冠婚葬祭・トラバ祭り。

今回はちょくちょく読ませてもらってるブログについて、拙いながらも言及させていただこうかと重湯(思う)。
今日の主要トラバ先はnijuusannmiriさん。
この方のブログは、アホ子の私にはいささか難しすぎてついていけないのだけれど、ちょっと関心のある方面で語られてる部分があったので扱わせていただくことにします。
それでは、レッツラGO。




それはまるでトランスのような・・・。


2007-01-22
これの元ネタはオンナノコの身体に憧れる。そしてそれを id:ululunさんが触れて、そしてnijuusannmiriさんが言及した物。(元ネタの方にやたらトラバあったけど面ドイし読まない。)*1
まず元ネタのところで、男性としての個人が、既存のジェンダーイメージによる軋轢というか抵抗感を表明なされた。
そしてそれを、ululunさんが「メトロセクシュアル」という名称を仮に与えることで、その表明に、ある程度のメタ*2イメージを乗せ、一旦意識しやすい対象へと変化させた。そこに、nijuusannmiriさんの切り取りで、その内情をもう一旦解してしまう事によって、より感覚的なものに近い話にして見せたわけ。どれも秀逸。


そこで私としては、nijuusannmiriさんのブログの「男らしさ/女らしさが少しゆるくなったら」といわれた部分に反応したいのだけれど。
これってなんだかTGみたい・・・。*3


私は別にTG名乗れるほどトランス的主体性を持ってないので、あんまり引用したくもないんだけど。(←ごめん、毎度してるよね。)でもあくまで概念を利用するという形で今回触れてみる。
それで今回使うのはパス/リードという対概念。

  • パスは、自分が表したいジェンダー表現を、そのまま受け取られる、と云う意味で大体分かってもらえるかしら。
  • リードは、バレ系とでも言われるかしら、自分が表したいジェンダー表現とは異なる受け取られ方をする、と云う意味で大体分かってもらえるかと。

(違ったら私を訴えてください。)

たとえばMTFなら「女性」のジェンダー表現を、自分が表している通りに受け取られ、「女性」に「見られる」わけね。FTMなら「男性」として「見られる」わけだ。*4


この概念(?)で考えると結構面白し。



さて、パス/リードで考える前に「メトロセクシュアル」について。
私はこの名称については一、二度しかお目にかかってないし、よく分からないんだけど、言わせてもらうと。
この名称自体私としてはかなり無駄ぁなモノの様に思える。
だって、これってなにを指すのかわからない。(だいたい、正直言ってこんな半端な形で「セクシュアル」という言葉を用いて欲しくはないわ。)
最近の傾向かどうか知らないけど、元々をいえばこんなの、中身がないと思うのよ。だって、現代社会では、ジェンダー表現やジェンダー役割と云うものの規範の中身が抜け殻になりつつある。というか、その(ジェンダー的なものの)実用性・価値を私達はおそらく見失いかけてる状態だ。こんな社会状況でわざわざ新語を使って新たなスタイルを名づけアイデンティファイしたところで大して意義はない。そもそも、このような名称が出てきたこと自体、「喪失の証拠」なのだ。ジェンダー的なものが薄らいだり無くなったから出て来たとするなら、それは前提条件不在化状況の逆説的証拠を指すのであって、新たなスタイル出現とは違うだろう。
つまり、新時代として編み出されたのではなく、前時代的遺物が効力を失ってきたからその喪失現象に名前をつけただけと云うこと。メトロセクシュアルなるものに、中身や実情などない(と私は思う)。存在を生み出したのではなく、存在を喪失したから、喪失した状態に対するショックの表れを(このような名称を持ち出すことで)見つけたというだけ。つまり、これは「前はあったものが今はない」という実感なのだ。わざわざ名称にして意味づけるほどのものでもない。
・・・・・と今のところは思ってるけど、もしこれがメンズリブ的なものに親和性を見出し、新たな男性性への表出の橋になるというならこの名称も意味を持つことになるだろう。(と勝手に推測しておくw)


それで、私としても、「めとろせくしゅある」なんて括りを用いずに、単純にあるがままに見てみたい。


で、nijuusannmiriさんが言うとおり、

つまり、男が、それもヘテロセクシャルの男が、ことさら女装というわけでもなく、フォーマルやカジュアルを問わず、ファッションとして、いや、ファッション以前の普通の日常着として、スカートをはく。それがOKな世の中になったら、楽しそうじゃないですか? メトロセクシャルなんてくくりも必要なく、普通の若者やおじさんやおじいさんが、(まぁ、“男性向け”のものではあるかもしれないが)スカートをはく。俺は、楽しいと思うよ。

なわけだ。*5
私は本来ヘテロセクだろうとゲイだろうと関係ないとも思うが*6、これは私が見るに「ジェンダー表現」という言葉で表される話だと思うのだ。


nijuusannmiriさんのラディカルぅな所は、「スカートを履く事をファッションとして、いや、ファッション以前の普通の日常着として」通用すれば楽しいだろうと言い放った点だ。これは私としても「すごい!」と思う感覚だ。


これをもはやファッション性に還元するのではなく(格好良さを重視)、世の風潮さえもスカートを履く男性を受け止められるような革新を望んでるのだ(根本の意識に着目)。


これはとても画期的な発想だと思う。
世の中、「こんなの間違ってる!」と思われるものでも、「格好良ければよし」といつしか認められるものも多い。アメリカなんかではゲイである事をよりファッショナブルな位置にしてイメージすることで、よりその存在を肯定できる傾向があるかもしれない。*7(一部ではね。)


しかし、nijuusannmiriさんはそれをもよしとはしないのだ。
世の中が変わればイイのでは?と思われてるかもしれない。
これ自体重要な観点だ。このような意識なくては結局変わるものも変わらない。(後述にて関わる問題。)
しかし、私はこれを現実的なものの見方で言った時、やっぱりどうしても無理あると思うのね。
だって、やっぱり「格好良い」ものでないと、私達はそれを望まないのだ。受け止めないのだ。たとえ、「「格好良ければいいでしょ?」なんてお伺いに関せず男性性女性性を楽しみたい!」と思ってみても、現実はなんらかのメリット(この場合美への追従)がなければその重要性を認められはしないし、普及しない。
よって、私はあえてこれをやはりファッションとしての視点で考えてみるとどうかと思う。


TG、というかMTF、FTM等はパスすることを重要視する人が多いと思う。(やはりノンパス路線の人でも多少の願望はなくはないと思う。人によるが。)
そして、彼女彼等は現実的な視点を持ってると私は思う。勝手に。
彼女彼等は、(これは部外者の私が言うべきことではないだろうが)残酷なことを言うなら純女純男にはなれないわけだ。ネイティブに女性ではないしネイティブに男性ではない。
これは勿論、所詮トランスしても本物の女性男性にはなれっこないんだよ、諦めなと云う話ではなくて。現実的な生き方に関わる話なのだ。
(その自意識は人によって異なるだろうが)MTFFTMは、彼女等こそ女性であり、彼等こそ男性なのだ。私から言わせれば純女で無条件的に「女性」として存在してるなんて思う人より、MTFは「女性として確か」なのだ。
元ネタの人の自分の性自認のあり方を見て、皆様はどう思いになられただろう。彼は男性を自認しながら「男性である事」を自らの誇張すべき特徴としては自覚してないようなのだ。
少なくともそういう純男の男性よりも、FTMの男性のほうがより「男性として確か」だ。
しかし、世間はそれでも純男の方が「確かな男性」だと位置づけたがる。それは、単純に考えるなら規範なのだ。命令されたから、そして男性としての条件を(何の苦労も無いまま)有してるから男性を自認する。これはどういうことか?
私はこれを、「ジェンダーの表面図式」と捉えてる。
ジェンダーの表面図式は、純男純女を「確かな」男性女性として扱う。なぜか?それは、女性男性の要件をある程度整えて保持しており、これを規範的予測として位置づけるから。
「髪が短く、がっちりした体格の生物学上のオスならば、それは男性であるはずだ」と、もはや脅迫的に「そうであるべき」と位置(予測)づける。これをジェンダーの表面図式と呼んでおこう。
こうした規範が社会にある時、ある意味FTMMTF等は「迎合的に」その図式を受け入れる。より純度のある形でその図式に当てはまるように適応(?)していく。
しかしこれはネガティブに受け取るべき行為ではない。なぜなら、それこそが彼彼女等の望むべき「ジェンダー表現」なのだから。
そう、結局はこの規範の図式でさえもトランス(越境)する者からすれば、「表現の問題」なのだ。(表面的に言うとね。)
決定視されたはずの図式を、彼彼女等は、再び自分達の「能動的手段」としてその手に取り戻すのだ。ジェンダーの表面図式を、再び表現するものとして(!)再定義し、決定視すべき規範を規範としてではなく、自分達が能動的にアイデンティファイするべき対象(価値)にしてしまったのだ。(と私は勝手に感じている。)
そして、この表面図式の通りパスしたMTFFTMとは、事実上誰よりも「確かな女性/男性」になるのだ。それこそ(正に)迎合的な純女純男達よりも、自分を女性/男性として強く位置づけられる。これは誰にも否定できないだろう。(異論あればどうぞ?)
これらを見るに、男性性/女性性のコードとは、必ずしも絶対的なものではないし、私たち自身が(規範として)それに追従すべきものであるわけでもない。(より誇張しようとした者の物なのだ。)
男性性女性性とは、このように、使い手(!)が能動的に携わるコードなのではないか。だとしたら、私たち自身そのコードを>ファッション以前の普通の日常着として<扱うのではなく、あえてファッション的な価値にしてしまうべきではないか。それもひとつの革新の手段であり、あってもよいジェンダーへの価値観のはず。


そう、繰り返すが、今回の服装の自由と云う話は(そういう話だよね?)、ジェンダー的意味を実に多く内包している。つまり、ジェンダー表現とかぶる話なのだ。


ともするとどう考えると面白いか?
そうこれをパス/リードで考えると面白い。
FTMMTFはあくまで男性として女性として扱われたい、社会的にも位置づけられたい人であるし、社会的政治的な色が濃いわけだが、これを失礼ながら観念的な話に近くして併せ技一本で考えよう。


(ホントこういうことを言うのは非常に臆することだけれど)FTMMTFはネイティブではないし、ネイティブになる事は無い。(そもそもそれ自体に多くの意味はないだろう。)
私が今からいくら女性になろうとしても純女にはなれない。・・・・しかし、女性にはなれる。いや、もしかしたら一部の純女よりも「確かな女性」になれる。(なぜなら誰よりも女性として強くアイデンティファイしているから。)それは、実はジェンダーの表面図式が、私達の一挙一動によって構成される、構築物(!)である事の証明だ。私達が自分を、「確かに」女性/男性として位置づけないことには機能しない構築物なのだ。決して規範としてむさぼってるだけで機能するものではない。(なぜなら純女純男でさえも、もはやこれに追従するものではなくなったのだから!)


では後残る問題とは何か?そう、パス/リードの問題だ。
どういうことかと云うと、それは。より「自分が表現してるはずのジェンダー」に見られるかどうか、と云う問題だ。
実はこれが一番大きい話だ。
ここからが、nijuusannmiriさんの言う「もう少しゆるくなってもいい」へのひとつの回答例となる。(え?別に答えは求めてない?あ、あら、そう・・・?〝(・д・ゝオロオロ)

nijuusannmiriさんの言うとおり、

「スカートをはいている男」は異様だ。というか、異様だ、ってことになってしまっている。

わけだが。


これを絶対的宿命として位置づけても、むしろ問題はない。なぜなら、いくら絶対的価値に位置づけて見せても、トランスをする者を見れば分かるように、ジェンダーコードなど単なる一つの構築物だ(そして表現手法だ)。
これをもってして、私達はこのある種の宿命(規範)を、能動的に取り扱っても良い物として、その手に取り戻すことが可能だと分かる。規範だったものを道具として認識を改められるのだ。
要するに「パス」するかどうかなのね。男性がスカートを履いて「異様だ」と取られるなら、能動的にパスすべき対象として見ればよい。「ええい、なにくそ、これこそが私の望むパスの形なのだ!私の本来の表現すべきことなのだ。」と、表現として扱うべきことと捉えるのが妥当ではないか。
表現、と考えると、もはやリードすることはそもそもの問題ではない。似合って無くても、スカートを履くことが「自分のなすべき(パスすべき)表現」と見るならば、あとはどうパスさせるかどうかの問題とうわけ。
勿論、nijuusannmiriさんはここまで必死こいてパスしようなどとは思わないだろう。ただ、
「世間がゆるくなってくれたらいいなぁ」
と傍観しているということなのだろうと思う。(別にそれが悪いとかいいとか言ってないのでよろしく。)
しかし、この「ゆるく」なるためには、トランスをする者たちのように、それを「表現する構築物」として取りもどさなければならない。*8
非トランスであるところの私達*9の視点からすれば、「トランスする」という行動自体が「性自認ジェンダー表現のズレ」であり、このズレによる性(の二元性を)揺るがす行為と捉えられる。(「私達が根拠にしていた性別の根本であるジェンダー表現とは一体なんだったのか?根源的なものであったはずなのではないか?なぜそれが揺るがされるのか?」という感じに見れるということ。)


ならば、私達はスカートを履くことで異様と思われるなら、それを揺るがさなければ、決して「ゆるく」なることはないのだ。逆を言うと、(たとえ不本意に「ズレ」となっていようと)あえてズレを生み出すことでその「異様だ」と捉える規範は、絶対性であるという根拠を失い揺るがされ結果「ゆるく」なるより他なくなるのだ。(規範の形骸化)
これを成すより他、つまり実際に行動し揺るがすより他「ゆるく」なることはないのだし、私達はとにかく実践しなければならない。
つまり、あえてリードを拒まないで、ズレを見せ付けることで、「実体と規範はズレがあり、揺るがされることも充分ありうる」と、その可能性をアピールすることこそが重要なのだ。*10


でも、そこにはリードする(「似合ってない」と思われる)問題が残る。
これはどうするか?そう、ここで私達はパスするための努力をしなければならない。
そうすることにより、「ズレを見せ付けることで規範を揺るがす」行為との相乗効果が得られると思うのよ。


ここで私が言いたいのは、フォーマットやマスキュリニティの再定義をさせる、ということだ。
私は先に言ったとおり、「パスすること」が重要だと述べた。
それで、私はこの場合、スカートを履く事をよりファッションとして意識し、スカートの似合う男性を演出すればよいと思う。*11それも単純に女性の格好をするのではなく、ジェンダー表現のデザインをより高度のものに位置づけるよう努力し、そうすることで変革を呼び起こすことなのだ。
「格好良ければそれでイイ」というのは一面ではアホ臭いことこの上ないが、実際クールでナイスなファッショナブル性を演出することがポイントなのだと私は認識する。
パス(似合うと評価)されるほどの演出をしてみれば、誰も文句は言えなくなる。格好良ければ、皆、「男性はスカートの似合うものなのだ」と男性性を再定義するより他なくなる。ということだ。
これにより、「ズレを見せ付ける」と「再定義せざるを得ない」ことと相俟って、ジェンダー表現の幅が広まると思うの。(簡単に言ってしまうけれど、かなり難しいだろうね。)


よって、私の結論としては、
スカートなどを履く事をよりファッショナブルな位置づけにし、ジェンダー表現の演出として精度を高めること。そしてそれと同時にリードすることもあえて拒まない。
これなのだ。
これがより堅実で現実的な対策なのだと思う。そして忘れてはならないことに、所詮ジェンダーの表面図式など、表現の枠内に入るものであるということ。構築物なのだ。
だから、「異様だ」とする規範をひっくり返すために、私達はそのジェンダーの表面図式を、絶対のものと位置づけず、緩やかに捉える必要がある。と思うのね。



まあ、早い話が「それなら似合うようになれば?」て話だったんだけど、それを理論化(と偉そうに言う程でもない)するとこういう感じかな、と思うわけでした。




しかし、
どうしてもリードする、という場合どうだろう?似合わないというのはやっぱりあることだ。「やっぱり男性はズボンだけ履くのがいいよ、フォーマットでいいよ」と思われるかもしれない。
しかし、ここでもトランスする者たちを見て欲しい。
先ほどは、よりパスしたい人達を主な例として挙げていったが、逆にノンパス路線の人はどうか。
ノンパス路線の人は、パスするかリードか、は結構無頓着な人も居ると思うのね。そうしたとき、ノンパスの人はむしろ、パスするトランスよりジェンダーの表面図式による抑圧を強く受けるだろう。
しかし、これは(本人の本質としては)あまり問題ではない。*12
ノンパスの人だって、表面図式が無視できないものだとわかってるはず。「異様だ」と思われることがかなりの抑圧になるのだ。それは重々承知のはず。
しかし、それでもノンパスの一部の人はトランスをやめないだろう。それが自分のアイデンティティーなのだから。
自分が望む表現をすることが重要であって、「そこに規範がある事」が重要ではないのだ。
そう、わかってるのよ。規範が規範でしかなく、絶対のものでない事を分かってるのよ。


これを見ると、私達は何に苛まれる必要があったろうか?と思う。絶対ではないはずのものに、自分を奪われていく。このこと自体がおかしいのであって、決して自分がおかしいのではない。そのことを、私達はもっともっと自覚してもよさそうだ。



以上、机上の空論おしまい!!!


ダメじゃん↑

*1:ところで、nijuusannmiriさんのブログ名が変わっていた。「真っ赤な野イチゴ」の弾丸なら撃たれてみたいところ。そして食してみたいところ。

*2:メタメタ言うけど、私今いちメタの意味が分かってなかったりする。

*3:この場合、TVに近い話かしら?TVに関してはクロスドレッサーとか異性装者とかでもトランスヴェスタイトに近いキーワードあったと思う。http://homepage2.nifty.com/mtforum/term.htmなどを参照。

*4:これについては実は簡単に「女性にパスする」とか言えないのよね、私としては。そこらへん難しいけど、今回はこの程度の解釈でご愛嬌。

*5:私もマスキュリニティに一定の魅力を見出す者として、スカートを履ける男性がでてくれると大変嬉しい。つまり、鼻血ブー。

*6:nijuusannmiriさん、もしかしてゲイ男性は女装をするであろうと思われてるの?それもなくはないだろうけど、でも一般論として言えばヘテロ男子だって女装をする人は居るし、ゲイ男性だってする人はする、という解釈をなさってくれるといいと思うのです。それとも、「女性を性的ターゲットにする男性が、女性の視線を気にせず女性性に近づくようなことを恐れないファッションを楽しめたらより革新的だ」、ということだろうか?それなら半ば同意。

*7:これはゲイリブとしてはあんまり本質的には良くないことだと私は思うけれど・・・。

*8:もっとも、TSなんかは、絶対「自分達は女性/男性を表現してるだけ」とは言わないだろうし、そうも思ってないはずだ。より、自分達は本来的に純男・純女的存在なのだと主張してるはず。そのところは誤解して欲しくはない。・・・私が言うのもおこがましいけど。

*9:と言っても私もトランスしたい願望はあって、必ずしもTGに距離があるわけではないけれど。

*10:ここまでくると、キング・クィーンの範疇だろうか?ドラァグが与える影響とは正にこういうことなのだと思う。

*11:ちなみに私、あえて女性的にせず、脛毛なんか剃らずにちょいと見せるくらいの事をすると面白いと思う。そうだなぁ、どっかの(暑い地域?ネイティブアメリカン?)民族衣装的なシルエットだと見栄えしないだろうか?逆に男性性を色濃く印象付けられ、セクシーに見られると思うのだが。

*12:しかし、これにより差別や偏見は生まれるだろう。