クィア入門総括、前編。

以前紹介した『変態(クィア)入門』の私なり総括。
この本は伏見憲明氏が著者編者として纏められました対談形式の本です。まあそこそこ面白かったです。私がアホだったせいか、はたまた登場する方達の発想が今でも新鮮なものであるからか、結構興味深いところもあり面白かったです。
今回では、それぞれの対話の中で私が興味を持った部分の大まかなまとめを書きたらします。ちょっぴり長いですが、年の瀬でもし暇な方でもおりましたら時間つぶしにでもどうぞ。
(注:以下セクシャリティ関連です。)



変態(クィア)入門 (ちくま文庫)


伏見氏と対談なさるのは合わせて10人!
では本の紹介文を引用して、ここに。(大体本の通りに引用してるので情報が古いかもネギー。)

志木令子・元LOUDスタッフのレズビアン。 嶋田啓子・会社員のトランスジェンダー。 虎井まさ衛・作家のFTMTS+バイセクシャル。 麻姑仙女・TG活動家のMTFTS+レズビアン。 三橋順子・女装家のパートタイムのTG。 ハッシー(橋本秀雄)・三重大学非常勤講師のインターセックス。 花田実・ゲイリブ参加者で障害者のゲイ。 川本恵理子・「ジェンダーセクシュアリティクライシスセンター」メンバーのレズビアンマザー。 柿沼瑛子・翻訳家のおこげ?(ゲイ文学翻訳家) 松沢呉一・ペニス研究科のヘテロセクシャル
以上10名。


はい、いっちょいくよー。

まず。
志木令子氏。
ネイティブレズビアン
昔話をされる。自身のご先祖に「レズビアンだった」人がいたらしい。いわゆる男勝りな方だったらしく。オナベっぽい人だったとか。氏はそのご先祖の様を「当時の男女のパターンを擬したのかも」と考察する。
昔(80年代初頭)はレズビアンバーもおそらくなくhttp://www.medical-tribune.co.jp/ss/2004-1/ss0401-1.htm)、今よりネットワークが普及してなかった。*1雑誌の記事を見てレズビアンの集まりを見つけ、その会へ。

社会を変えるにはまず自立的にならないといけないと思い、経済的面、カミングアウト面等のケアを必要だとして「LOUD」をはじめたとか。
彼女はフェミニストの文脈からでなく、「純粋」に性欲からレズビアンだと自称してる。
小学6年の頃に性欲を覚えた親友がいた。
マスターベーションは小学2年くらいからとの事。その話を話していて、

伏見 じゃあ志木さんの持ってる性的欲望と言うのは男に近くて、性的対象がいて、ビジュアルで反応する。
志木 うんうん、そうだと思うよ。それは全然変わらないと思う。だから私がもし男性に生まれていたとしたら、すごく当たり前なことだったと思うよ。

という話になった。
彼女自身の性欲望の形態が「女として」稀有なのかオーソドックスなのかは私には不明。しかし、氏は欲情の仕方も男女変わりなく「下半身から突き上げてくる感じ」のものだと捉えていたようだ。
(以後、伏見氏が以前より感じた男女の性欲の性差を語る。)


志木氏は、自慰とセックスの違いに関しては、相手がおり、視覚と触覚が大事。と感じている。

言語化された関係におけるレズビアンを自称する人達と、本能的に女との関係を欲望する自分に差異を感じながらも、区別をする必要はないという。*2
志木氏は「主義主張で指向も変わる」ことがあると指摘。欲望の在り処とその表出の仕方とのギャップが生み出す個のセクシュアリティ・・・、もしくは「セクシュアリティ」そのものの実体の不可思議と不明瞭さが、社会的である言語の上で漂流するさまを垣間見た。

それから、ウーマン・ヘイティングとマン・ヘイティングの話が面白かった。*3
それというのも以下の会話はあくまで、レズビアンの欲望に関して言ってるのだが。しかしマン・ヘイティングの話が微妙にやりとりされてるのね。

伏見 女にはヘテロとホモの間にはさほど差がないって言う話ですが、女の場合、女という記号に美化価値が付与されてる[・・・]僕はやっぱり男の肉体に対するヘイティングってけっこうあると思うの。[・・・]男の体に対する嫌悪感ってすごくあると思うのね。
[・・・]
志木 じゃあ、たとえばヘテロの女がそういうヘイティングを持ってるとして、なんでそういう相手と寝られるわけ?
伏見 [・・・]女の欲望が男の視線を媒介にして自分自身に向かっているということでしょう。男の体はどうでもよくて。
[・・・]
伏見 そこはすごい違いだよね。やっぱり、女性の性的な快楽の持ち方の基本が受動態っていうのは、生物学的な領域の問題なのかしら。
志木 うん、性差があるのかもしれないね。でもその中にも主体的な欲望を持ってるヘテロレズビアンはちゃんといるのよ。 

これはあくまで、個人というよりは(『男女』と言う)集団としての差異をあえて言語化した内容の会話なので、女性の本質を固定的に捉える姿勢とは限らないので注意。
というか、ココの会話内容だけではなく、この対談集は全体的に言って、個人(対話者)のセクシュアリティに関して言及してるところが多いので、必ずしも、『男女』の性差を検証出来てるとはいいがたいかと。



次。
嶋田啓子氏。

伏見 性自認は男なんですか?
嶋田 最近すっごく曖昧になってきちゃったけど、もともとはずっと男だと思い込んでたし、男として女が好きだったこともあった。[・・・]
[・・・]
伏見 それでいつからジェンダーにズレが生じてきたわけ?
嶋田 いつからでしょうねぇ。小学校ぐらいから女装癖はあったけど。
[・・・]
伏見 性的な興奮もあるわけ?勃起しちゃうとか。
嶋田 うん。[・・・]セルフタイマーで自分を写真に撮ってたりしてました。女装してる自分にも欲情できたんです。

その後、軽くカミングアウト話になるが、両者共にそれほどわかりやすいバッシングはなかったとする。しかし、目に見えにくい形で「陰口」なんかあるあたり、日本的な空気はちょっと異様だなぁと思った。

そして男の性欲が恐かったと語る嶋田氏。
と言うのも、自身が抱える男的と見える性欲望が恐かった。性欲の強迫観念のようなものがずっとあったと・・・。
*4の場合、女性ホルモンを打つことによって、性欲のテンションが下がったんだとか。
そして伏見氏が「その欲求が解消される機会がなかったから恐かったのでは?」という指摘に「そうかもしれない。機会なんて全然なかった。」と言う。
性欲望自体、肉体的事情や精神的事情や境遇により、その成長の具合が幅広く揺れるということかどうなのか・・・?勿論個人の例は個人の事ではあるのだが。

伏見 マスターベーションはいつから?
嶋田 一番最初に女装したときぐらいから。だから11歳とか。
[・・・]
嶋田 ふつうのマスターベーションで思う対象って人間ですよね。私の場合はモノなんですよ。スカートとか、廃屋の中に取り残された女性ものの衣服とか。

更に、自身は夢の中で男に抱かれるシーンを見たりその続きでマスタベしたこともあったんだとか。欲望する女性のイメージとしては、集合的イメージと言う「女」を欲望し、「女」の具体性を必ずしも必要とするかどうかは不明らしい。
その上で実際に付き合った経験を語る。

嶋田 どっちが好きなんだろう?[・・・]これから女の子を好きになる可能性もある。
伏見 嶋田さんの性的指向はフレキシブルなんだ。うらやましいかぎり。
嶋田 [・・・]自分が好きになれば付き合っちゃうの(笑)。個人があって、次に男か女かって言うことが出てくる。

すべての人に(欲情する際)性別が必要でない訳ではない。だが、すべての人を見た時、その必要性だとか重要性とは、不確定で(そして流動的に)度合いの幅が存在するもののようだ。つまりは、性別が必要かどうかは、個人差ということだ。

その後、女性ホルモンにより(科学的身体的要素で)自身の感覚が変わるとかなんとかの話で。身体性の変化はどうなの?みたいな話になる。


で、パートナーの話になるのだけれども。

伏見 えっ!彼もトランスジェンダーとかトランスヴェスタイトで、性的指向バイセクシュアルなの?[・・・]
[・・・]
伏見 だけど、ベッドの中では男と女の異性愛パターンのセックス。ゲイっぽいセックスとかしないの?
嶋田 そういうのはないなぁ。見てみたいな、知らないから。私からしてみれば、そっちの方がわからないな。
[・・・]
嶋田 でも彼は男のまんまでは受身はできないから。受身になるとすぐオネエになっちゃうから。
伏見 受身=女っていうイメージは、古いヘテロセクシュアルの物語だよね。

↑なに、このツッコミw

最後に彼は、自身をトランスジェンダーとしてではなく、(自由に行き来するような意味なのか、)「オーバージェンダー」という造語で自身のセクシュアル・アイデンティティーを語った。


虎井まさ衛
まず最初に虎井氏が主宰するミニコミ『FTM日本』の話。
1994年7月創刊号が出る。
出した動機は、自分がマスコミに出ると山のように手紙が来て一人では対応できないため、媒体を提供すれば自分の負担も減るかと思ったからだとか。
(FTM)TS定義について語られてるが、*5

虎井 これは、素っ裸になったときに、男だと思われないと気がすまない、つまり性器が男性器でないと落ち着かない人

と説明されてる。ハワイ大学の教授と話したら、いま(90年代?)は学界的にそれで通用すると言われたんだとか。・・・ミルトンダイアモンドか?

彼は、どっちかと言うと、性同一性障害のようにTSを「障害として扱ったほうがやりやすいのでは」という見解みたいね。だから学界で科学的に究明されることも積極的で、具体的障害の要件が見つかれば、単に「心の問題」に還元されずにすむ、と見てるのね。
伏見氏は自分のスタンスから、個人のセクシャリティはそのように肉体的なことや生得的、生物学的な見地からのみ語られるものではないよ、と指摘する。
所謂、それは生まれか育ちか、みたいなニュアンスの話になっていったように思える。
そしてFTMTSの者も、複合的な要素によって自己の性をかたどってる事を虎井氏もちゃんと認識してる。

ジョン・マネーの双子の症例の話にもなった。
そんな中で虎井氏は、原初的な理由がなくても、刷り込みとか、文化的影響で性を変えようとする者も居ると思う、と語る。

伏見 ゲイの運動だと、原因探し自体が差別的イデオロギーを背景にしている行為だっていう切り返し方をするでしょう。セクシュアル・オリエンテーションを正常/異常・逸脱といった概念で捉えること自体が、ヘテロホモセクシュアルに対する抑圧だとする考え方。僕はそういう問題点に自覚的ならば、研究者は調べること調べりゃいいって感じがあるんだけれど、ただ、セクシュアル・オリエンテーションの問題にしても、原因をひとつに帰結するのはすごく難しい。
[・・・]
伏見 [・・・]やっぱり様々な要因の複合的な結果なんじゃないかなっていうのが、セクシュアリティに対する僕の考え方ですね。それはヘテロも含めてのことだけど。

というか、セクシュアリティが「せくしゅありてぃ」という言語である限り、複合的な因子・要素なりが重複をしあうことがまずあって。言語の縛りにより自身の性質が「融合」する形で存在するのは当たり前だよね。
だって、「大人」や「日本人」や「クリエーター」とかさ。そういう言葉って色々な要素だとか様子を包括する言葉であって。
たとえば、「おとな」という存在が根源的に空間に確立されてるわけじゃなくて、「○○は大人だ、△は違う。」とか、まず私たち自身が認識しないことには始まらない。ひとつの要素を持ってして「おとな」である者なんてないし、また言葉自体がそういうカテゴリーでもない。*6
だから、セクシャリティと言う存在が言語論的に言って「複合的である」ことは自明のことだよねー。
言語の上の話でなくても、単純に考えて。私達は(「本質的な」性質という意味での)脳で生きてるわけではないじゃない?
例えば、仮に血液型によって性格に有意な差が出るっていうのが、偽科学じゃなくマジ話だとしたらだよ?*7
「ノダダはA型だから几帳面でしょ?」と言われても、「几帳面な性格」になるには、まずそれが表出されるような環境にいないと駄目なわけじゃない。(生活がめちゃくちゃな状態じゃ、その検証さえ出来ない。)
そして更に生まれた後の出来事により、A型であっても「几帳面な性格」に見えない性格になるかもしれない。ここに几帳面でないA型が生まれることになる。


○だから△だ、て言い切るのは、このような「人が多様な人生を歩む」ことを全く考慮に入れない考えであるから、最初からダメダメだと思うの。



この後、虎井さんのトランス経験談とかをお話になられる〜。大きい手術とか小さい手術とか、へ〜って感じだよ。
で、それで最後にTSの戦略について伏見氏が虎井氏に質問をするんだけど。

伏見 [・・・]自己認識のほうに合わせて体を変えるわけじゃないですか、トランスセクシュアルというのは。[・・・]BTBっていうのを僕は考えたのね。BTBっていうのはブス・トゥ・ビューティー(笑)たとえば「私、こんなブスのはずがない」っていう人がいたとして、その、自分がブスじゃないっていう自己認識の方に、現実の顔の方を変えるっていう人が居てもおかしくない[・・・]つまりBTBとTSの区別を論理的にどこで設けるかっていうのは、すごい議論になるような気がするのね。

(TSに保険が利くようになるなら、美容整形にも保険をあてはめるべきか?と言う話。)
聞いたことないですよ!ありえません。ある個人にとっては観念的に同じに感じられても実質話の次元が違います。セクシャリティジェンダーの話はあくまで観念的な話とは別に議論されるべきものであるわけです。*8

これは次の麻姑仙女さんの方でも語っているので、後述します。



次。
麻姑仙女氏との対談。
どうでもいいけど、今の私には彼女の話がなかなか面白く感じられたなぁ。*9
まず最初にMTFTSの定義を話されている。
特徴的だったのが、虎井氏同様、TSがどういうものであるかという話で、(TSの定義としては)性器の重要性を問うている。
自身のセクシャリティに関しても「基本はペニス以外のプライオリティはない」と断言。
この見解には複雑な理由が挙がりそうだ。(しかし飛ばす。)

TSは「病気」か?と言う話で、伏見氏がホルモンも遺伝子も脳も男だっていう人にもTSはいるんじゃ?と聞くと、「そりゃあいるでしょう」、と言う。ならば、TSは身体の、と言うより心のありようと捉えられるのでは?という言葉には、麻姑氏は、

麻姑 [・・・]性器上の性に対する言語的同一性のズレ。身体の性をどう認識するかということ。でもそれは身体との関係なんだよね。純粋に心の部分だけでなくて。

と語る。

そして、TSリブの戦略の項で、先のBTBとTSの話になる。長くなるので今回本当は扱いたくないが、ここで逃しても多分書かないだけだろうから書くね。

伏見 現実を自分の観念に合わせていくことを正当化させるのなら、「私が、こんな貧乏人であるはずがない」とか「自分がこんな親から生まれるはずはない」とかって話も出てくるわけじゃない?TSの保険の適用が認められるのなら、BTBにもそれが認められるべきだろうし[・・・]

いーえ、ありえません。麻姑氏はそこのところ「そこまで考えてない」と言われたが、こんなの理論武装するほどのものでもないでしょ。最初から比較が不当なものであるのだから。というか比較する図式が成り立たない。

そりゃ、やってることは美容整形も性適合手術も手術なのだから?似てるような気がしないでもなかろう。しかしなぁ、ジェンダーの違和と美醜への固執を等価に見るのは納得が行かない。論理的な話にスケールを移行しても、両者には明確な別があるのは明らか。そのふたつの主張を、ただ、同質的な部分を有し理屈が似てるからと言って同じ壇上に上げる訳には行かない。

まず、対象に与えられている社会的意味と価値が違う。そりゃ美醜により受ける不当な扱いなどもあるだろうし、それについて軽んじるつもりもないけども、それはそれで別の議論が必要であるだろう。
でも、美醜とジェンダーでは、その縛りの要素と強さがあまりにも違う。
美醜で差別されることもあろう。しかしジェンダーはどうか。*10
戸籍と言うものがある。個人情報に美醜の欄はないが、ジェンダーは「男女」の形である。個人が社会的である時、その性別が大いに問われるのだ。法律でも社会全体としても文化としても性別で分けられる社会。この中で生きているとき、私達は男であることや女である事に多くの意味を持つ。公共性がある。つまり、男女というジェンダーの枠組みは、社会制度なのだ。
そうした中で、性別に違和がある・・・ジェンダーに違和があるというのは、時にとてつもなく大きな困難を持つこととなる。性同一性障害の人が、国外に旅行なりする時、パスポートの問題が出てくることから分かるように、最初に与えられたジェンダーにズレを持つことはあまりに大きなリスクを持つよね。
変わって美醜は、主観の問題でもあるし、社会的に差別されると言っても、その問題性がジェンダーとは異なるでしょう。社会の根本であるシステム自体を変える運動とシステムの中の個々の規範や意識を変える運動とでは、与える変動の度合いどころが種類さえも違う。*11「男女」の仕組みというのは社会で明確に言語化された基準であるのだし、社会の枠組みに対抗することと美醜にまつわる社会的な意識との対抗は、異を唱えたときの意味合いが違う。
それだのに、両者を一緒と扱うのはあまりにも突拍子ない事。リスクの種類が違うでしょ?
「近所の山田さんが毛嫌いしてきて」と「近所の田代さんが包丁持ってきて」でどっちを深刻と捉える?深刻であるものを、似てるからといってあまり同一視するのはどうかと思う。


あまりにも程度が激しい問題はおそらく時として社会制度の問題でもあるから、文化的な要素とあいまって問題化されることとはレイヤーが異なると思われ。
そして何より大事なのはコレなんだけど。そう、社会制度が問題であるということ。
社会が制度的に性別で人を分類するとき、その分類の仕方が差別的であるため特定層を一方的に事実上排除するというのは不当な圧力である。そうした時、ジェンダーの違和の問題は社会全体の責任であるのだし。差別的制度の撤廃か改めを要する。そして、その制度面での問題で言えば、果たして美醜とジェンダーとの問題点がどこまで「社会の責任」という重複があるだろうか?程度も違えば、実際の問題性にある解決しなきゃいけない理由も異なる。*12
だから、両者を近しいと捉えても、等価と捉えてはいけないと思う。
そんなお馬鹿さんがもしや居るとは思わないが、もし居たら。
「はぁ?そんなの同じなわけないじゃん。そう言うなら、爪切るのと臓器切り取るのは理屈としては一緒だから同等に扱え、とでも言うの〜?w?」とでも言ってあげれば宜しいかと。

社会制度を批判し、必要な措置を社会に要求する際、比較する対象が本質的に同質と観えるかどうかは問題ではない。そう、制度的差別がどのような対象と観念的に似ているかというのは関係がなく。そして最初から用意されていた仕組みを我々全体のものとして、それについて、広範囲の視野で「豊かな公共性」を見直しつつ希求するのがTG的視線として有意義なことではないだろうか?*13

比較する対象として、あまりに不適切。両者はその事情・実体からなにまで丸ごと違うじゃないの。何らかの対象を比較する際注意をしなければならない点全てを忘れ去った論理だと思うの。そう、論理的に破綻してるので、端から相手をする必要もないし、議論がなされる理由もないでしょう。


その後、自身のセクシャリティに関連することや、ジェンダーにまつわる、性別二元性の是非について語られた。
どうも、麻姑氏にとってセクシュアリティとは所謂「本能的」であると捉えられるような種類から距離があるみたい。そういうのが、彼女のセクシュアリティなのだと感じた。揺れろ、セクシュアリティ〜。

ところで。今でも性被害って男性(或いはMTFTS)だと強姦罪として適用されないんだっけ?どう調べたらいいんだろう・・・。wikiで見たが、いまだ男性やTS、一部の(或いは大多数の)GIDはその範疇に含まれないようだ。この点は、また、別の書籍を通じて批判します。
*14




以下は後半に続ける。あと6人だが、ココで分けて丁度半分だと思うので。
ではー。

*1:今はちゃんとあるか、と言うとそうでもないのでしょうね。そこらへんはレズビアンの方の意見が欲しいところ。

*2:イデオロギーレズビアンであることと、「ネイティブ」にレズビアンである自分を明確に線引きする必要はない、と。

*3:この用語、私も今後使うとしよう。

*4:この人の場合、女を自認してるのとは少し違うようだから、三人称は、なぜか!中立的な表現に思える「彼」にした。

*5:ごめん、ここではトランスジェンダーをTG、トランスセクシュルをTS、トランスヴェスタイトをTVとするねー。

*6:言語自体が歴史という時間軸を含み、言語によって証明される物はすなわち言語によって逆説的にその存在を支えられている。よって言語が自分達の姿そのものを構築するといった観点を持つならば、言語自体が与える影響は実存に対しても甚大で。なおかつ、言語により自身の本質を縛られるといった現象も起こりうる。

*7:http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~konami/diary/?date=20060925

*8:と言っても現に私が観念的な視座からセクシャリティを見てるのだけれど。でも、(とりわけジェンダーについては、社会制度であるのだから)政治的な議論の上でこんなごっちゃはありえないでしょう。

*9:この本で他にも思った事はまた今度違うエントリーで詳しく書くつもりw

*10:というか、美醜に関していっても、美醜の差別自体が主に男から女へのジェンダーによる差別体系が見えるわけだ。つまり、ジェンダーと言う概念がそこにはあるのね。ならば、美醜差別の問題は、性役割固定化による不当なセクシズム等が問題であり、必ずしも「美醜」そのものが問題ではない。なぜなら、美醜差別問題は社会に蔓延するジェンダー観によるところが大きいからだ。そうすると、私達が美醜により問題を抱えるならば、我々自身のジェンダー観を問い直さなければならない。よって、美醜問題は、TSのような「身体とジェンダーの関係」という『男女』制度の社会問題(医療に関するような社会保障の問題)とはレイヤーが異なるのだ。

*11:TSが同化主義的に社会制度に対抗するか、性別二元制自体を問い直すかで話は異なるが、しかし「男女」という制度に対する取り扱い自体を変えたり、権利を拡大獲得するということは、決して認識論的話題とは違うだろう。

*12:確かに美醜による差別も社会的そして文化的な要素であるが、しかし。それは少なくとも制度的に保障された差別ではないだろう。そもそも人の意識のあり方を問う方が重要である問題の類ではないか?その上で、司法で変えなければならない実際の問題点を個別に罰していかなければならない。しかも美醜によるリスクは差別としてもその周縁のありようが一貫ではなく、個人と個人とのコミュニケーションの問題である時もあり、必ずしも社会問題になるとはいえないはずだ。そのようなものに対し、社会的保障のあり方を問う際TSと同列において扱うべき対象であろうか?私はそうは思わない。

*13:TSや、広い意味でのTGを固定的に見ているわけではないが、TGにそういう利点があるとは思ったのよね。

*14:さしあたっては、これ。男性が男性をレイプ -数日前の英字新聞に,アメリカのある街で,男性に- その他(暮らし・生活・行事) | 教えて!goo