異性愛の所在はどこにあるんだろう?

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070425-OHT1T00038.htm

“本物の男女”だと「生々しい」らしい・・・。

 男優約40人、そしてキーワードは「耽美(たんび)」。少女漫画から飛び出したような美男子や、中性的な魅力の女役が登場する舞台は「本物の男女で演じるよりも、生々しさがない」と、女性に人気という。

この一文で最近出たリビドー・ガールズ―女子とエロ金巻ともこ論文の「この世に残された最後の楽園はボーイズラブだぜ、ベイベー」を思い出した。「腐女子は男女モノだと生々しくて安心して読めないので男同士を読んでる!」という論旨の論文だったと思う。(立ち読みだったけど、金巻ともこ論文は案の定下らなかった。)

 ジュリエット役の看板“女優”舟見和利さんは男性だけの劇団とは知らずに入って10年目。あらぬ疑いを恐れ、当初は大阪の両親に事実をひた隠しにしていたが、

あらぬ疑いですってよ。スキャンダラスな匂いですねー。アホくさ。

「男が女を演じる、現実とは違う世界に入るには、見る側が一歩踏み込まないといけない。女の子はそこに踏み込んで、イメージの世界に漂うのが好きだし、得意」

まるで腐女子について言及してるような既視感。腐には、BLではないものであっても、男同士の絆を欲望してそこに男同士の欲望を読み取る。読みの快楽、という機能が働いてるんだ。

「価値観が多様化し、男らしさ、女らしさというセクシュアリティーの垣根が薄くなっている」点を指摘。その中で「人々は、現実よりも、メディア化されたものに魅力を感じてきているのかもしれません」

この劇の人気から時代性に着目して「多様化」を見るのはありだと思うけれど、実はそれは表面的な変化を読み取ったものでしかないと思う。しかも私はコレからその逆の解釈を行う。


さて、別にこの記事だけ読んで「世間のまなざしはこうなのだ!」と決め付けたいわけじゃなく、この記事を読んで思い出す「生々しくない」という言説についての意味を解釈していきたい。解釈だから、私個人の読み方の提示であるだけです。



生々しいだとか生々しくない、だとかよく聞くんだよね。
でも、世間では男女ものは生々しいというワリには、「ゲイは生々しい」と言う腐女子さんもいたりするんだよねぇ。あはは。どうしたもんか。


この場合「生々しい」とするのは、男女が同じ場所に居るのは「ヤラシイ」という意識の表れだ。
「男女は生々しい。」
これはつまり、
男女が同じ場面におりその非対称が向き合う。そこにはヘテロエロがある。
ということだ。
男女という肉体がそこにある時、そこには異性愛がある。男女という記号がある時、そこには異性愛がある。とされる。これは一般的な価値感の中では同性愛とは逆のものだよね。*1
けれど、男女の肉体が実際にはなく、男だけが「男女」という記号を使ってみると、その評価は「生々しくない」と評価される。
これはつまり肉体を通しての男女であるなら、そこには「異性愛がある」と見なされるけれど、男女という記号だけを通してだと「異性愛がある」と見なされないことがある、という事になりはしないだろうか?
仮にそれを事実だとしよう。そうしてしまうと、異性愛は肉体に付与されてある。という奇妙な話になる。それはどうもおかしいよね。

では、「異性愛」ではなくヘテロ「エロ」の所在地は?

しかし、ここで戯画化という読みを見出すのであれば、男の肉体を通じても「男女」を楽しむことができるのだが・・・、「生々しくない」と評価することでヘテロエロは男女の肉体を通じてでしか表現できないものとなる。


私たちは誰もが(少なからずは)「男女」というだけでエロティックに思えるものだ。
それは、「異性愛以外にエロティックなものはない」という偽りの「常識」の上に成り立っているのかもしれない・・・。そう、私たちは男女のエロスという物を第一に記憶してきたのではなかろうか?少なくとも世間的常識に則って自分を解釈するのなら、そうある「はず」なのだ。

ところで、私はヘテロエロティックなものをBLを通じて欲望してきた。BLにヘテロセクシュアリティを学んできたのだ。BLには異性愛を模倣する傾向があるからね。けれど、そのようなヘテロの可能性は拒否られることが多いと思う。
異性愛は時に「ストレート」という無標なわけだが、男女という記号を他の肉体や他の表象に投影させて表現しようとするのはためらわれるのかもしれない。


男の肉体だけを通してそれを欲望することは一般的にはありえない。それは男同士を欲望することと不可分だから拒否されるということだろうか?それとも肉体にしか欲望は宿らない、というフェティッシュな欲望の忌避だろうか?


コレには何か裏がありそうだ。
男女の肉体がないと「生々しくない」のなら、まるでそれはロミオとジュリエットの物語が「異性愛ではない」ことになるのではないか!?そんな馬鹿なことが!
勿論そこまでは誰も言っていない。読み手はきっと、男だらけであっても異性愛だと思ってこの劇を見てるはずだ。しかしそこにエロティックなものがあるとは認めないのだ。だって「生々しくない」んだと言ってるんだもの?
しかしこういう評価をしてしまうと、恐ろしいことに、
「男女」という記号そのものは異性愛を要請しない
ことを暴き立たせてしまうのだ。
おかしい奇妙な矛盾だ。
だって私たちは男女がふたり向き合ってるだけでそこには「エロティックものがある」と教育されてきたはずだ。けれど、この逆転モノ(て言うのかな?)の劇の中にエロティックはないとされる!それはつまりヘテロエロは「男女」の記号にはないという証。
もっと言うなら、男制と女制は男女のエロスのために用意されたシステムであるはずなのに(by伏見憲明ヘテロシステム)、それを軽く否定しちゃうようなことだ。*2
そう、男女=エロの暗黙の諒解は、ここでは逆転して「なかった」ことにされてしまうのだ。これは非常に衝撃的なことで、今まで絶対的であったはずの無標としての異性愛が(自動的に読み込まれるような)「暗黙の諒解」ではなく「私的な妄想」として認識されちゃうということ。
記号だけの構成のこの劇を「生々しくない」と評価することは、転じて 男女=エロイ という認識が教育された・構築された「ルール」であったことを如実に語っちゃうのだ。
そう。ここでは、男女のエロスというのは(世間で語られるような)本質的な真実などではなく、単なるそうでなければならないというゲーム上の「ルール」と化すわけだ。(そうであって欲しいという期待とでも言おうか。)
私たちが「常識」だと思って疑いもしなかった男女のエロスは、常識ではなくルールだった。
そういう読みを可能にさせちゃうようなものが、この記事での「生々しくない」という言葉にはあるような気が、少しだけしたんだ。
しかしもしそういう側面が本当に世間にあるのだとしたら、全てのエロスは個人的なものだった、ということの証明になるのでは?と思って少し面白い。


そもそも、私にはヘテロセクシュアルという「あるべき本質」は持ち合わせていない。つまり私の中には「肉体」を通しての異性愛はない(「記号」以外のヘテロエロの内面化は、ない)。そして上記のように男女=エロスという事実はこの劇の中で虚構と化すとしたら?
では、この劇の中で私のような変態は何を読み解くことができようか?
そこにあるのは、ヘテロではなく、ボーイミーツガールという質素で無味な事実だけなのかもしれない。では、そこに何らかの欲望を募らせることを仮にしたのなら、私はそこで初めて自分自身の読みで「異性愛」というものを読み解くことができるのかもしれない。


無条件的にあるはずのエロス。その根拠を失って初めて、私は私の中の異性愛に気づけるのかもしれない。

*1:同性愛の場合、しつこいくらいその可能性を否定される。が、同時に忌避され隠すことで「隠している」という事実を語らざるをえなくなる。そのことで同性愛を恐れる仕組みができる。

*2:ここで反論として「しかし肉体を通してならエロスは認められるだろう」といわれるかもしれない。しかし、私はヘテロセクシュアルではない。つまり肉体からは異性愛異性愛のエロスを見出すことはできない。そのような私がこの劇を読み解くとき、男女という「記号」そのものがエロスとイコールでなければ、暗黙の諒解としてあったはずの「異性愛」のエロスは見出されることはない。(しかし、「生々しくない」のだから「記号」としてのエロスはないと見なされてあるのだ!)とすると、暗黙の諒解であったはずの男女のエロスと云うのは、単なる個人的な「趣味・妄想」と化してしまう。暗黙の諒解はその根拠を剥奪されるのだ。その事実自体が衝撃的だ。