資料メモ。

これ面白い。↓
http://www.geocities.jp/hidex7777/papers/IPSM_toc.htm

ついでに。

マイノリティ化に本質主義ジェンダーが包含され、普遍化に構築主義セクシュアリティが包含される。

http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/03s3/report/t-itou.html

普遍化を、この主体は根源的である、と解釈するのは間違いなんだなぁ。反省。


運動について。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/03s3/gay-nakazima.html
注意したいけど、歴史解釈は蓄積した知識として見て、多数の資料を基に注意深く解釈しなきゃいけないよね。


同性愛と云うものが1870年に生まれた(1896年説もある。1870年はフーコーによる)。それは、同性間セックスと云う性器的な性愛の営みを、ひとつの性的“指向”として見る「作法」が生まれたということだ。それまでは(欧米では)ソドミーとして扱われてきたもので、同性愛者と云う主体は存在しなかった。同性間でのセックス行為が1870年までなかったということではなく、その行為を同性愛者という主体の行為として見る意識が生まれたという意。
これが同性愛異性愛両性愛と位置づけることの始まりだったのかもしれない。
同性愛と云うものがあり、それと対置される異性愛があり、その二つの周縁に両性愛がある。(そしてさらにこれらから離れたものの性的“嗜好”がある)
外性器内性器への意識がセクシュアリティの根幹とされるとき、私たちの性は、否応もなく「お前は同性愛か異性愛両性愛か?」と問い質される。けれど、そこには必ず語られもしないリアリティがある。
セックスとはどれのことなのか?手をつなぐこともセックスか?挿入か?
どれを欲望することで、私たちはどのようにして異性愛両性愛・同性愛者となるのか?
そういう疑問のなか、想定されたケースでしか私たちの性はカタチにならない。しかも、わたしたちが子供の頃から与えられている言葉と云うものは、その限られた想定内を指す言葉でしかなく、想定されないものは既に語られないような仕組みになっている。俺・あたしなどの一人称もまた想定されたカテゴリを生産する言葉だ。使用すればしただけ想定外のものは抑圧される。しかしそういう仕組みの中に自分を築いてきたのも事実だ。
だとしたら、私たちはすべてが変態であった、すべては構築されたものであった、と気づいたからと言って、そのすべてを捨て去れるわけにも行かない。
じゃあ、規範に追従するしかないのか?そこからが難しい問題なんだよね。


より一般的なお話としては、〜〜である、ということが、制度的に非難を受けたり或いは権益を占有することを避ける、それが重要なことだと言える。〜〜である、と云うことのみで不利益を被る社会を批判すべきで、そのカテゴリ自体を悪とするのが本懐ではないはず。
なら、どんなカテゴリ(とカテゴリが存在する事態)も憎みの対象ではなく、そのカテゴリが与えられている現状を、どうすべきなのか、が味噌になる。


そして、そこにどんなカテゴリが生じていようと、私たちのリアリティと云うものは、もしかしたらわたしたちが認識できてはいないのかもしれない、という奇妙なズレを体感することが、非常に面白い。
ズレの中に自分の欲望があるとするのなら、私もまた私を知らないのかもしれない。
性器を通してでしか、自分の欲望を知れない?男を通してしか欲望は成り立たない?そこから外れたものであっても、私と云う欲望はあったのではないのか?
欲望が自分を創っている。けれど、欲望と自分は、ずっと距離の離れたものなのかもしれない。