私に出来る事。

たとえば、私が「同じ男」として、ゲイの悩みを聞いてやろうとする。けれど、私の経験は男ではあっても、女ではない上での男ではないと思う。相手のゲイは、女ではないうえでの男であり、したがって男として男を愛してきたのかもしれない。私は「同じ男」を愛するのかもしれないけれど、私が愛した男は私とは違う男かも知れないのだ。女ではない男として男を愛した男と、男という経験しか持たない男である私が男を愛したことは、果たして同列に置けるのだろうか。国籍の違う男は、私と同じく男を愛したとしても(つまり私を愛したとしても)、その経験は二重の意味で同一ではない。もしかしたらその作用は均一でもないかもしれない。だって、愛というけれど、私の愛は私の中で作られそして開花しいつかは枯れるんだ。彼の愛もまた、私へと向かうものではなく「自分」という内向きの部分で枯れる他ない。(たとえ永遠の愛を誓おうとも、死ぬからね)更には、彼が愛した私は日本人かもしれないのだ。日本人の男を愛した彼と、日本人ではない彼を愛した私と、その経験は「同じ男」であったからと言って同質だっただろうか。私という男は、私というあらゆる要素によってその男を形作ってるだろう。私でない男が私という男といつも手をつなげたかどうかが疑問だ。たとえば私は男ではないものとして男を愛するかもしれない。そのとき、私は対外的に男である。なぜなら私が「男」である以上私の意思は無視され、男でなくなる事は出来ない。たとえ私が自分を男ではないと思っていても、私が経験した愛は男同士の愛だったからだ。結果的に言えば、私の中の、男ではないものとして男を愛した、ということは、しかし男が男を愛した、という事実を作るものだろう。だから私は対外的には男として男を愛した男と「同じ男」、つまりゲイかもしれない。かもしれないけれど、男として男を愛したものにしかわからない苦悩がある場合に、私はその苦悩に耳を傾けることは出来るだろうか?傾けられたとしても、私はそれに、ああわかるよつらいよね、とは返せないと思う。このとき私は「同じ男」を裏切り、違う男になってるかもしれないのだ。違う男に出来る事とはなんだろう?私は男として男を愛した男と、どのような地点でなら繋がることができ、どのような接点を持てるのだろうか?この疑問に答えうるものはあるのか?そこで私は不可能と知りつつも「同じ男」という虚像に夢想して縋り、その男に「同じ男」なのだからその苦悩は一緒に抱えられるよ、と言ってのけられるだろうか?しかしそれは、まさに淡い夢でしかなく、私はその男に嘘をついてることになりはしまいか。「同じ男」というお互いの持つ夢は、一体どのような約束で守られていたのだろう?私は男でありながら男である事を顧みないどころか男でなくなれるかもしれないのだ。そうした男に、男として男を愛した男に何の言葉をかけられるだろうか。少なくとも経験の上では同じゲイであったとしても、私はあらゆる意味で女へと傾くかもしれない。その時、そのゲイは私をゲイと認めるだろうか?では、私はゲイではないのか?そもそも私はゲイを選択したというよりは背負わされている、と云う状況だ。その私がそのゲイと向き合うときに時にゲイであり時にゲイではないとされるのなら、一体私はそのゲイにとって何者だと言うのだ。そして私にとって「同じゲイ」とは誰のことなのか。私の「同じ男」はどこにいるのか。どこにもいないのか。では、そこにいる男はなぜ私と『同じ男』であるのだろうか。「同じ男」であると言うならばせめて、男からは異質な者(女?)には出来ない何かを要求することが、出来るのだろうか。しかしお前は一体誰なんだ。