ナタリーの方だけ可能性を認めたくらいで大騒ぎ。

世間には「私は差別はしてません*1。○○に偏見は持ってません」と気軽に言い切る人がうじゃうじゃいます。(ああ、まるで「いい人は差別しない」的な幼稚な発言・・・。)


では、前回の対比を再度上げる。

 ナタリー・ポートマンは、地球人口の半分を恋愛の対象から外してしまうのはもったいないので、相手がいれば女性と恋愛してもいいと思っているそうで、同性愛に関してはオープンな考えを持っているようだ。「女性とデートしたことがあるとかいうわけではないけど、相手が男性か女性かということより、どういう人間かということのほうが大事だと思うの」「50%の人間を恋愛対象と見なさないなんてもったいない」と語っている。

 ノダダ・ポートマンは、『世界中の筋肉のある人ない人。』これらの内のどちらかを恋愛の対象から外してしまうのはもったいないので、相手がいれば筋肉のない人と恋愛してもいいと思ってるそうで、ガリ嗜好に関してはオープンな考えを持っているようだ。「筋肉のない人とデートをしたことがあるとかいうわけではないけど、相手が筋肉があるか・ないかということより、どういった人間かということのほうが大事だと思うの」「筋肉のない人なんて五万といるのに恋愛対象と見なさないなんてもったいない」と語っている。

わたしゃこういう、なん通りにでも読める発言は胡散臭いので好きくないのですが(コメント欄でワシが書いたような意味でも読めるし、緩やかな性を持った人の発話とも読めるし)、別にナタリーの意図を分析する気はないので、とりあえず今回は文章から読み取れる意味で、この二つを並べ比べしてみたい。

(先に結論だけ言うと、「前者にだけインパクトがあると感じるのは異性愛中心主義の規範を持ってる証だ」という趣旨を述べます。それだけ了承してもらえれば中間文章は読まなくていいです。)


前者のボーダーは性別なのね。後者は筋肉軸なのね。この二つを並べてどのような印象を持つだろう。
両者に共通してるのはボーダーの越境なわけだけど。越境する可能性を自分がどう捉えているか、と云うことについての言及なわけ。「はい、私はこの普段越えないボーダーを越境してもいいですよー」と述べてるのね。
で、両者を比べてみればわかるように、明らかに前者のほうがインパクトがある。後者は何も政治的な要素もないようだ。
前者がインパクトを持つために必要なのは、まず聞き手である私らが「女は、男しか恋愛しないものだ」と思ってないといけない*2。で、後者はただノダダポートマンという人が筋肉のない人を恋愛対象にしたというだけでなんらインパクトがないかのように思える。
でも実は二つは同じことを言ってるにすぎない。だって、かつて女と恋愛してこなかった方のポートマンが女も射程距離に入れると発言したことと、かつてはガリと恋愛してこなかったポートマンがガリも射程距離に入れると発言したことは、どちらも『可能性』を認めただけの話だもの。


どうして同じ意味の発言がこうもまるきり与える印象が違うのか。それは結局女が女を対象にすることが「インパクトのある事だ」と認識されてるからなんだよね。そう、そこには「規範」があると言うことなんだ。

その証拠に、実際には後者は「ボーダーを越境した」とすら思われないことだろう。「誰かを好きになるのには理由はないんだから、そういうこともあるでしょ」とね。
でも、同性を愛した場合は、どうしても筋肉スキがガリを愛したことよりも「好きになった理由」が問われるだろう。「同性を愛しちゃったなんて、よほどの理由があるんだ!」とね。それは、そこに「同性を愛してはいけない、異性を愛せ」というプレッシャーを受ける背景があるがゆえに、殊更に理由が必要とされるからなのね。


ただ女というだけでナタリーが即刻「女は対象外の人だ」と見なされちゃう。だからインパクトがある・・・。
でもこうして並べてみるとわかると思うけど、こんなことで騒ぐのは結構虚しいと思うんだ。たかだか可能性の薄い対象と恋愛するかもしれないことを公言したくらいで、「インパクトあるー!」と驚いちゃうのはなんだか大げさだ。
だって、「筋肉スキがガリと恋愛してしまった!」なんて、別になんもドラマ性ないでしょ。でも実は言ってる内容はナタリーの方と変わりないんだよ。それだのに、性別の軸に限って、可能性を認めただけでワーワーしちゃうなんて、なんだか不思議な話だ。


そこに二個の性別があって、それらを好きになる人が居る。男好きな女がいれば、女好きな女もいるのは当然過ぎることなのに・・・。こと“異性か同性か”だと騒いじゃう私ら・・・。


規範を持っているだろう私たちは、既に差別構造の中にいる。

可能性を認めるだけのことでこんなにも印象に違いが生まれる。それはつまり男性・女性という記号に多大な規範が与えられていることの証。(異性しか愛してはいけない!女は女らしく男を愛せ!)
そして、あなたがこの二つに対して前者にだけインパクトを感じたのなら、それは自分自身が性別に関する規範意識を内面化している事の証拠なのかもしれないんだ。(いや、もしかしたら「ナタリーは俺のことしか愛さないはずなのに!」と思ってる粘着質なファンの人かもしれないけど・・・)


この対比によって明らかになるのは、私たちの中の「女」に対する規範意識なんだ。つまり「女は男を愛すべきだ!」と思っていないと、両者に違いは感じないはず。たぶん「それが何?」とか「女好きやガリ好きでもないのにそれはご苦労様」て位しか思わないでしょう。


しかしそうは言っても、「いいや、単に常識的に考えるとインパクトあるとは思ったけど、自分自身は前者に何の違和も感じなかったもん!(プンプン!」と言う人がいるかもしれない。


私は、よく「同性を愛してるくらい、どうとも思わないよー。偏見ないよー。」と言いたがる人に微妙な違和感を覚える。その人は一体何の根拠を持って同性愛に否定的な意識が「ない」と言い切れるんだろう。
世間には、上記の対比から明らかな通り、性別に対してすごく規範意識が高くある。男が女を、女が男を愛する。これはある意味規範なんだ。その世の中でネイチブに『男』として『女』として生きてきた人間が、本当に性別に関する規範意識を内面化してないと言い切れるだろうか?本当に同性を愛したことに対してその人は何も思わないんだろうか?

嘘こけ。と私なら思う。少なくとも、ジェンダーにおいてストレートの人が「同性を愛したたことくらい〜」とか言っても、私は容易には信用しないな。ストレートであるということは、性的少数者よりかは規範を規範として意識する機会が少なかったり、規範に疑問を投げかける機会が少ないかもしれない、と言えると思うんだ。しかも、もしストレートでなくても「性別を持て!」という社会の規範に日常的に触れている。つまり性別に与えられている規範に触れている。



そして!性別を持つと言うことは、ジェンダーに関する規範をある程度内面化することだ。性別を持つと言うことは、自身の性別の性役割についても引き受けることにならざるを得ないからね。(性別カテゴリは、性役割・性表現・肉体的性などのレベルで区分されるカテゴリだもん。)

規範を内面化してる、と云うことは即ち「同性愛はいけない」という意識を内面化してることと近しい。それも性別に関する規範の一つだもの。女を愛するのは男らしさと認識されるでしょ?「お前も男だなぁニヤニヤ」とね。つまり、女を愛する男は男らしいが、男を愛する男は男らしくないので「おかま!ホモ!」とバッシングされる。男と言う記号には、既に「異性愛を持て!」という性役割が盛り込まれてあるんだ。



私はいい加減「僕は差別しませんよー偏見持ってないよー」と言いたい組の人達には認めてもらいたいんだ。自分の性別を認めるのなら、自分の性別に対して既に常に与えられている規範意識を自覚せよ、と。
ジェンダーのストレートは『「異性を愛さなくてはならない」という規範を与えられているカテゴリ(男女)』にアイデンティファイしてるんだから、そのカテゴリを持った自分もまた異性愛中心主義の意識を内面化してる可能性はあるだろう。そういう規範を持つなら、容易に「ない」とは言えないはずでは?それくらいの事実を認めて何か支障があるだろうか?


そもそも(性別を持つことの文脈からでなくても)差別的な意識と言うものは、そんな単純に逃れられるものではない。だって、差別とは社会から生まれたものなのだから、その社会で生きてる自分に「差別・偏見はない」などと簡単に言えるはずもない。
そんな当たり前の事実すら認められないで、そしてその事実と向き合おうともしないで、なにが「僕は差別はしてません」だ。なにが「偏見は持ってません」だ。一体何の根拠があってそんな事が軽々しく言えるんだ。
差別する自分から逃れたければ、まず自分が“差別をしてしまうかもしれないような規範”を内面化してる事実くらい認めればどうか。
礼儀作法の中に、習慣の中に、自分の帰属先の中に・・・。私たちは、差別する可能性を、既に常に持っているんだ。


そう考えると、やっぱりナタリーの発言は偉大だったのかもしれないな。可能性を認める、ということは、かくも難しいものなんだもの・・・。


しかし、こういうこと書くと、「じゃあ私は同性を愛した人に対して驚いた素振りをしないように気をつけよう!」とかいうひとが出て来るんだろうなぁ。だからそういう、「差別してませんよー」的な振る舞いを習得することにだけ尽力するパフォーマンスをヤメェゆうに・・・。

*1:この場合においての『差別』は、なぜか“嫌悪してるかどうか”という意味でしかない。差別ってもっと多義的なものじゃないのか?

*2:この場合は内面化してる意識がどういうものかという話だから、実はレズビアンを知ってるかどうかはあまり関係なかったりする。