言語に対する混乱、にトラバ。

なんか私が柳沢たんに反応してる間に*1、以前よそ様のブログでコメントさせていただいた内容が引用されていた。コレ↓

2007-01-29


あらー、ちょっと見ていない間に。・・・呑気な日記更新するより*2こっちに反応しておこう。

で、まず私のポイントを。↓
対象への事実認識には、以下の視点がある(と勝手に思ってる)。

  • 記述的事実における客観的見解。
  • 記述的事実を用いてする価値判断。
  • テキストとしての架空の解釈。*3


んで、この一連の流れは正直だらだら長いので、このエントリ内で触れられてる分を中心にコメント。*4素朴な疑問さんは、なんといいますか、言語自体を私的に占有でもするかの勢いで恋愛に対して意味づけをしているんだけど。
コレ確かに自分で勝手に「今で言う*5“恋愛感情”に相当する心情を源頼朝etcが持ってたはず!」と信じたければ信じればいいのだけど、それを生物学とかに絡めたりするのはおかしいし、論理展開と言ってしまうのはどうかなぁと思うデス。*6別に信仰とか、妄想でいいんじゃないのかな?私も妄想屋w
そんなこと云うなら、私が「昔の人々の多くは恋愛感情に相当する心情で性的接触をしてたんじゃなくって、社会の規範を内面化して誰かと睦まじくしてみせてただけ!」と云うのもいいわけで。そんな無茶な理屈述べたって特にメリットないと思うんだけどな。

客観的事実としての「恋愛」存在の証明。


つまりそれは個人的な「思ってること」でしょ?と。素朴な疑問さんが昔の人物に対して「自分自身」が「彼等には(所謂)恋愛感情に相当する心情があった」と思ったからって、それがいきなり事実になるわけじゃないんだから。それはあくまで素朴な疑問さんの私的な領域で行われる妄想なのだから、それをさも事実ぶって論理的な推測として立てるのは無理。←(証明する根拠が存在しない・・・)
で、なんで私的な観念(妄想)であり、事実でないかと云うと。
言語を与えること自体、観念を必要とする所作なのだから、(彼等にそのような感情があったかどうかは)その価値判断を下した者の主観・観念がないと成立しない。そしてその主観・観念は私的なもののはず。
観念・主観なくして価値判断はない、コレを分かってないと話にならない。(辞書見りゃわかるけど。)
んで、その肝心の価値判断なんだけど、それが証明できない類だよね?だって、相手はもうコンタクトも取れない亡き人だし。
ということはつまり、「証明自体」は出来なくって、テキストとして自分が「恋愛感情に相当する心情があった!」と、彼等の虚像に向けて思い込む他ない。(自己の観念を投影するってこと。)
*7


後にくどくど言うけど、重要なことを一つ。
これを客観的な事実にするには、たとえば相手が「恋愛感情に相当する心情がありますか?」と問えば「はい」と応えられる状況でないといけない。だって、本人の同意をもたれなければ、単に「彼等にはあった!」と価値判断をする人の主観的な推測でしかないからさ。んで、しかもそれをするには、私から見たら<テキストとしての架空の解釈>しかなさそうに思うんだ。(後述)



じゃあ私がどういうつもりで鳥蛇さんのエントリでコメント書いたか解説します。

# nodada 『はじめまして、ノダダと申します。(読み方はどうでも良いのですが。)当方クィアでございますw
恋愛自体中世の歴史から始まった文化的価値なのだから、普遍であるはずはないのに。でも、そもそも、恋愛を取り巻く社会構図から見て、(たとえ恋愛自体が文化的であり本質でないとしても)恋愛普遍主義だの(←これ面白いですなぁ)恋愛資本主義だのの観念がある事は意義がある。「有効」ですね。こういう観念があるという事態こそ私達の資本主義社会の全体像を理詰めで読み解けますものね。私も面白い定義だと思います、恋愛普遍主義。』

後半のほうは割とどうでもいいんだけど*8、この不親切なコメントに解説を加えます。
っても、分かる人には言いたいことわかると思うけれど。
(コレに関しては、絶対的に素朴な疑問さんと私の「恋愛」という言語への理解に隔たりがあると思う。)


恋愛自体中世の歴史から始まった文化的価値なのだから」
という文ですが。
そもそも「恋愛自体」と言ってますが、「恋愛と云う概念」と云うつもりで書きました。(まあ同義ですけど)
で、明治以降に入ってくる、西洋的価値感である言葉のloveだのamourだのを訳すため、「恋愛」という新たな言葉を使って訳したそうなんだけど。で、明治以降に使われだした「恋愛」というものが文化的時代的背景なくしては存在しない概念なのは分かると思う。実際文化的事情があって「恋愛」という言葉を使い出したんだもの。つまり恋愛という新語は、西洋言語(loveだのamour)の互換性を取り計るため、西洋の概念を輸入してそれに和製の名称を与えたと言う代物なわけよね?*9

それを文化的価値というのは当たり前だよね?そして、言語が存在しだしたとき初めてその言語に対する「私たちの観念(!)」が生まれ始める。実際かつての日本にロマンティックラブ主義的恋愛観は、明治以前はなかったでしょうし、男色女色とか「色」「恋」「情」(+愛も)という言葉で自分達の感情や行動を言い表してたはず。*10
たとえ素朴な疑問さんがどう思おうが、言葉に対する歴史は、その言葉が生まれだしたときからしか存在し得ない。(←これはテキストとしての解釈で、時代を超えてその言語をあてはめようとする擬似的な所作を否定するものではない。後述。)


ならば、それを使ってる自分達はその時代性や文化性を有した言葉を用いてるのだから、その言語の時代性文化性を踏まえて使うのが妥当。
そう、言語自体は文化、時代背景を持ったものなはず。
そう考えたとき、コンセンサスが得られるかどうか、という議論と、言語自体の成り立ちからその意味を読み解く作業、をしないことにはこの言語を共通認識として使用できやしない。


なので、私としては、こんな用語を妥当な路線で使うなら、普遍的なものを指す言語ではない(文化的価値感な)恋愛概念を、あたかも人間の普遍的要素に位置づけるのは不適当だと思うのだ。
このコメントでは、そういうことを言いたかったのですね。



で、これに一部対抗する形で

「恋愛」および「恋愛感情」が、真に「文化的に発生した」のなら、それも「近代に起きたもの」なら、それがなかった時代もあるわけだし、それが無い文化も存在していないとおかしいわけで。
で、烏蛇氏のところでコメントされているクィアの方の言っていることが正しいのなら、近代になって、「恋愛」は日本に「輸入された」ことになる。じゃあ、それ以前の、例えば、源頼朝北条政子の関係や、源義経静御前の関係は、なんなんだ、と。吾妻鑑や義経記を読む限り、2人の関係・間柄に「家との結びつき」以上の、別の感情があったと読み取るのは自然なことなんですがねぇ。

とのたまってらっしゃるのだけど。*11
でもコレ不当だ。
だって私は輸入されたものを訳す形で恋愛という言葉を作り出した、と客観的事実を言ってるのに*12、それを私的な妄想の恋愛論とまぜこぜにしてるんだから。

だからね?妄想と客観的説明をごっちゃにしないでください。


そもそも「源頼朝北条政子の関係などに恋愛感情はあったか?」という問いが意味不明。レンアイカンジョウ?・・・あるわけないでしょ。*13
彼等の時代に恋や色はあっても「恋愛」という言語はない訳で。その時代において彼等自身の心に恋愛感情に相当する心情があったかどうかって問いは成り立たない。なぜならこの場合、源頼朝北条政子という主体が自身の心情を「恋愛感情(に相当する心情)」とみなしていたかどうか(或いは、みなすかどうか)の問題であって、主体に「今で言う恋愛感情に相当する心情があったかどうか」は他者による価値判断が踏み込めない領域だ。そして、その価値判断を立証したいのなら、本人の同意が必要だが、それも不可能!


そして多くの人なら分かると思うけど、「恋愛」という言語を知らない彼等が「恋愛」という言語認識を有していたはずはなく(!)、しかもこんな実際に目の前に居ない(あらゆる心理を立証できない)立場の人を実体化させ、その対象になんらかの真実(!)を付与させることは倒錯的!!(クリティカル)


それでもこれをなにがなんでも成り立たすのなら前述したように、自分の中で「彼等にも恋愛感情(に以下略)があったはず!」と思い込む事で成り立つわけだが、それは・・・何度も言うけども私的な妄想であって事実ではない(←倒錯)。


で、誰も真実を証明することが出来ない事柄に対して、自分の中の観念を投影して事実化することは、非常に私的で閉鎖的なのね。つーか倒錯。自分の中でしか真実になりえない。そう、妄想ね。(ううん、妄想ラブ!)


大体にして、恋愛感情という観念自体完全にコンセンサスのある言語ではないし、尚且つ「はい、確かに私には恋愛感情はありました。」と主体が語りかけてくることのない対象に、なにかが「あったorなかった」という価値判断をすること自体ただの仮説…、いや、妄想でしかない。


立証できない価値判断は妄想でしかない!!


あのね、テキストとしての解釈(後述)と記述的事実(と、それを用いた価値判断)とをごっちゃにしてはいけない。それは論理でもなんでもない空虚な言葉遊びでしょ。詳しく見ていく↓


事実しかない。

ここで記述的事実と、価値判断の違いに関してノベル。



たとえば、「源ちゃんが政子ちゃんと手を繋いでました!」という書物が残されていて、その内容を信憑性あるものと科学的に立証されたなら、「当時、源ちゃんは政子ちゃんとお手手繋いでますた。」という記述的事実が残るわけ。
んで、素朴な疑問さんが仰ってる内容は、記述的でないのね。実際どうなのかわからないのよ。
死んだ人に「源さん!その時の源さんの感情はどのようなものでしたか?!」と聞くわけにはいかないし、結局己の価値判断で「あったかどうか」を妄想するしか出来ないのよ。


で価値判断と記述的事実は全く持って性質の異なるものだよね?(分からないとか言わないで。)
価値判断はどこまでいっても、その価値判断をする人の価値観にゆだねられるけど、記述的事実は立証されれば客観的な事実として確かになる。両者は大きく隔たりがあるでしょ?


たとえば記述的事実とは、

  • 教室で子ども達にある問題を解かせました。それで、正解した者は丁度半分の人数でした。

・・・という類のもの。


で、これを教師が価値判断するとどうか。

価値判断では、

  • この教室の子ども達は、勉強に真面目な子と不真面目な子の二つに分けられるようだ。

・・・と云う類のもの。


前者はただただ客観的に事実を記してあるだけであって揺るぎようがない。しかし、後者は真面目だ不真面目だと判断する者が居ないと成り立たない主観的なものだよねん?でも実際はコレだけの事実ではそんなのわからない。この記述的事実からだけで、「真面目と不真面目の二つに分けられてる」だのなんだのと決め付けられない。たとえ決め付けてもそんなの信憑性なし。。*14
しかしこの場合、他の判断材料を引き出すなら、あるいは立証可能な価値判断だといえるだろう。そう、テキストとしての架空の解釈とは別物なのだ。立証できる可能性がまだあるのね。


で、先のことを繰り返すのだけど。
重要なことに!素朴な疑問さんの問い(とその答え)は明らかに後者の類だと思うんだけど。
しかしここで素朴な疑問さんの問いが問題なのは、(素朴な疑問さんと云う価値判断をする人が居ないと成り立たない上に、)前述した通りそんな証明のしようのない(過去の亡き人の心は覗けない)事実を探ることの不可能性がある。ということ。


でも素朴な疑問さんは、「これだけ親密なんだから恋愛感情(に相当以下略)があるはずだ!」と言われるかもしれない。けれど、それは私的な妄想でしかありえない。
なぜなら「源ちゃんらには恋愛感情(以下略)があったはずだ!」とするときに、素朴な疑問さんの中の「恋愛感情」という(共通諒解しづらい)定義と観念を(亡き過去の時代・文化に生きた人へ)投影するという無茶なことをしなければ「あったはず」もクソも言えないわけだし。そんなの、ちょっとありえない。
それはあくまで事実にはなりえない

よって、
恋愛の定義付けの難しさと、時代と文化を越えた死んでる他者への問いが成り立たないことと(価値判断を立証できない)、“記述的事実からの価値判断”そのものの難しさから考えて、素朴な疑問さんの問いとその答えたる決め付けは、少なくとも三重に無理があると思う。


しかし、最後に唯一残された、許されるだろう事実認識を紹介。


テキストとしての架空の解釈。


でさ、肝心なこと忘れてもらっちゃ困るんだけど、言葉って私的に占有するものじゃないんだよね。
コンセンサスが得られなければ所詮それは一解釈でしかない。素朴な疑問さんが、wikiだかなんだか引用しようが、恋愛と云う言語を源ちゃん等にあてはめる事が妥当かどうかは決められない。*15



ただ、これ(記述的事実)をひとつのテキストとして、現代生きる私たちが解釈する対象として、その事実の内実を変容させたらどうか?
つまり、ひとつの擬似的な世界観をつくり、それをテキストへ移入させるのだ。
これだったら、もしくは一方的な「解釈」も議論をする場においてのみ限定的に許されるかも*16。これは先の記述的事実を用いた価値判断とは異なる!だってそれはあくまで、テキストへの感想だもの。
そして大事な事にそれには、コンセンサスが必要だということだ。
どういうことか?
だってこれは、「はい、皆さん、これこれこういうことの根拠を持ちまして、私たちからすれば彼等には恋愛感情に相当する心情があったと思えませんか?」と云う類のものだからだ。
この場合、「ああ、確かにその根拠を持ってすれば、現代の私たちからすれば、彼等に恋愛感情に相当する心情があったと解釈できるね?」という同意が必要不可欠だもの。
コンセンサスが得られなければ、たとえば「源ちゃんと政子ちゃんが『いとかなし』とか言い合って性的接触をしていた」という記述的事実が仮にあったとしても、そのテキストを「今で言う恋愛感情に相当する心情の存在する話だ」とする解釈は共有できないし納得されない。(他にもこの場合判断基準は多々あるけど、ここではパス。)



よって、
もし仮に、素朴な疑問さんが今は亡き彼等を“テキストとして”見たとして*17、彼等には恋愛感情(に相当する心情)があるよね!と言い募るならばコンセンサスを求めればよい。



・・・ただ、恋愛感情という言葉の内実自体は自己の感情に対する評価であり*18そもそも根源的には<共有>は出来ないのだから、容易に他者と共通諒解した価値観として扱いづらいと言え、到底無理だと思うけど・・・*19

*1:それはそれで私として大変有意義でした。トラバさせていただいた皆様方感謝です^^

*2:あ、でも今日スパイダーマン見たよ!マスクかぶってるのに普通に携帯いじってるの!いや、ホント。んで、友達が「スパイダーマンだから外国人だね」と言ったが、もし日系な顔だったら私はきっと惚れてただろうという事実。友達には「やめとけ!糸を絡められるぞ!」と止められ、あえなく挫折。

*3:しかしこれには一定の留意が必要な類。注意。

*4:言語論上の混乱については、学術書読んだほうが良いと思われ。まあ、私は読んでないけども。誰かいい本あったら教えて!

*5:←この注釈は必要不可欠のはず。

*6:他のエントリでそう仰ってるんです素朴の疑問さん。でもそのエントリは正にご自分だけの言葉遊びっぽいのでわざわざコメントしない。あ、でも言及してるのでトラバは打つ。http://qsoboku.exblog.jp/5431473/←最新のだと思うんだけど。

*7:・・・ていうかそれ、なんていう心理分析なんですか?既に死んだ人の心に「(所謂)恋愛感情に相当する心情があったかどうか」なんて分析しようがないと思うけれど・・・。(ガンバレ)

*8:テキトウに書きすぎ。ただ、このような造語を持ち出して、恋愛文化に中に居る人が、自己分析などをするのには意義があると思う。

*9:つまり、「恋愛」という言葉は西洋の「love」概念の訳語。そう、ロマンティックラブというイデオロギーとして作られた和製版「love」なのよね?反論あればどうぞ。

*10:これについては2006-11-27日付けからの私のエントリなどを読まれたい。そこで散々トラバの応酬を繰り返しましたので(楽しかった)、トラバをおって読まれれば納得いただけるかと思います。

*11:そもそも恋愛概念の通用しない文化圏なんて過去にも現在にもざらにあると思うけど・・・。

*12:違うのなら反論ください

*13:これ、テキストとして限定的に読み手の世界にゆだねるって話なら、まだわかる。

*14:ただしかし、これがもし「子ども達の半数は問題の回答をしっかりと理解していた」というものなら記述的事実を用いた価値判断として妥当だったと思う(え?カンニングの可能性?)。でもしかし。これ、正解をしていない子どもが必ずしも理解していなかったかどうかはこれだけの事実では分からない。だって、理解していても本番で答えられない時だってあるし。他にも色々〜。

*15:そもそも、恋愛感情がなんであるかの諒解を取るのは非常に困難。わざわざ素朴な疑問さんご本人がwikiに対する異性愛中心主義的な恋愛への定義を否定されてることからもわかりますよね。・・・ところで誰かあのwikiの『恋愛』という項目編集してくれませんか?あんなアホな定義を書いたのはどこのアホでつか。恋 - Wikipedia

*16:この場合文学批評にあたるかしら?

*17:これを記述的事実かのように言うのは不可能

*18:そして自己の内部には他者は踏み込めない

*19:暫定的に、限定的に諒解を得て、その限られた前提条件においてのみ言うならば、・・・という方向であれば、一応仮にでも成り立つかな?とは思うのよ。