと思う。どちらのありかたも認められたらいいと私は思う。お互いの立場で意見を交換して、権利?の調整を図るのがベストだと思う。(社会の設計図はなるべく皆の手で作られたほうが良いと思うし。)

じゃあこの場合、私が述べた意見とブクマの意見はどう調整されるべきカナ?それはこれからいろんな場で議論されるべき難しい問題だと思う。
で、私はこのどちらの意見も必ずしも対立したり分裂する意見でもないと思う。根っこは案外似たようなところにあるんじゃないかとも思うし。
ただ、これらの意見が共闘できる場面ばかりではないと思う。性自認を尊重する、と一言で言っても、それはとても広範な意味を持つだろうし、そのひとつひとつのアクションがどういう結果を及ぼすかは未知数だ。勿論「性自認なんて尊重されなくてもダメージがなければそれでいいじゃん〜そういうのを目指そうよー」という意見からのアクションだってどういう結果を及ぼすかはわからない。もしかしたら性自認を巡って意見が闘争しなきゃいけないこともあるかも。
でもだからってどちらかの意見に二者択一的に傾かなければならないというわけじゃないと思う。私は結局はそのどちらの意見も、この「今」において必要な物だったのではないかと思う。どちらの意見もあり、その意見から学ぶべき所は学んで、色んな意見と立場を吟味した上で社会の在り様を批評していけばよいのではないかと思う。結局はどう調整つけるか、という話に移るのではないか??と私はとりあえず思っていて、どちらが欠けても危ういんじゃないかなぁと思ってる。


あるひとつの意見からのアクションが後々与えるだろう効果と云うものを十分に吟味していくのは必要だろう。で、私はどちらの姿勢や態度を取ったとしても、そのどちらか一つだけが認められるべきだ、という話にするべきではないと思う(←そうしてしまうとどちらかの意見が事実上抹殺されうるから、特定の立場に不利益を被る危険があると思うのだ)。「性自認を尊重したほうがよい」と云う意見と「性自認を尊重されなくてもいいんじゃない」という意見は、どちらも「べき」という強い期待へと自動的に摩り替わるとは思わないのだけれど、これらの姿勢態度の「どちらかしか認められない」と結論付ける必要はないんじゃないかな?と考えてます。甘い意見なのかもしれないけれど、どちらも重要な指摘だと思うし、ちょっと食い違っていたとしても、AorBと並べることで対立させちゃうのはもったいないんじゃないかなぁと思う。一つの意見が社会を作るわけじゃないんだものね。
私はどちらの意見も、いろんな立場を認める上で必要ではないかと思う。