腐女子の欲望のモヤモヤ。

今回は、いしゆり掲示板で書きたらした文章の補足。
毎度おなじみみやきちさんのところでお邪魔した文章がやたら長くなりそうだったので、掲示板に書いたことを再掲しつつ私も考察を書かせてもらいます。


今回の始まりに、2007-03-24の反応として、橘さんがいしゆり掲示板にお書きになられた文章があるのですが・・・。それを引用。

「百合」好きオタクやヤオイ女たちが「愛に性別は関係ないもの★」「好きになったのがたまたま同性だったのよー★」というたびに、じわりと何か黒いものを感じます。あんたたちは「わざわざ同性同士の性行為をオカズに選んでいる、異性愛は意図的にオカズから外すくせに、一体何を言ってらっしゃるのか」と。(彼らがゲイと言いたいんじゃなく、自分もそこで選択しているくせに、なぜ同性愛者が同性を愛の対象に選ぶことをそこまで「なかったこと」にするんでしょうか?)

という文章なのですが。
私としても共感が持てたので、書き込ませていただいたのです。以下それを再掲。

>(彼らがゲイと言いたいんじゃなく、自分もそこで選択しているくせに、なぜ同性愛者が同性を愛の対象に選ぶことをそこまで「なかったこと」にするんでしょうか?)

なるほど・・・。そういう言い方もあるのか。おかず云々はともかく、確かに腐女子だって同性愛を「選択」している。その点で彼女等も、同性愛を欲望する同性愛者と(一部)親和性があるように見える。視点がおもしろーい。
ですがちょっと「異性愛」についての部分で思う事あるので書かせてください。

ここからは全部私見なんですが、腐女子って異性愛規範を強く内面化していると思います。でもそれはせいぜい非腐女子と似た程度かなぁと思ってます。それでですね、彼女等は同性愛を欲望すると同時に、“自分は”『普通に』異性を愛している、という実感がある。腐にとっては正に、趣味の範疇として同性愛がある。そういう意識があると思うんですね。(いろんな人居ると思うけれど)
だから、腐は自己に関して言えば、同性愛者とは違って、異性愛者と云うメンタリティの意識の方が中心になってるんだろうと思うんですね。そんなわけで、同性愛と自分を距離あるものと見れる。(いや、そんなの皆様初めからわかっておいででしょうが。)
そんなわけで
>「最初から異性なんて眼中にありません」という価値観を、どうしてもどうしても認めたくないんでしょうね。
という実感はないはず。
そこに腐と同性愛者の隔絶の要因があるかも。(両者どちらも同じ『変態』と名乗ってくれたら私的に嬉しいのですが…)


もし仮に腐女子の多くがヘテロセクシュアリティを「自覚」してると言うのなら、多分腐女子はある種の二面性を持っているのでしょうね。バイセクシュアルとは違う、もうひとつの二面性が、腐の欲望にあると言えるんじゃないかなぁと日々思ってます。(←とはいえ、腐女子の当事者ではないので、あまり決め付けられませんが。)
しかし、そうした腐の欲望については、『同性愛』のような名前がついておりません。ですから、腐女子はどこまでいっても異性愛者で、すなわち同性愛を欲望することもまた異性愛の文脈だと認識するより他ないのかもしれない。

それを、趣味としてみるのか、(同性愛異性愛と同列の)欲望としてみるのか。それは個々人による話なんでしょう。私からすればどれも同じ欲望に思うんですが、そこの線引きが実は大きな意味を持っているのかもしれませんね。
・・・という話でした。

腐の内容でしたので乱入させていただきました。乱文失礼しました。えーと。とにかく、性的指向規範による“ヘテロセクシュアルホモセクシュアルの分離”がそこにはある、という趣旨でした、はい。だから何?て感じでスイマセン。

と云うことなんですが。なんだか趣旨がぼやけて至らぬ文章です。付け足させてください。
以下腐女子の欲望について追記。


これに関しては、性別二元制と性的指向と云うものの拘束力が働いてると思うんですね。どういうことかと云うと、私たちは現在、ときにフェティッシュではない欲望*1ばかりを重視しがちです。それはつまり、「自分は女であり、男を欲望するのだから異性愛者だ」という帰結を生ませてると思う。性的指向は自分のジェンダーの規定を促します。なぜなら、自分自身が男か女か、どちらかではなければ性的指向厳密には持てません。(だから性自認のない私も同性愛者を名乗ろうと思ってもなかなか名乗れない。*2 )
それはすなわち性別二元制(ジェンダーの規範)と性的指向の拘束力(性的嗜好の周縁化)が働いてるのだと思う。


性的指向と性別二元制の拘束力が高いとき、私たちは自分の性を異性愛同性愛両性愛からはみ出たものとして想定するのが困難だよね。どうしても、BLが好きでも「私は女で男を欲望してるから異性愛」、と考えるしかない。けれど、もし視点を変えるのなら、自分(のジェンダー)を通さない類である腐の欲望*3も自身のヘテロセクシュアリティ同様、独立した欲望だと見るのであったらどうか?
性的指向概念から外れた形での欲望も、(セクシュアリティ概念から)独立した、一個の欲望だと捉えることも可能ではないか?
それを、バイセクシュアリティとは違う形の二面性、と言ってもよいのではないか?と思うわけです。(セクシュアリティと等価の欲望。)
というか、性的指向以外の欲望も、同列の欲望足りえる!と云う主張を私はしたいわけです。*4


・・・彼女達は自分自身が「同性愛を欲望している」と必ずしも自覚出来ないのではないでしょうか?それはつまり、自分のジェンダー性的指向ばかりが重視される文化の影響ではないかと私は見てます。性的指向を重んじる形でしか欲望を見る事が出来ない。そういう性的指向の拘束力による意識が、今回ご指摘なさった部分の根幹かなと思う次第でありました。


性的指向バイセクシュアリティ等)と性的嗜好(フェテシズム、SM等)が等価でない文化にいるので、このような歪さが生まれるのではないかしらん?
と思う考察でした。ちゃんちゃん。


なんだか言いたい事書けてない気がする!!まーいいや!!

*1:この場合の私の言うフェテッシュな欲望とは、たとえば二なりとかのアレ。或いは、成人であるのに自分を幼児だと認識し、尚且つ幼児を性的対象とするような欲望。(実際に自分を幼児だと認識したい人はおられるようです)

*2:いや、私の場合「名乗ること」から遠ざかりたいんだけど・・・。

*3:自分のジェンダーを越境した形の、自分と距離ある欲望。すなわち非同性愛者による同性愛への欲望。

*4:腐女子の当事者はそんなもん求めてはいませんが。