the雑記。ホモデモクラシー。

同性婚に対する意見は色々あるでしょうが、私は私個人の理想ではなく現実的な話をすれば、やっぱり必要だと思うのね。
で、同性婚を実現するのはモチのロン大変結構なことなんだけど、こういう理屈はどうかと思った。

ある掲示板から。
(引用しないから、私が見た意見を私が意訳。)

DP法でよい、とするのは不十分だ。結婚が異性にだけ限られてるのは不平等だからだ。
同性婚の実現のため、単身者が不利益を被ると言うのなら、それは(性的指向に関する問題ではないのだから)同性婚とは関係ないことであり、別の法律改正でカバァーすればよいことだ。

前半は、DP法(ドメスティック・パートナー法)だけでなく、結婚制度自体を社会に望むのであれば同性婚も実現するのが平等である。と云う論調なら、今の私に異論はない。(個人的には別に同性婚要らないんだけどなぁw)
けれど、後半はどうだろう。
確かに法律改正が必要ならすればよいけれど・・・。
単身者の不利益と言うのが、同性婚と何ら関係ないとは思えない。確かに同性婚が実現するのは平等で素敵臭いけれど、同性婚を実現するために、その中でハブにされるマイノリティなり立場の人がいないと言えようか。
異性婚と同性婚。それらが対等に実現した結婚制度が出来たからって、そこにすべての不利益がなくなるわけではない。そうやって結婚制度だけの拡充を図ることにより、結婚制度に乗れない人や単身者に優しくない社会環境が温存されるのであれば、それは「同性婚成立による不当な不利益」となるのではないか。そもそも結婚制度自体に異を唱える人だって居るんだ。そういう人を追いやって一方の権利だけを求める道理はない。実現させるのであれば、同時進行で多方面との利害調整を進めなけりゃフェアではない。


そこで、先の意見はどう映るか?
他の問題だから、他の法律でカバーすればよい。
一見まともに見えるが、結婚制度を肯定するのであれば、同時に結婚制度にあぶれる人の存在を不可視化する責任も負う必要があるのではないか。
それは、たとえばモノセクシュアルが社会の中で「男か女か」といった軸しか想定せず、そこからあぶれたセクシュアリティアイデンティティーを不可視化、或いは不確実なものにするという図式に似ている。たとえば、Aさんが「男か女か」ではなく、「老人であるかないか」の軸が重要だとした際、男女に限らず老年性を愛するけれど、今の社会の中ではAさんは一般から見て「老人性愛者」ではなく(そんなカテゴリない)(コメントを頂戴し、老人性愛(ジェロントフィリア)*1というカテゴリもある事を知りましたのでここで訂正させていただきます。ご指摘感謝いたします。と共に老人性愛者の方に失礼をしましたことをお詫びさせていただきます。)「バイセクシュアル」と見なされてしまう。男・女制中心の社会だからね。
モノセクシュアルを自覚したとき、この社会構図の上に立つその人は、既にモノからあぶれた人の不可視化に(否が応でも)手を貸してしまう危険性がある。(〜中心主義の再生産)


そういうことを憂慮するのであれば、自分達の欲望実現が、他の立場に対してどのように映るのかを自覚し吟味し反省する必要は出て来る。
なのに、「他の法律でカバー」すれば良いというのなら、不用意に他者との線引きをして平等な権利の阻害をしてしまい、そこにある不利益を隠蔽してしまうことにはならないだろうか?直接ではないけれど、それに加担してしまう恐れはあると思う。



この言葉は私の中で、たとえばGID特例法での、外れモノを外の枠内に追いやる、という図式と被っちゃうんだ。
「彼等は特殊で奇異な僅かな一例なのだから、ケースバイケースで特別枠で対応すればよい」「特例なのだから、特例法で」
これの理屈は、結局社会の中の問題点を暴かず温存し、そして更なるマイノリティ生産に加担してしまっている。(特例法からあぶれて不利益をいまだ被る人達。)

(参照↓)

 性別を越えて生きたい人を「性同一性障害」として疾患で病理化し,それを治療によって正常化し,社会がもつ規範に適合させようとする。特例法を作った人たちがそれを意図したかどうかはともかく,結果的にそうした回路が作られてしまった。そこからこぼれた人はノーマライズされず,その対極として,さらなる病理化,つまり変態化されて,社会から排除されていく。そういう形が作られてしまった。

 最大の問題は,「子無し」要件がどうこうという以前に,法律全体の枠組みにあります。そもそも「性同一性障害者」にならなければ,特例法の対象外なわけです。言い換えると,病者の特例的救済の法律であって,セクシュアル・マイノリティの人権を認めるという観点からの法律ではまったくない。

http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2007-4/ss0704-2.htm


そういう排除はもうやめないか。
そうやって、「私達とは違うのだから、私たちの外でやれ。」という理屈に苦しんできたのは、同性愛者とて同じではなかったか。
そういうことの吟味を踏まえて、私たちは、自分達の権利獲得が他の方面に及ぼす影響を自覚しなければならない。
それが、マイノリティの権利獲得で、重要なことの一つではなかったか。*2
社会は、私で出来てるのではない。あの人やその人で出来てるのでもない。生きている人が社会の中に居る。この社会で生きてる人のすべての権利が等価だと信じたい。


そういうことを考えるのが億劫でたまらないのだけれど、でも、自分が一体何に苦しんできたのか。何に悲鳴をあげ、どうして訴えたいと思ったのか。そこの基本を忘れないことが重要なのかもしれない。


私は私の欲望を語りたい。私の悲鳴を語りたい。何に怒りを覚え何に訴えたいのか。それは、結局「否定をしないで」の一言なのだけれど、・・・私以外の人だって大いに自分語りをしてみてもよいかもしれない。始点を確認する為にもね。

*1:老人性愛 - Wikipediaジェロントフィリア - Google 検索

*2:いや、マイノリティの議論に限ったことではないが、今まで散々異性愛者にないものとして扱われ不可視化されといていざ権利獲得しようとすれば「自分達の枠の外でやれ」と言われてきたことからの教訓は是非に活かすべき。