東京レズビアン&ゲイパレードから、東京プライドパレード。

土曜日はパレードでございましたね。私は遠すぎていけない子なわけですが、参加なさった皆さんご苦労様のお疲れ様のこにゃにゃちわ。(いや、本当におつかれー。楽しめたー?)

 今年の大きな変更点は2つ。名称を東京レズビアンゲイパレードから、東京プライドパレードに変更したことと、実行委員長を置かず、実行委員長の役割を東京プライド理事会での合議制での運営にしたことです。

http://parade.tokyo-pride.org/6th/index.shtml

今年から名称やらなんやら変わったらしいのだけど、その影響はどうだったでしょうね。変わってどうなっていくものなのかはわからないけれど、でも皆が気持ちよく参加できるパレードをこれからも作り運営していってほしいものですね。


ところで思うのだけど、パレードになんら関わっていない私だけれど、この名称をどうするかの議論はある意味感動的でした。(そして、変わってよかったかも、とも思います)

というのも、この議論においては、クィア達の間の差異や相互の問題が浮き彫りになって、色々語られたからなんですね。

ほら、90年代で「セクマイ」て言ったら、やっぱり同性愛、特にゲイがフィーバー(?)してた時期だと勝手に思ってるのだけど(いや、よく知らないけど*1)、その時期に出た「同性愛」の解説書的な本なんか読んでますとね、あるんですよ、ゲイの人の経験談などが*2
私なんかはむしろ00年代になってネットや本を読むようになった子*3なので、別に90年代に思春期*4を生きてきた感覚としてそういう本を読んできたわけではないのですが。
で、実際読んでみたら、それが偶然暗いムード漂う経験談を載せた本だったのです。
ガッコウでいじめられたとか、居場所がないとか、今でもあるだろう問題を語ってらっしゃったんですが、それがもう読めば読むほど気の滅入る内容でして*5
でね、読んでて思ったんですよ、「やっぱりゲイとして生きるにはこの社会はつらすぎる」と。なんか悲壮感を持っちゃって、「なんとかならない?この暗いムード。」みたいに思ってたんです。


それはそれとして、パレードの存在がありました。
私はネットでにょろっと読んだだけなんですが、『東京レズビアンゲイパレード』という名前の問題性について語られていく中で、そしてソレを読むことで、あらゆるクィア達の存在について考えさせられました。

最初の問題提起はひびのさんなのかどうかは知りませんが、ひびのさんは「BとかTとかAとかが参加してるのに、なんでL&Gパレードなの?」と仰ってたんですね。で、ソレに対して色々、個人に対するものや論理に対する批判などがあったりしたんです。
それでですね、議論をしてる人達にはそれぞれの主張があったんですが。けれど、その主張の違いはともかくとして、この名称に対する議論においては「ゲイ」という存在は必ずしも弱者でもないし、マイノリティ*6でもない、という事実が見えてくるんですよ。
ゲイだけが可視化されればいいわけでもない。ゲイだけが苦しめられているわけでもない。ゲイが一番の被害者とも言い切れない。というか、そこに順番をつけるわけにもいかない。*7


もーソレ読んでますとね、あれですよ、90年代の本で読んだゲイの経験談で覚えた悲壮感だけしか見れてなかった自分はなんだったのだろうとか思いましたよ。
なんていうのか、だってですよ?読んでてこっちまで死にたくなるような経験談を綴られてた時期があってですよ?それを読むにつけ私なんかは「ああ、ゲイって一番つらいとこに居るのかも」て思ってしまったんですけど(汗)、でも一旦パレードの議論なんかを見ると、「あれ?結構ゲイってクィア内でマジョリティ?ていうか割りと強者?」みたいな側面も見えてくるわけですよ。*8

なんだか、簡単に悲壮感に暮れてるわけにもいかないかもね、ていうのをちょっと思い起こさせてくれた一連の議論に、私一人感動していたりして…。(その時点で自分ってどうなの、とか思ったけど)



えーと、何が言いたかったのかな。やっぱり色んな人がいるってことを実際に感じられるパレードってイイっすね!ていうことで。(乱暴)

*1:←テキトーなこと言うな

*2:レズビアンからしたら「同性愛の本ていうけど、内容はゲイ中心じゃん」という感想もあるかもしれませんが

*3:今は子って年でもないけど

*4:て何?なんか微妙な言葉

*5:ていうか本自体が全体的にそんな感じなような…。気のせい?

*6:ていう言葉も両義的ではありますけれど

*7:いや、もちろんAでGの人とかTでGの人とかも居るんですけれどね。だからこそ問題は複雑なわけで。

*8:だからその「ゲイ」てどの「ゲイ」だ!ていうのは常にあるんですけど