自分。(←多分後で消す。)

性自認って何なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。自認なんてものは別に私感覚で捉えていてもいいはずだから、私は男性として生活してるからって自分を男性と位置づける必要もないと思う。
で、性的指向だけど、性的指向概念も私の性を説明してくれない。確かに私は男性と呼ばれるセックスとジェンダーに欲情するし、自分自身から(セックスを含む)ジェンダーを嗜好している自覚がある。だから私は男性を性愛の対象にしてるのだろう。(ところで愛って何ですか)じゃあ、ゲイか?でも、私は性自認が何なのかわからないし、自分を男として位置づけてない。とすると、「男性が男性を性愛の対象にする」という意味の「ゲイ」ではなくなる。
そして、私は女性と言う(セックスを含む)ジェンダーをも嗜好している。それは異性間セックスへの嗜好と関連する場合が多いが、しかし、女性というセックス・ジェンダー自体にある程度の欲望を抱いている。この場合私は男性寄りのバイセクシュアルだろうか?バイセクシュアルの意味を「二つの(セックスを含む)ジェンダーを性愛の対象にしている」と解釈するなら、ここでは性自認のない私でも「バイセクシュアル」を名乗ることが出来る。けれど、果たしてそれで私の性は説明が付いたのだろうか。
けれど、私は何も人間にばかり欲情するわけでもない。というか、たぶん私は「これはエロいものだよ、これを前にしたおまえは欲情しなければならないよ」と囁きかけられたら、ある程度どんなものでも欲情できると思う。では、自分の性愛の対象は何なのか?
・・・あえて女性をカウントしないとしても(・・・なぜ???)、男性を嗜好してるのは子どものころからなので、さすがにカウント入れずにはおられない。では、私は「男性とその他の対象を欲望する性」の人間なのか?・・・うん、意味不明だ。その他って何だ。じゃあ私は全てを欲望してることになる。けれど、私はたぶん認識したことのないものには欲情しない。認識出来るものの内で私は欲情している。では、私は「認識した全ての対象を欲望する性」なのか。それも違う。だって、試したことがないからわからないんだもの。もしかしたら今から「はい、この蝶に欲情しなさい」「はい、この雪に欲情しなさい」「はい、この音に欲情しなさい」と言われたら、出来るかもしれない。たぶんある程度出来る。でも、全てが何に当たるのかわからない以上は「全て」ではない。「全て」と言いながら、川だけは欲望できなかったらどうなるのか?では、私はこの世に存在する全てを欲望できるかどうか調べるまで(そして「できる」と証明するまで)自分の性がわからないのか。・・・わからないのかもしれない。それでは「性がない」とでも言えばいいのか?でも、私には性がある。性的対象がある。では、私と言う性の現象は、一体どんな名前が相応しいのか。
もしかしたら「でも、男が一番大事なんでしょ?じゃあそれを軸に考えればいいのでは?」と言われるかもしれない。それがある程度妥当である事も、知っている。けれど、それは欺瞞ではないかと言う感覚が私の中に残る。とりあえず相応しい気がする名前を付ければいいのかもしれない。
ある文化はセクシュアリティにパスポートのような価値を与えている。ゲイバーに赴くには、「ゲイ」というパスポートがないと入れないかもしれないのだ。で、「私もゲイと似た部分があるから一緒にいていい?」と問おうか?でもそれならバイだってゲイにある程度似ているではないか。ゲイバーにはバイもいるのではないか。じゃあゲイバーは本当はゲイバイバーなのか?では、男寄りではないバイや、曖昧な私は、ゲイバイバーに赴くことが出来るのだろうか?もしかしたら出来なくなる事もあるのかもしれない。けれど、どこまでその範囲を定められる?50%男寄りならゲイバイバーに赴けるのか?では51%女寄りなら?70%女寄りなら?あるいは、1%だけは男よりで、あとはチョコレートだけを性的に嗜好している人なんかは?ゲイバイバーに赴く資格があるのだろうか?で、そのパーセンテージはどういう基準の下つければいいのだろうか?誰が判断できるのか?
ていうか、ゲイで通るといえば通る。男性で通るといえば通る。けれど、私は一度だって自分を男性ゲイで納得できただろうか?納得できなくても、とりあえず妥当そうな名前を付ける事で、男性かどうかゲイかどうかで利益を得られる文化に馴染めばいいのだろうか?
けれど、私はその時、嘘をついてるのだろうか?「いいじゃない、別に」とも言える。でも、たとえばゲイバイバーに赴いた先に、男性扱いされることで不快な気持ちになった時、私は「とりあえず名乗ってるだけで男性じゃない!」と言ってもいいのだろうか?それをいえば「お前はTGか!じゃあこっちに来るな!」と言われたりしないだろうか?じゃあそこは諦めてTGも居るコミュニティに行こうか?でも、なんで諦めなきゃいけないんだろう?・・・とりあえず疑問は置いといて、行ける場所に行けばいいのだろうか?(でも、用事がある時はどうしよう・・・?)じゃあそっちに行って「たまに都合によってゲイを名乗ってるけど、こっちではTGを名乗るのが相応しいらしいし、TGを名乗るね?」と言えばいいだろうか?それで許されるだろうか。「ここはゲイもTGもイケルからどっちでもいいよ」と言ってもらえるかもしれない。それで私の抱える曖昧さが問題化することはほぼなさそうに思う。ではもう安心か?「だけどTGでもゲイでもあると同時に、私は○○でもあるよ!」と表明した時、私はもしかしたらそのコミュニティの人間から『変態』と呼ばれて「変態はあっち行って」と言われたりしないだろうか?たとえば刃物に欲情できることを言えば?いや、しかし「でも、男が一番大事なんでしょ?」「うん、今のところは」と言えば、さして問題にならないかもしれない。私は一番に男を欲望することで(男以外を一番に“しない”ことで)いろんな不利益から遠ざかれるのだろう。(同時に男を一番に欲望することで排除もされるのだろう) では、やはり私はゲイを名乗ってさえいればいいのだろうか?ときに男性扱いされて困るときは「ゲイじゃなくてTGだよ」と二枚舌を発揮すればいいのか。
けれど、「どっちかはっきりしろ!」と言われることはないだろうか。場所によっては切り分けられても、一つの場所においてどちらか一方であることを求められたら、どうしよう。「無理」と言った途端、私はそこから居られなくなるだろうか?大丈夫だろうか?「場合によってゲイでもTGでもあるよ」ははたして本当に通用するのだろうか?でも、海外旅行にでも行く時に、まさに男性である事を求められたらどうしよう。男性としてのパスポートを手に入れるのだ。これを持ってる限りは、私は二枚舌を使えなくなるのだろうか?それとも、矛盾しててもいいのだろうか?でも、そもそも男性扱いを受けたくないのだが・・・。どうしよう・・・。受けたくない時に「それ」でなくなる事ができたら、問題はない。けれど、それが許される場合と許されない場合がありそうだ。困った。
そもそも、自己矛盾に自分自身が苦しむことはないのか?
というか、私はゲイ以外にもセクの可能性はある。ただ、ゲイというのがその中でも一番妥当というだけで。けれど、ゲイだけでは困る。ゲイと矛盾するアイデンティティ(パスポート)が同時にほしい。でもそれは難しいし、そもそも私自身そんなことをしたいわけでもない。なぜ私は私の名前を探さなければならないのだろう。その理由こそが、私の性よりも曖昧なものではないか。

「でも、便利だから」ということか?
では、それは誰にとって便利なのだろう?私にとって便利な仕組みは、何処に行けば獲得できるのか。できないのならば、せめて男性として扱われる事は我慢してゲイとして生きればいいだろうか?妥協、するべきならば、私は「ゲイじゃない!」と言うべきではないのだろうか。でも、確かにゲイでなくてもよかったはずなのだけど。