それでもやっぱり寛容を求めたい。

寛容である、と云うのは単なる解決の糸口のファクタでは?
http://d.hatena.ne.jp/integral/20070403

男性を好きになる男に対して

「おかしい事なんて何もない。人間は元々は女だったんだから」

と。
[…]
しかし、ですよ。

この説明は所謂ホモ(レズビアンだって同性という意味ではホモですから)の問題は解決できるかもしれませんが、レズは説明できません。レズを説明するためには女は元々男だったと言わなければなりませんから。

うんうん、生半可な生物学もどきじゃどうしても理屈が破綻しますよね。いろんなケース見たらわかるように、一言でどうこう言える物事自体そうはないもんね。それに一々理屈つけるのが、結局論理をおかしくさせちゃうんだよね。
で、「レズ」ビアンだって「ホモ」セクシュアルなのは至極当然として、レズとかホモとかの言い方なんとかなんない?

で歌詞を見てみましたが、これは明らかに同性愛をテーマにしていませんよ。

歌詞の解釈なんて見方によるけどね。むしろ同性愛自体解釈は限定されないし。

これは差別一般に言えることと思いますが、差異は差異でありのまま認めるしかないんじゃないですか。結局差別問題が形式的には解消されても意識のレベルでは全く解消されないのは、自分たちの理解を超える者をなるべく隠そうとするからでしょう。そして、隠すときに出てくるカバーは自分たちの常識の範疇で作りますから、結局マイノリティーにとっては何の解決にもならない意見ばかり。

差異を差異のままに認める。わー簡潔な言葉だ!こう言えばよかったのね、すっきり。形式的差別の解除が意識的差別の解除とイコールじゃないと云うのは頷けるよね。「絶対ではなく十分条件」ってやつ?一個一個の意見には部分的に同感。
ところで、同性愛者が必ずしも意識のレベルの差別をどうこうしたいと思ってるわけじゃないと思う*1。問題は、ある種の意識が形式的な差別に結びつくかどうかなんだろうね。私もそこが気になる。

結局の所、人間ってのは自分が理解できない者に対しては不快感と恐怖心を持ち、それを排除しようとします。それ自身は特殊なことではありません。仕方のないことでしょう。しかし、本当に問題なのは、自分が不快感と恐怖心を持っていることを隠すためにベールで覆うことです。「自分はレズやホモを見たら不快感を感じる。だけど彼ら/彼女らがやる分には好きにやってよ」という態度はどうしていけないんでしょうか?

別に「いけない」なんて誰も言わなさそうな気がするのは私だけ?(というか、好きにやってよと傲慢に言われなくても好きにやるけど。)
確かにベールで隠されたら困り者だけれど、何かに対する嫌悪感とか不快感を悪とするのは誰にもできないことだろう。本音と建前をわきまえた方がよいのが社会と云うものでしょうね。

その意味ではレズ・ホモの人たちがデモなどで大々的に活動するのも、PoliticalActとして政治的・法律的不利益の是正を求める目的ならばいいと思いますが、世間の人に受け入れてくれ、っていうのは大きなお世話だ、と思いますよ。従って、デモなどをするにしても「やっぱりあぁいった人達はどこか変なのね」と思われるような格好はしないことです。

大きなお世話よ。と云うか言いたいことの趣旨がよくわからないけれど、単純に考えて、多少の寛容がなければ制度の是正はおろか社会的認知すらもされないのは当然でしょ。
変だと思われない格好がどういうものか、すぐには思いつきそうもないけど、たとえばパレードでセクマイらがやる「変」な格好って言ったらやっぱりドラァグかなぁ。
ドラァグなどがなぜ過剰なまでの女性性男性性を演出するのか。私も詳しくはないけれど、それは別に社会だけに向けてというものじゃないだろうし、もっと広い意義でのパフォーマンスなんじゃないかしら。

ドラァグ・クイーンのそれは「女性のパロディ」、「“女性” を遊ぶ」ことを目的としている

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A1%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3

All aboutから見てみましょう。

※キャンプ:
『パリ、夜は眠らない』という映画が昔ありました(1990年)。ニューヨークのハーレムに住む黒人のゲイたちが、アメリカという国の中では異端の中の異端であるわけですが、そこで絶望するのではなく、上流階級のテイストをパロディにしたヴォーギングというダンス・スタイルを編み出し、生き生きと自己を表現していくという内容でした。これぞ、キャンプです。長い間社会から抑圧を受けてきたゲイたちが、わざとノンケのノリを逆手にとったり、フツーのやり方をズラしたりする表現によって、既成の価値観を笑い飛ばしたり、ゲイらしさを楽しむような感覚。ゲイカルチャーの中で最も重要なキーワードの1つです。ゲイらしく、笑える(アガる)キャンプな表現は、見る人に勇気を与えたり、しあわせな気持ちにさせます。キャンプな表現によって、ゲイが一般社会に認知されることもあるのです(ヴォーギングをマドンナが世に広めたように)

http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20060618A/index3.htm

ドラァグクイーンはゲイカルチャーの代表だとよく言われます。先月お伝えしたようにCAMPなパフォーマンスであり、男性/女性というジェンダーの既成概念を揺るがす存在であり、様々な理由がありますが、ずーっと根強い人気を誇っているのは、ゲイの好きな音楽やファッション、ダンスなどを取り入れた総合的な「芸」だからだと思います。ドラァグクイーンは人を楽しく、しあわせな気持ちにさせる極上のエンターテインメントであり、ゲイの生き様を表現した美しくも感動的なドラマなのです。中には死にたくなるほど落ち込んでいたけどドラァグショウを見て生きる勇気が湧いたという人もいます。いやマジで。

http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20060723A/index.htm

太字部分は私。笑いが何かを変えて動かすこともある。
ま、お粗末な戦略論だけで語れるものでもないだろうし、ましてや大衆に向けての媚ではないでしょうよ。詳しくは知らんけども。


寛容な社会と云うのは、別に全体主義でなくても成り立つんじゃないだろうか。少なくとも私は、マイノリティに「優しい」人々の振る舞いを求めてるんじゃなくて、非とされるものを是として受け入れたくても出来ない状況の非寛容の問い直しを求めたいんだけど*2。それは、ある程度寛容な社会でないと、問題提起すらできないよね。また、社会に不平等であったり不快感が横たわっていたとしても、寛容である事で否定的に見る態度(さらには差別を肯定する態度)も自他共に改められると思う。

そして、なにもゲイレズビアンが自分達をマジョリティ同様に扱ってくれと云うメッセージばかりを送ってきたことはないだろう。それこそ差異は差異である事を認め、ゲイテイストな自分を肯定するメッセージを送ってきたんじゃないかな。
自己肯定が出来る社会。寛容を求めるのも、結局はそういうものを求め続けているだけのことじゃないかな。


このエントリの続きはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/nodada/20070405

*1:それどころか全否定を受け入れる人すらいる。

*2:寛容でないからこそ、「自分はレズやホモを見たら不快感を感じる。」人が多いのでは?