声は届いていない模様です。

最近なぜか禁断の愛系をよく読むんですが、「今時『禁断愛』なんて古いだろう〜?」とか思ってたら、メディア情報! | 映画『BOYS LOVE劇場版』公式ブログ BOYS LOVE-logでも禁断って文句が読まれるし、最近のBLでも禁断の文字があったりします。(まあ、兄弟愛なんかも含まれるので近親相姦へのタブー視でもあるのですが)
そんな中で最近こんなん読みました。
たとえ禁じられた恋であっても (SHYノベルス137)ていうタイトルでいかにもなんですが…。レビューはしないのでこちらで引用。
引用につきネタバレ。
舞台はイギリスのパブリックスクール。アルフレッド(攻め)とミズキ(受け)の会話から引用。

 「たしかに教会は、同性で愛し合うことを罪としている。もしかしたら本当に、子供を生み出さないおれたちの関係は罪深いのかもしれない。でもそれなら、おれたちの間にあるこの感情はどうして芽生えたんだろう。愛し合うこの気持ちは生まれてしまったんだろう。ミズキ、たとえこの想いが罪であっても、愛する気持ちを偽ることはできない。両親にばれればきっと猛反対されるだろうし、もっとひどい目に遭うかもしれない。世間的にも、おれたちを嫌って傷つけようとする人間はまだたくさんいる。誰もに祝福してもらえることじゃない。それでも……。おれはミズキを愛している。もう二度と、誰かをこんなに強く愛せるとは思えないくらいに。エリクがおれのことを心配してくれている気持ちはよくわかる。だが、世間的に受け入れられないからといってミズキと離れても、おれは幸せにはなれない。ミズキがいなければ、どんな喜びもおれにはない」

コレを読んでいて、私なんかは「いまだにこうなのか」と脱力感を覚えます。*1
彼(攻め)がミズキ(受け)に言いたいことはわかるし、こういう言い方で慰めようとしている事に誰も反対は出来ないでしょう。けれど、ここで彼が話した内容の前提というものは、今まででもどこかで誰かに批判されてきたものではなかったでしょうか。

まず、聖書にしたって、あれの解釈は人次第で変わるものだ。字義通り鵜呑みにして「聖書に書かれてあるから」と言って差別を正当化するのは、正当化した人自身の差別的な意思というものを覆い隠すものだと思う。

子供を生み出すことにしたって、それを言うなら子供のない夫婦は罪ということになるけれど、それでいいのか。男女間では罪ではなくて、同性間では罪と言ってみせることそれ自体が、差別をしたい意思の現れではなったか。


とにかくここで言える事は、腐女子という、それなりにこういう話に関心のある層にさえも、今まで行われてきた差別への批判は届いていなかったということだ。


それについては、色んな人達(特にアクティビスト、になるのかな?)が反省をしなければならないのだろう。どうして届けられなかったのか、どうすれば届けられるのか。そういう吟味反省をしなければ、同性間の愛を語るBLという空間を、リベラルなものというよりも抑圧的なものにしてしまうのかもしれない。


では、どうすればいいのか。ほんのわずかながらここでも考えてみる。
ゲイリブな視点で考えるなら、そもそも「禁断の愛」という言葉で飾ることが、非常に不味い。
けれど腐志向を持って内部から方向性を変更しようと試みるならどうか。腐の一定層が「禁断愛」という文句に何らかの魅力を感じているなら、あえて「禁断愛」という路線で表現を考えてみる価値はあると思う。
なんにしても、色んな人に魅力を感じてもらえる表現でなくては、批判を行っても多分声は届かないからね。だから、あえて「禁断愛」を使うことも無駄ではないと思う。(そうすることで、なぜ人々が「それ」を「禁断」と思うのかを、分析できるかもしれない。しかし、そこに暴力性がある事に対する反省はどうするべきか…)


その表現方法として私が基本だと考えてるのは、こういうこと。
あえて「それ」を「禁断愛」と位置づけるなら、
「誰が」「どうして」「それ」を「禁断愛」に“させている”のか
を、読み手に自覚させるような表現を試みる、ということだ。
「ああ、禁断愛って素敵」とうっとりするだけではいられないように、行為者をハッキリさせることで、「それ」を変態に“仕立て上げている社会的背景”を匂わせるんだ。
でもその具体的な表現方法は今はまだ考え途中だ。行為者というものが絶対に存在するとも言い切れないと思うし。

まったくもって難しい話だと思う。
でもなんにしても、声が届いていないのも、確かなんだろう。


とりあえず、紹介。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20070115
できれば、多くの人と色々考えていきたい。

*1:LGの聖職者さん、お疲れ様です…。教会内にだってLGはいるのよ、アルフレッド…。