欲望問題前哨戦。


欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない

欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない

↑決して楽天は使わない・・・。


目次。

一章 「差別問題」から「欲望問題」へ
少年愛者の「痛み」
差別というくくりへの違和感
カミングアウトの意味付けの変化
「オカマ問題」と差別の根拠
この社会で生きていくことの切なさ
二章 ジェンダーフリーの不可解
ヘテロ・システム、<性別二元制>
「中性化」は誤解なのか?
保守派VSジェンダーフリー
戦略としての性差解消
ジェンダーの何を変えるべきなのか?
「欲望問題」としてのジェンダー
ジェンダーセクシュアリティの変容
三章 アイデンティティからの自由アイデンティティへの自由
「枠付け」からの自由
アイデンティティの内実の変化
共同性を成り立たせる根拠
マイノリティに正義があるとはかぎらない
『X-MEN』に見る共同性の未来

面白そうですね?皆買って読みませう。


えー、今回私が思ったのは、どうもモヤモヤする本だなぁと云うこと。
今回、書かれている事は、実は当たり前とされるようなことであり、サプライズを期待していたけれどそれほどインパクトがあるのかどうかよくわからなかったのです。・・・そう考えるのは私自身が、反差別運動の中でおそらく多少は投げかけられていたであろう視点を実際に本にして訴えることの難儀さや意義を知らないからなだけかもしれない。とすると、この本は単純に差別問題系を考える上で非常に示唆に富んだ好著だったと言えるのかもしれない。


それで、チョットこの本に対してどう捉えればよいかわからないので、率直な意見と妄想のエントリとで分けます。←それは明日に回すとする。マジゴメン。


その前にまず、簡単に一章二章三章についてコメントしてみる。

  • 一章

小児性愛者の苦悩から始まるこの著書。小児性愛者の欲望を取り上げ、欲望問題の意味とその現実をまず描いたといえよう。小児性愛者が抱く欲望は、現実の社会においてどのような位置に立つのか。それを観察した上で、小児性愛者とその対象である子供との利害関係を読み解き、社会的にその欲望がどのように取り扱われるべきか?という問いを立てたのが、この「欲望問題」というネーミングの意味。

ぼくは個人的には、子供への性的欲望を持つこと自体を犯罪とするのは行き過ぎだと思いますが、やはり、実際に行動に移してしまうことは、子供に対してリスクが大きすぎる。子供と小児愛者との「利害」は乗り越えられないと対立になる。結局、社会は、社会を将来になう子供たちの生存を優先させるしかないでしょう。[…]善し悪しの境をどこかのレベルで設けなければならない。

*1
つまり、欲望問題とは、「〜〜をしたい、〜〜を要求したい、〜〜を変えたい」と言ったあらゆる類の欲望を、実際に社会の中で提示したとき、その欲望が他者との利害によって実現するかしないかという問題の捉え方だ。*2
藤本由香里氏が欲望問題出版記念プロジェクトでこのように説明している。

この中で彼は、「差別を解消したいという理想」も、「性差を楽しみたいという気持ち」も、「それぞれの性別役割に充実を感じる感性」も、「欲望」という意味では同じである、といい、それらすべてを同列に並べることを考えの基本におくことを提案する。

http://www.pot.co.jp/pub_list/2007/03/07/review-fujimoto_yukari/

そして、このような欲望として等価であるあらゆる社会的現象*3を多様な利害関係の中(利害の調整の中)でどのように実現(或いは断念)させるか、という視点を用いて、単純な(絶対平等絶対正義に流されやすい類の)二項対立図式的思考の差別問題という見捉え方と一線を引いた。それが欲望問題。・・・と思う。一応。(弱!)
差別自体は、何が差別かどうかは議論して見なければ分からず、同意が得られなければ欲望は欲望のままだ。そして、利害が絡む問題へのひとつのコンセンサス要請。それが差別問題としては重要だ。しかし、それをあくまで欲望の問題とすることで、絶対平等などではない実体をクリアに見る。
そう、差別問題から欲望問題へ。それがテーマだ。
あらゆる問題系を欲望と見る事で、差別的イデオロギーなどやマイノリティの正義などに絡められることなく、社会をシェアする私たち全体の利害関係という協議事項と読み替えたのかもしれません。山本大輔氏はこう言う。

むき出しの表現を敢えてとるなら、伏見は同性愛者であり、世の中の多数を占める異性愛者=マジョリティーとは区別される集団の一員であるのに対して、私は“普通の集団”に属している、という私の中の潜在的差別感に根ざしていると言える。実は、これがまず伏見が摘出したかったポイントなのではないだろうか。伏見を基準としたとき、自分が「こちら側」の人間か、「あちら側」の人間かを読者自身に否応なく答えさせる、そういう展開になっている。

http://www.pot.co.jp/pub_list/2007/02/12/review-yamamoto_daisuke/

「あちら」と「こちら」。そういう見方をまず摘出し、更に欲望は等価とし、問題の本質への捉え方を替える。そういう意図があったのかと思う。


ところで、性犯罪者の小児性愛者のセラピーは、あくまで被害者への共感を持たすなど現実感覚を養わせて社会で共存できるよう治療するのが目的なのではないだろうか?専門家じゃないから分からないけれど、伏見氏がセラピーに対して「本質的に、指向(嗜好)を変化させるのは難しいのではないか」と指摘してるが、そういう話なのか?

  • 二章。

ジェンダーフリージェンダーレスの違いを社会構築主義の視点を用いて解釈している。その中で、ジェンダーへの欲望を、「原理主義フェミニズムが性別カテゴリを否定するという欲望問題は成立するか?」という観点から論じている。つまり、先の欲望として問題を捉える、という視座において、性別カテゴリを否定するのも欲望問題だしジェンダー(男制・女制)を通じて快楽を求めるのも欲望問題とする中で、ではその利害はどうなる?という感じの話だったと思う。最後は、ジェンダーを欲望する性愛ゲームは今のところ多くの人に求められているゲームだとし、市民社会の原則を基に、性別カテゴリを欲望する欲望問題を肯定している。そう、ジェンダーを欲望する指向性もひとつの欲望として捉える。そして、性別カテゴリの抹消を求める欲望問題がそれと対立したからと言って、性別カテゴリの抹消と云う欲望が優先して認められる根拠は市民社会の原則上ないとする。

ぼくが今日、性という現場での「欲望問題」を考えるときに大切したいのは、自身の『痛み』に特化してビジョンを立てるのではなく、そこに同様に存在する他の「欲望」に対する配慮や尊重です。[…]何を、どういう優先順位で考えていくべきなのかは、いっしょに検討していくしかない。そこでプレゼンテーションやら交渉やら説得やらが行われる中で、何をどう採択し遺棄するのかのコンセンサスが生じていくだけです。[…]そしてその結果として、未来、性別区分はなくなるかもしれないし、なくならないかもしれない。それは、人々が一つひとつの「欲望」を取捨選択していった先に見出される状況でしかないのです。

黒字部分引用者による。
この取捨選択の意味は、まずはじめに、市民社会の原則で「オカマ問題」を語った部分を見るのがよし(と思う)。

野口氏はオカマという名称への是非についての問題意識を、何が差別か差別でないかを判定する権利は、当事者だけにあるのではないという議論を主導に行ったらしい。(正しくは、反差別運動全体・弱者至上主義への批判。)

この「問題意識」が妥当なものかどうかは、互いの議論の結果、同意として得られるものであって、それはマジョリティの一方的な反省によって導かれるものではありません。
(『「オカマ」は差別か』2002)

黒字部分引用者による。

更にジェンダーレスとジェンダーフリーの境界線と云うところで、野口氏はジェンダーの不合理・合理性の根拠が希薄だと批判してると思う。伏見氏の解釈と共に引用。

ジェンダーレスとジェンダーフリーは違うと主張している人たちは、性別自体を問題にしているのではなく、性別区分の合理性を問題にしているといいます。非合理的な区分を解消するのだ、と。その発想自体は正しいと思いますが、合理と非合理を分ける根拠が十分に練り上げられていない。(『現代性教育研究月報』2004年4月号)

野口氏は[…]解消すべきものが何なのかの根拠がきちんとした原則として提示されていない、と。[…]

そうした上で、彼は、合理性を各ジェンダー、解消すべき性差の根拠をいかに考えるかについて、自身でその合理を提出します。《そこで差別と云う事象の定義をはっきりさせる必要があるわけですが、差別の定義も市民社会の原則を置くことで見通しが良くなります》(同誌)。

要は、何を是非とするかも原則がないと分からないし対立する立場や他の要素も合わせて協議しなければいけないコンセンサスの問題だということだろうと思う。


・・・ところで、「性別二元制」と云う言葉は、伏見氏の15年も前の経験を元に提出された(上野氏の命名により出来た)言語だったそうだ。

  • 三章。

で、最後の詰めとして、共同性の根拠を欲望問題的視座で見た時いまだ有用か有効かという議論や、差別カテゴリは将来的に残すべきかどうか?の問いをしている。ここでも、性別カテゴリの肯定同様、差別カテゴリを社会の中の欲望として捉え、条件付きのアイデンティティー肯定として書いてるように思える。構築主義から見れば、全てのものは作り物。(全部が構築物ならすべての否定をするわけにはいかないので)それを作り物だから壊していいという根拠はないと論じている。ひとつの記号という意味でアイデンティティーを肯定しているのだ。それは脱本質化を否定しない類のカテゴリ肯定。つまり、ゲイや部落のアイデンティティも、共同性としての欲望もある以上カテゴリの抹消は認められないとするものだと思う。


社会状況の変化と共にジェンダーと云うものも、ゲイや部落などの境界の存在自体内実を変えていきます。そう、ジェンダーイメージ(男性性・女性性)の中身が変容するように、ゲイと云う共同性もまたその中身も変わればその記号の(存在の)意味と意義も変容するのです。
そうした中で、あらゆる境界が欲望としていかに社会的に受け入れられるか。そして、それが他の利害によってどのように扱われるべきか。そのような社会全体の問題を欲望問題として見る事で再構築し、議論をより根源的なものに置き換えようとした。というのが、欲望問題のミソかしら・・・?と思うのだが、どうだろう。


で、本題が書けてないのだけれど、長くなったので私の意見は明日回し〜。猿回し〜。じゃね☆

*1:ところで、小児性愛者があたかも子供を必ず殺すかのような記述はやめられないものか。そういう意味でないのなら良いのかもしれないが・・・。

*2:欲望が社会の中で生産される。その欲望が、他の利害関係の中、この社会で成立するかどうか?これが「欲望問題」という視座だ。いわば、論理形成の転換を狙った視座だといえるのではないか。

*3:あらゆる欲望は社会と云う文化を通じて認識され生産されるる。ゆえに(小児性愛者である)「彼の欲望もぼくの欲望も、同じこの社会の産物である」と伏見氏は語るのだ。