言葉に縛られないんじゃなくて、最初から縛られてないものなんです。


私は別に、(男性を自認しないから)ゲイではないよねん。でも、バイセクの方が近いかなぁと言うと、難しいんだけど。
どういうことかと言うと。バイセクだと、自分の性自認があやふやでも、なんかよさゲ〜な感じに思えてさ。
だって、バイセクシャルってことは、主に男女どちらにも性的指向がいく、てことだっしょ?てことは、欲望する方向性が重要であって、必ずしも自分が男女である必要はないみたいに見えない?バイセクシャルが、ふたつの方向性を指し示す語ならば、そこに私自身の性別有無は関係ないよねー。て思ったんだけど、どうだろう。


変わって、ゲイだと、絶対的に男性を自認しなきゃいけないじゃーん。こんな一例もあるけどさ!^^;(最後の方参照。)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/get/20060927/20060927_001.shtml
でも、これは・・・ありといえばありだと思うのよ。まあ、セクシャリティに関心のない大衆に向けてのメッセージにしてはあまりにもあまりにもなんだけど。不親切すぎて、ただの「ゲイと性同一性障害は一緒だ〜!」て誤解を招くことになるだけね。
でも、私みたいに、ゲイの欲望があるのに、自分の性自認はあやふやである、てこともあるし。ゲイセックスじゃなくちゃ欲情できな〜い!て人でも性自認は女、なんてこともあろうかと思う。そう、人によっては、性自認をも規定するはずの「ゲイ」が方向性を示す言葉として用いられることも・・・考えようによってはありかもしれない、と。(まぁ、んなこと言っても私は専門知識もないセクシャリティに素人なワケで信用性はないが。)


「ゲイ」がバイセクシャルにも似たセクシャリティの語彙になってるあたり、セクシャリティ概念が実体に追いついていない様がよく分かる。言葉とのギャップが、実際のズレを「ズレ」としてしか扱えない以上、セクシャリティ概念が私達の現実を裏切ってしまうことの証明となる。

前のクィア本でも伏見氏は、多様な現実がある中、私たち自身言葉を裏切っていくものである、と話されていた。
私もそれが結局現状だと思うよ。実際に自分のセクシャリティを保障してくれる語彙がないんだし、あやふやな上でゲイとかビアンだとかバイだとかを使うしかないじゃん。
しょうがないから、この語彙を引き受けますよ、てなもん。
そもそも、言葉に本質があるわけないじゃん。
言葉は言葉であって、時代やらなんやらに作られた物であるし?
そんなものに、私達の実体を規定する力なんて、本来ないよね。それは当たり前すぎて今更なんだけど。


でも、ことセクシャリティに関しては、言語にその実体とか現実を回収させてしまいがち。私達の本性と言うのは、そんなにも言語で説明が行くような単一的な画一的な、・・・そんなものでありえたろうか?


なんだか、気に食わない。どうしたら、自分達が言葉というボーダーを越えた認識を、せめて内なる認識と言う次元の中で上手にイマジネーションできるだろうか??


そして、今私自身が求めることのひとつは、言葉にない実態もあるんだよ?と言う実感を一般に持って欲しい、と言うこと。

そうでなきゃ、なんかこっちばっかしゃらくさいんだもん。
なのでー、どうぞ私の為にもー、セクシャリティ疑ってみてくれませんかー。みたいなー。(エゴかしら?)
ごめん、疑ってみるのは人によってはリスキーなことだよね。おこがましいこと書きました、すいません。
ただ、現状に違和感のある人はどうぞ、気兼ねなく疑ってみてはどうですか?てくらいのこですね。うん。
・・・そういえば、TG関連も最近性同一性障害という語で統一されてるような向きがあるとかないとか。(どっちよ。)
そういうことじゃなくってさ。言葉が先にあるんじゃなくて、実感が先にあるんでもなくて、単にすべての語に対する思慮深さが欲しいよねっ、て感じ。