他人様のエントリーで、我が事を書く

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20061127

ひー、調子こいてトラックバックしてみる(てゆうか仕方わかんないんだけど、わかんないならするなって感じなんだけど、URLコピるだけでいいのかな?)。
思うところあったのでブログも持ってて丁度いいし、いつもの考えをメモメモ。
いいかな?いいよね?駄文だし。「ダメ」って言われたら削除する。  あと、すごいダラダラ長文。読んでる方マジごめん!

まず上記のエントリー読んで欲しいのだけど。
いや、私さ、実を言うと愛より好きがネックな人なのね(エ?誰も聞いてないって?あははは!)。だし、BL読んでるときも実は愛より、キャラクタの「好き」って感情を読み解きたいのね。
だからね、例えばとある攻めが「愛してる・・・キラリ*」て言うじゃない。んだと、あーこの攻めは受けになんかしらの好意があってそれを最高の効果をもたらす表現で伝えるためにわざわざ「好きだよ」ではなく「愛してる」って言うのね!と読み解いてるの(煩わしいことを・・・)。つーかさ?要はどっちも感情というボルテージ(この場合ゲージかも?)を評価してもらおうと、表出できない感情に意味づけを行ってるのだと(勝手に)思ってるのね。
なぜか現代の日本では「好き」より「愛」が上らしいから攻めも一般的評価の高い「愛」という言語を使って、受けにより強い「好きだよビーム」を発しているのだと・・・。そんな表現にこだわるほど受けが好きなのかよっ!てときめくんよ、私。よくわからないけど、そこにはとにもかくにも好意があるのね?!て思えるからさ(>v<y 好きは愛より実存的。つまり、信用が持てるの。
しかしだ。表現法方としての「愛」と「好き」の双方は共に一種のボルテージ(ゲージ、ポテンシャル?数値幅?)表現方法だと思うが・・・。でも認識ではそうではないような気がする。チョット考察してみようか。頭悪い事だし。

こちらのエントリー読んで困ったんだけど、私そもそも愛ってゆうのがわかんないんだけど。
例えば、「恋愛」と言う「文化」は中世のヨーロッパから作成されたとそこここで聞くんだけど。(miyakichiさんトコではルネサンス時代のヨーロッパで発明されたと過去日記に記述されてますです。2006-06-22の雑記。)
んで、私頭悪かったんでそれほど教養詰め込むガッコにいなかったわけですが。高校通ってた時期、(確か文明開化のあたりの話だったと思う)「西洋から来た“ILOVEYOU”という言葉はもともと日本語に訳せなくって当時の人は困ったらしいんだけど、そこで「愛し(かなし)」を使って「愛してる」という造語を置いて訳したんだよー」的ことを国語の先生に聞いたような覚えがある。(かなしについてはコレがhitした→なまえのある家「Rupa」13 「愛し(かなし)」ということ ) 
どうやら、日本で言う元々の(?)「愛」は、現在の「愛してる」より情感溢れる深い意味が混在する様子。
んで、なんか最近の社会をざっとみてると「愛」が良くわからないところで好き勝手定義されてるように思える。

・・・・ああそうだよね。とりあえず、先にmiyakichiさんのまとめを引用してみるね。

まず第一の「ぼくたちも妊娠できますか?〜」本のまとめ

ポイント
欲望と愛は別物。
自己中心的な考え方を卒業していれば、子どもでも誰かを愛せる。
愛は長続きしない。長続きするのは、愛より好意

それと、「スクランブル」本のまとめ

ポイント
恋愛は一時の祭りであり、残酷なまでに非日常的なものである。

とある。

今回はまず、「ぼくたちも〜」本の方で反応してみる。私、まず「ぼくたちも妊娠できますか?〜」の引用部分に興味持ったのね。

自己の欲求ばかりの考え方から卒業できない人は、恋愛対象の人を自分になにか与えてくれる人としてしか見られず、自分がなにかを与えたいとは思いません。こういう人は、ほんとうの意味でだれかを愛することができません。

これなんだけど、「わ!正に俺の事じゃんっ。」て思ったのね。私基本自己中心的なんだけど。地球は地軸を中心に回ってるけど(具体的に言うと違うのかな?)、世界は(認識の中では)自分を中心にしか回れない・・・と思ってるの。宗教クサ!
ちびっ子の頃からこんな感じだったので、私とかく他人に共感しづらかった気がするんだ。そもそも自分の中で「恋愛」を定義しないから、原則他者の恋愛感情にはリンクできないし。*1んで、尚且つ私は他者に求める物と言うのが自己中心的な欲望でしかありえない。私のニーズはコレだ!てアピールしてそれを貰うことばかり考えてる。それチョーダイ!てなもん。
すなわち、私にとって能動的に関わる関係というのは大体にして実益が重要になってくる。私はコレコレが欲しい。貰うためにはそれ相応の対価を支払うべき。ならば交換しましょそうしましょとなる。だから、私は愛より好きが大事なのね。だって、時として「好き」は具体的だもの。こんな↑実益重視の関係に、具体性のない「愛」なんて使ってたら非効率だもん。て思ってたんね?だって愛は歴史的文化的価値観で、個々の主観に頼る物だもん。(自分で言っといて引く。)
なので、フィショフ博士の言うのとはちょっと違うかもしれないけど、他者を「与えてくれる存在」としか見てないと言う部分は本質的に一緒と思う。んで、愛について考えたのだけれども。じゃあ、私は「本当の意味で愛することが出来ない」のか?答えは勿論、出来ない、だ。愛情が分からないからね。そして、あえて愛の意味を仮定してみたとしても、確かに私には「本当の意味で」他者を愛すことが出来ないようなのだ。
どうやら多くの言説を見ていると、愛という言語が「好き」とは違い関係性を表す言葉のように思えるからだ。つまり、他者からも自己からも分け与えられるような“モノ”が愛なんだと私は感じた。この場合において「好き」と決定的に違うのは、愛というその存在そのものが(たとえ他者のものであっても)私物化できたり渡したり受け取ったりできるものとして認知されていると言う点だ。なるほど、私には感情そのものは交換出来る事はない。ならば愛せない。だって私は、「好き」という自立した(或いは、自己の中で独立した)根源的感情を用いて自分の行動を選択する。そして、その行動から発生する(相手のなんらかの「好意や或いは期待」に応えられるだけの)実際の利益を他者に与えようとするだけだもん。そのなかで、他者と物々交換をしたいの。そうすることが私の相手への想いになるから。私の場合、(先↑の攻めから受けへの「好きだよビーム」のような)“交換”が表現方法ということ。愛はそうではなく、伝える情緒的なものそれこそが具体的表現物質となるわけだ。愛自体がメッセージ・・・。私のは感情から選択された行為がメッセージ。*2フィショフ博士、面白い解釈だと思うのだわ・・・。どうやら本質的に愛とは、他者との間にも連続性のあるものとして取り扱われてるらしいぞ・・・?

私、miyakichiさんのエントリーで書かれたポイントにかなり同感(さっき自分で他者と共感が出来ないって言ったじゃねーか!)。
私は、出来れば使用するための言語を有効的に使用したいので、愛とか欲望とか好きとか何だとか別個に捉えたいのね。分離させようと意識する。つーか、あまりに愛の定義が不明瞭すぎる。(別にしないけど)議論の上で、既に合意のある学術的な定義を用いないと議論なんか出来やしねーぞ-w-;と思うのに、愛にはその幅に際限がなさ過ぎる。「え?それ愛って言わなくても好きで良くない?」て思ったりするんだよね。愛という言語には(「好き」とは少し違った経緯で、)歴史があるようだのに、総括的な共通合意(コモンセンスと言うのか?)が見当たらない・・・。と言うよりは、意味が分散していて取りとめがないように見える。勿論皆さん好きなように言葉を使っていただきたいけど。でも私ひとり混乱。なので言葉のニュアンスの無駄な広がりに、注釈を入れてくれるこのまとめがよいなと思ったんだ。ウレピー!再構築の予感^^?
なぜか恋愛市場において愛は欲望・・・すなわちセックス込みになってる。よく言うじゃん?「付き合うってことは、友情と違ってセックスするってことだと思う」ってさ*3。恋愛市場に首はさめない私にしたら「はへ?!」な説なんだけど。べ、別に友達ともセックスしたらいいじゃん(それぞれがしたければ、ね)。セックスと恋愛は読んで字のとおり一字だって同じじゃないじゃん。なら別物なんでしょ?なんで平気でごっちゃになってるの!と混乱。モチ別の言語だからって意味が重複しちゃいけないわけではないけど(むしろするだろ。)、本当恋愛関係においてはこのようなごちゃまぜがいらん諍いを生んでると思う。しかも性愛文化の抑圧と言う文脈から、無関係に見えるあたいのような外の人にまでも・・・(-д-;
なので、愛と「好き」を分けてくれるような 恋愛と欲情を混同するのは間違い (最後の総まとめの部分引用)て部分が使えるな〜と思ったの。・・・・あー。
やたら長くなったので明日に持ち越そうと思う。ワー,アホ臭い><;
このエントリーも編集イッパイするかも・・・・。ごみんに?てかもう書く事ないかも?
というかトラックバックなんて大層なことしたのに迷惑おかけしているようで申し訳ないです。
というわけで自己中心ブログ、続く。

*1:てゆうかワシ、「恋愛感情」なんて感情は原理的にはないと思ってる。ここでは詳しく言わないけど。

*2:あ、勿論メッセージがないと好きでも愛してるわけでもない、ということにはならない。片思い(という名の好き愛してる等)とやらは一方的な感情の積み重ねを(自己のイメージの中の)相手に半ば無意識的に、しかしコミュニケーションとしてではない形として表出させ押し付ける物だから・・・、メッセージを送るかどうかの関係性を必要としない。基本的に、ね。擬似的に想うべき他者が居るのだから、コミュニケーションを取ってるカップル(?)と基本同条件にあると思う・・・のだけど。・・・・・・しかし、そこにも「好き」と「愛してる」の差異は健在。なぜって、結局付き合っていようとなかろうと「他者」と言うものは、認識レベルにおいて言えばね?自意識内でどう仮想的にポジションを付与させるか、といった不確定の存在だから。その場合、いかなる自己のファンタジーにおいても、この差異ある言語は(言語自体がファンタジー内の消費物になり得ることから見ても)別途運用が可能だろうと思われるからさ。自己と他者の間では、言語自体が宙を浮く。(それは、恋愛においてとて顕著となるはず。)自意識内で存在自体がどのようなポジションに置かれるかは、人によってさまざまかと。そして、自己の世界観の中で、関係性と言語の互換性がどのように保たれるかは全く不明なのだから、そもそもメッセージ性があるかないかはいかな感情等を持つことに対しても問題にならない。だし、コミュニケーションについてのこの話とは一応最初から別話です。別と言うか・・・片思いの存在を否定するような、「コレとコレは次元が別れている話題だ!」て言うつもりではないですよーの意。て、自分で言っておいて何を言ってるのかわからなくなった。やば。このエントリーでは邪魔な見解だったかも。なんだったらスルーして?関係ないこと書いて混乱させたらごめん!

*3:まあ、ここでも付き合うが愛情とごっちゃになってるのですが・・・・。