つぶやき。6

「いじめ」についてー。

異性愛者の気持ちなんて私にはわからないよ。そりゃなんとなくシンパシー感じることもままあるけれど、それはあくまで一個人としての共感でしょー。○△さんという異性愛者の方であったら分かり合える部分も多いけれど、異性愛者全般って言われたら、途端にイメージが漠然としすぎて、何が分かり合えるのか相手がどういう気持ちであるのかなんて想像もつかないものになるんだもんー。
それと同様で、私は同性愛者の気持ちなんてものも当然わからないよー。そんなさぁ、同性愛者の気持ちなんてものが一体何処にあるの?だれそれさんって言う個人のメンタリティは把握できても、同性愛者の気持ちなんて調べようも知りようもないものじゃん。
それは私がゲイアイデンティティがないからとかそういう話じゃなくって。同性愛者って言う括りが一定の共同性も持って、仲間意識が生める程度には共通項もあるでしょうけれど、しかし逆を言うと、所詮その部分でしか分かり合えそうなものがないって事じゃない。当たり前だけど。
そんなこと云うんだったら、同じ男性愛者(て言わないか)であるヘテロ女性とも共通項があるわけで、そこの部分だけ抜き出してみるとシンパシーが感じられるかもしれないけれど、その部分だけを持ってしてその個人を説明しきったわけじゃないんだしさ。気持ちがわかるかどうかなんて究極的なところは、結局誰に対しても言えない訳で・・・。

つまりはさ、集団の特徴としてなら、そういう何かの括りを持ってして「〜〜の気持ち」というものを具体的に示すことはあるけれど、その名称がまるで一個人の感性と本質的に結びついてると考えるのがおかしいんだよ。


で、以前筑紫だか古館だかのニュース番組で、いじめの特集を見たことがあったんだけど。
よく覚えてないんだけど、いじめを過去にしていた人が、いじめの非道さに気づいたかなんかして、歌手として活動してる人が居るんですね。で、その人が学校に出向いていじめを受けている当事者と対話すると言う特集内容。
で、なんか齟齬があるらしくって、いじめを受けてる子らは、なかなか共感を持てないのね。心と心が離れてる〜みたいな。
そいでその子らが、歌手さんの唄をライブで聞きに行くのだけど。
子供たちは少し納得いかないみたいで。
「わかったように言ってるけど、本当の私たちの気持ちをわかってない。」みたいな事を言っていたと思う。私たちの痛みを、お前はわかっていない、とね。


でもわかりようがない。番組の締め方としても、結局いじめ当事者の気持ちと云うものは一朝一夕ではわからないもんなんですね、まる、みたいな終わりかたしていたけど。じゃあ本当の意味でわかりあうと言うのは、一体どういう状態を指すのかなぁ。
私たちと云うものは、なにも個人でしかない訳じゃない。女であったり男であったりTGであったり、腐士であったり運動家であったり日本人であったり、なんらかの括りがあるわけだけど。
では、「いじめ当事者の痛み」とはなんだろうか?
では、「同性愛者の痛み」とはなんだろうか?
後者なら私もある程度示すことができるけれど、それは結局答えではないもの。


いじめ当事者の痛み。これが一定の価値を持ち、社会の中で思案される対象になったとき、それはつまり、「いじめ当事者」と云う括りが、問題を解決する上で有効になったから発生した括りだと言えるよね。逆を言うと、いじめを受けてるという共通項がそれほど共同性も持つ必要もないくらいどうでもよいものだった場合、「いじめ当事者の痛み」なんて名称化はしなかっただろうと思う。
いじめ当事者って括りが、そこにある事象を見る際重要で有効だったから、「いじめ当事者の痛み」というものが具体性を帯び表面化し、一定の意味と価値を持った。
だからこそ、「いじめ当事者の痛み」というものはーー存在するんだーー。


最初から名称が私たちのメンタリティと直接結びついていたわけじゃない。メンタリティが共同性も見出したことによって、結果括りが出てきた。その名称によって「個人」の本来性や本質を象らせているワケではなくって、そこにある共通項が共同性を持つ必要が見出されたとき名称と云う形で具現化されるんだな。
そんなわけだったら、いじめ当事者の痛みを知ろうとするのなら、いじめ当事者と云うメタなイメージに翻弄されるんじゃなくって、その名称を借りてある特定の個人を観察するといったくらいの姿勢でいいはず。
括りが有効なら、それを使って呼びかけ、その共通項を持ってして協力し合える要素を引き出し、その点だけで仲間意識をもてたらそれで出口は見えてくる。(勿論それをきっかけにより広い意味の人間的な繋がりを見出すのもアリだけど。)


でも、生半可に知ったかぶりしてメタな要素をベタに信じ込んじゃってると、そこにはどうしても齟齬が出る。でもそれは当たり前。だってそれは、当事者がいじめ以外の共同性も持ち合わせた複雑なただの1人の人間でしかないのだから。
共同性を先に置いてしまって対話しようとしても無駄。メタがパーソナリティを説明しないと言うのは当然だモノ。
でもいつしか私たちは、カテゴリー分類をもってして、相手の本質さえも見極めようとする。そこに答えがあるはずもないのに。


名前が私たちを呼ぶんじゃなくって、少なくとも最初のときはきっと、私たちがその名前を欲しがっていたんだよね。私たちの未だ名もない痛みに、せめて名前をつけて欲しくって、私たちのほうから名前を呼んできたんだろう。

私は未だ名前を持たない悲しみを知っている。永遠に名前を付けらないだろう悲しみなんて、そこらじゅうに転がっている。ただ手に取って欲しいだけ、取られもしないけれど。