ユリイカ・「BLスタディーズ」京山あつきインタビュー。

これ、いまだにほとんど読めてません。あまぞnで注文して届いてから幾日か過ぎてるのですが、私は、特にこういう論文の場合、「読みたい!」という衝動が駆られたときにしか読まないのです。なので、今のモチベーションでは大事なテーマであるBL論(と言うか今回の“も”腐女子論でしょうか?)を読む気がしない・・・。*1
そんなわけで今のところ読了する気配がないので(年内に読める気がしない)、とりあえず作家インタビューのほうだけでも取り上げて今年のユリイカへの言葉とさせてもらおう。

-京山あつき 『いつも本当に本気なので』

まず、単純にこの方にインタビューできた聞き手さんに嫉妬します。それと同時に、面白いインタビューを読ませてもらったことに深く感謝を申し上げますv
・・・で、感想ですが。どうしてか、私にはこのインタビューの一部に、一種の違和感を感じました。どこかって言うと、聞き手さんの行う京山作品の特性への評価と、それに対する本人(京山さん)の応答が。
では、その私的な(?)違和感を感じつつ、しかしソレを解きほぐすためにも、とりあえず「はじめに」の文章を引用する。(長いけどごめん)

はじめに

 京山あつきの作品は、他のどのBLとも違う。まず展開が一筋縄じゃいかない。『仮面ティーチャー』の主人公は少年大好きの小学校教師。もう最初から決して恋は叶わないことが確定している。『Kiss Meテニスボーイ』の受けはすっかり攻めに陥落しているんだけれど、攻めが全然先に進もうとしない。登場人物たちは、BLのお約束であるラブラブ状況になっかなか到達しないのだ。それに少年たちの描写が非常にリアルだ。少年は妙に恋愛体質だったり素直ないい子だったりするのがBLのお約束。ところが京山作品に登場する男の子は、みんな意地っ張りだったり、妙なこだわりがあったり、自分の欠点を見ようとしなかったりと、現実世界に本当に存在しそうな生々しさを持っている。一筋縄じゃいかない展開もその少年らしさのせいだ。

京山作品には一度味わったら抜けられないような独特の味がある。そして京山作品から感じられるリアリティは、現在起こっているBLの新しい動きの先駆けになっている。

まあ、『仮面ティーチャー』は置いとくとして、『KissMe〜』の読解として私はもう少し違う印象を持っているので述べさせてもらう。聞き手である吉本さんは『KissMe〜』の攻め・「カナメ」のことを「BLのお約束ではない、現実世界に存在しそうな生々しいキャラクタ(つまりは“リアル”)」として見ているように読める。(誤読だったらすいません)
けれど、私はここで若干に「腐腐腐、そうじゃないんだなぁ〜」と思ってしまう。その理由は、カナメの“らしさ”は「リアルさ」にあるのではなく、「奇妙さ」にあると見ているから。*2
カナメが「BLのお約束」に到達しないのは、単純に彼が奇妙であるからだ。 読んだ人なら分かるだろうけれど、カナメには「妙なこだわり」がある。それは、お話の最初の時点で設けた「テニスで勝ったら相手にチョメチョメ出来る」というルールと、それを遵守しつつ性交渉に至らなければ気が済まない、というこだわりのことだ。
これを「少年のリアルさ」として解釈するのには無理があると私は思う。だって、彼のような特異なセクシュアルコミュニケーションは“普通ならざるもの”と言う他無いし、社会文化と言うものは往々にしてそういう普通ならざる“逸脱”を「リアル」として記述したがらないのではないか。よって、カナメという少年を表象するなら、「奇妙だ」と言うくらいが妥当に思う。
吉本さんは「一筋縄じゃいかない理由はこの少年らしさのせいだ」と言う。けれど私には、この「奇妙さ」こそが、吉本さんの言う「BLのお約束」を“逸脱”している理由なのではないか、と思う。*3


・・・さて、なぜ私がこんな作品解釈を対置させたかと言うと、これが引用部分に対する私の趣旨に関連しているから。
吉本さんは「京山作品はリアルなのだ、そしてそれは現在のBLの先駆けとなっている」と言う。けれどここで私は、微妙に、ではあるけれど、引っ掛かりを感じてしまうのだ。(只のやっかみに読めたら大変申し訳ないのだけど・・・ごめんなさい。)
まず一点目。前半の引用部分では「妙に恋愛体質だったり素直ないい子だったり」する少年を「BLのお約束」だとした上で、それとは異なる京山作品を「リアル」として対立させて見せている。つまり、ここでは「BLのお約束」である男性像は「リアル」ならざるものだと位置づけられているわけ。そこでまず私は引っかかりを感じざるを得ない。

・・・ちょっと脱線するが、BL作品に対する一般的な評価の中に、「BLのキャラは割とすんなり男とのセックスを受け入れるけど、現実ではこんなに簡単にはいかない!*4」というものがある。この言説への価値判断はひとまず置いとくにして、この言説にはいったいどのような意味づけがあるだろう。私は、この言説の行為性には「簡単に男を受け入れた男」を「リアル」ならざるものとして位置づける効果があると考えているわけね。つまり、「ビッチな男は非現実的」と言うわけだ。
けれど、そういう男性が実際に少数派であったとしても、「リアル」ならざるものだとは言えない。なぜなら、“リアル”にそういう男性は存在するから。「リアル」な存在を「リアルでない」と意味づけることは、つまり逸脱的な男性を周縁化・忘却するということだと思う。
では、引用文章に戻ろう。「恋愛体質で素直ないい子」、ここらへんの指摘には、・・・(BLの)物語性のための“都合のいい”役割をキャラクタが担わされている・・・というニュアンスがあるのだろうと思う。私もそれは非常に強く感じるので、吉本さんがそれを「BLのお約束」と位置づけるのには頷ける。しかし、その「お約束」な男性を上記のような二項対立図式で「リアル」ならざるものとして位置づけることには、どうも納得がいかない。
「リアルならざるものだと言うくらいなら、『現実世界では珍しい男性だ』とでも言えばいいんじゃないのかしら?」と思うわけ。
二点目。「現在起こっているBLの新しい動き」という後半の文章について語ります。この文章では、「リアル」ならざる男性の在り様(とされているもの)を、『古い』BLの表現だと位置づけているように読める。この点が、微妙に、微妙にではあるけれど、引っかかる。これでは、「(新しくない、つまり)古いBLにおける男性描写は非現実的・・・(?)」というニュアンスが、わずかながら、ある、ような気がする。「これだとBLが描いてきた男性性は現実には無かったものとして周縁化・忘却させられないだろうか?」という、ヒステリックかもしれない不安が、私の中には、微妙にではあるが、ある。
マンガの語りには、往々にしてこういう言説があるのだけれど、それにも増して、なぜかBLだけは、「リアル」ならざる表現として特別視されてるかのような印象がある。(大して根拠は無いのだけど汗) その現状において、「BLに出てくるこの男性(性)は非現実的だ」みたいに言っちゃうと「BLで描かれてあるから」というだけの理由で、社会に可視化されていない男性が現実にはいない者として片付けられてしまうのではないか、と不安になる。これは日常的に周縁化されがちな「男性」である私としては、どうも居心地が悪いです。
・・・最後らへん、吉本さんは「ゲイ」をリアリティの象徴として持ち込んでるんだけど、吉本さんに限らず、なぜに世の中はゲイネスのない男同士の(恋愛)関係をファンタジックなものとしてしか認識できないのだろう・・・?「ゲイではないけれどパートナーは同性」というのはリアリズムに反するのだろうか、どうなのか。


さてさて、前置きが長くなったが、それではインタビューへ。
京山さんは同人から入った人みたい。そこで、道原かつみさんに出会うことでプロ漫画家を目指した・・・と。

と、ところで・・・。
京山さんってば、『仮面ティーチャー』を自身のBLロマンとして語っていらっしゃるようなのだけど・・・、あれを「BLロマン」だと言っちゃう京山さん、・・・大好きwww

京山 〔・・・〕読んで気に入ってもらえるものを描きたかったです。『仮面』の続きを書くという選択肢もあったんですが、担当さんが「このままこの路線だと局地的にしかウケない恐れが・・・・・・」とボソっとおっしゃって、震えまして、「もっとお嬢さんに愛されたい」と(笑)。

・・・えーと、「お嬢さんに愛されたい女性」がいわゆる「腐女子萌え」ってやつですか(?w?)『腐女子体系』の溝口論文を思い出しました〜。

―― マンガ以外の別ジャンルでぴんと来るものはありますか?
京山 たくさんありますが〔・・・〕 
 たぶんドキュメンタリーが見たいんだと思います。思わぬことが起こる面白さとか人物の背景がリアルなのがいいんですね。現実感があってなおかつ丁寧に、ドキュメンタリーで流してくれるところがいいんです。

面白い!ここで私、ちょっとひらめいたんだけど(笑)、あのー、皆さん?これからは「このBLってリアルっぽい」と言い表すときには「このBLってドキュメンタリーっぽい」と言い表しません?コレ、なかなかいい言語選択だと思うんですけど・・・w
もちろん、「ドキュメンタリー」も編集されたものなので、虚構であり、ある意味「ファンタジー」なんですよね。けれど、ドキュメンタリーには、ファンタジーでもあるなりに独特な<デフォルメの仕方>と言うものがある(ような気がする)。そういうものを普通は「リアル」と言うんでしょうけど、けれどそこで「リアル」と言ってしまうと、何が「リアル(現実に在る)」かそうでないかを決めなきゃいけないことになる。そうなると、「誰にそれを決める権限を与えるのか」という問題がどうしても浮上してきますので*5、どうせ同じ「ファンタジー」なら、「『ファンタジー』ではあるけれど生々しさの感じられる」というニュアンスのある、『ドキュメンタリー』という語彙で代替させちゃうのも手ではないでせうか。いかがでしょうー?


で、最初の引っかかりに戻るのだけれど。

本物の少年らしさへのこだわり

―― 京山さんの作品からは、少年に対する強いこだわりが感じられます。たとえば『さよなら baby』のたまきは全然大人の言うことを聞かない意地っ張りですね。これは非常にほんとの中学生っぽいと思います。それから仮面ティーチャーの子どもたちがすごくやんちゃで子供らしいですよね。その理由はどうなんでしょう。
京山 本気ですから(笑)本物の子どもが、好きなんです。

京山 〔・・・〕
 マンガの好きな人にも、架空の二次元っぽいものしか受け付けない人と現実っぽいキャラのほうが好きな人と、あると思うんですが、私はリアルショタ好きのほうで。ロリショタじゃないのです。リアルショタでもやっぱり理想化はしてるんですけど【強調は引用者による】。性格とか。でも理想しすぎた萌え少年の話を描いて身近な人(妹とか)が読んだら、ふふ、と笑うわけですよ。〔・・・〕それが恥ずかしくって(笑)。だからなるべく夢見すぎじゃなく描くようにしてしまいます。それでリアル風にしてしまうんだと思います。
 コメディにしてしまうのは照れ隠しかもしれないです。*6

うん、「ショタ」が「ロリショタ」よりも「リアル」だと捉えられる現状を認めます。その上で、なぜソレが「リアル」らしさを演出していると私たちが認識しているのか、信じるているのか。その理由を暴くのも楽しいのかもしれません。
さて、これはマンガ文化への私からの言葉なのですが。 「少年」というものを題材にしているのは少年漫画でもBLでも同じことですが、その「少年」という、いわばシンボルのようなイメージがフェティッシュなものとして在る*7、というのは、おそらくどちらのマンガ文化でも同じだと思います。

そこからさらに言うならば、「リアル」とは言い難い(とされる)萌え少年を描く作家も、おそらく京山さんと同じく、並々ならぬ「少年へのこだわり」があると思う。
そして、その「少年」はフェティッシュな欲望の創造物であるという点においてはまったく同じであるけれど、しかしやはりどこか違うと私も感じてしまう・・・。それはなぜだろう?
私たちが「リアル」だと信じる少年像とはいったいどんなものなのか。その「リアル」である保障はどこにあり、何が維持するのだろう?
そして、「リアル」でないとされた少年像はどこからどこへ向かうのか・・・などと無益で格好付けた言い方をしつつ、今回の言及を終えるとしよう。

  • 自覚と無自覚の間にある少年→生々しい
  • こらえた末の男の子の涙→「男がいちいち泣くなと言われてこらえる」日本人男児らしさ
  • 凡庸さ=「野の花」→引田のエロさ(性的に無防備なノンケの印象)
  • 自分を分かってないキャラ、「自分と他人の視線のギャップ」萌え・・・第三者的視点?
  • 裸と<ストイック>→エロスへ〜・・・実在の男性の身体への性的視線?

*1:だから読む気のあるうちに届けろとあれほど・・・。しかもネット注文した後になって近所の本屋に置かれだすし・・・、もうテンション駄々下がり。

*2:http://d.hatena.ne.jp/nodari/20070928←私のレビュー。

*3:まあ、それを“あえて”「リアルなのだ」と主張することには私もけっこう頷けるし、そしてある意味面白い言説だとも思うのだけどw

*4:アナル挿入の話じゃないよ!男とセックスすることへの許容、の話です。

*5:私もこないだこの点で失敗した気がする。

*6:あるあるあるある!今時照れの無い作家なんてそれこそキワモノだよ!笑←そうでもないですか?BLジャンルではどうなんでしょう?

*7:後半で京山さんは「現実の少年への欲望ではなく、ロマンチックな空想」として自分の作品のリアリティを語っている。