金田さんはバッシングされてたのか・・・。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20071210/1197303697
反応はこんな感じか。ってーかあれだ。一応例のごとく(笑)批判されてると言うのは知ってたんだが、けっこう騒動レベルで批判されてたのかな?いや、この場合批判だけじゃなく非難もか・・・。
まあ、実際腐当事者としてイヤだった人はいるし、実はそういう気持ちは少しだけわかる。と言っても、不快だった人すべてが同じ感じ方をしたわけではもちろん無いだろうけど。とはいえ、当事者としては、自己のアイデンティティにかかわることだから、その反応がある程度シビアになると言う部分は分かる。そして、そのシビアにならざるを得ない部分を軽んじれるとしたら、それは私が腐女子ではなく腐男子的立場に立てるからだろうとも思う。私だって自分に深くかかわる事柄については反応がきつくなることもある。今では、その世間のまなざしを静かに見つめなきゃいけない、と少しだけではあるけれど思えるようになってきた。けれど、正直冷静になれないんだよね。そういう問題じゃないかもしれないけれど、でもそういう問題でもあると思う。たとえばね?自分、あるいは自分の所属先の属性に対する差別発言(や今回のような当事者代表の「うかつ」な発言)に対して、感情的に反応することって、多分私だけの話じゃない。そして、だからこそ冷静になれる非当事者の意見が貴重であるときもある。もちろんそれは当事者の視点を軽んじることと同一ではない。当事者にしか見えない部分を当事者の口に預けて語ってもらい、なおかつ非当事者が非当事者としての立場で言えること(や客観的な意見)を提示していけたら理想的だと思う。
ただ、今回のことは、「どういう姿勢が批判されるべきか批判されないべきか」という妥当性の議論をすべき話題だったのかな、と思う。ここではもちろんインタビューとしての記事としての雑誌としての「あるべき形」の要請もあるだろう。けれど、確実にこの話題には「腐嗜好がクローゼット的に押し黙るのか、あるいは・・・・」という問題があるだろう。
私はある特定の欲望が「べき論」でクローゼットに追いやられる社会性を批判するし、となれば、私は腐嗜好が「語られても良いはず」と主張する立場に立つことになるわけだが、それは腐嗜好にだけの特別な話ではない。欲望に対する政治的な意思としての結論なわけ。たとえば、私は同性愛を不貞のもだとか「語るべきでないもの」として位置付けるのは絶対に反対。そうやって性を序列させて人々を秩序付けちゃうことに危機を感じるし、それは何も同性愛に限らない。そういう序列化のための動員は、常に多種多様な議論で慎重に監視すべきだし、そこで起こる問題には皆で深く議論すべき。なぜって、そういう序列から組み立てられる秩序と言うのには、必ずや権力が介入している。たとえば(同性愛に比較的寛容であるはずの)一部のBL表現内でも「同性愛は確かにおおっぴらに言うべきものではないよね」という了解はあるし、世間一般的にもそんな価値観が優勢だ。それは異性愛(者)の権力が介入してるからで、異性愛>同性愛という価値観が私たちの「語るべきではない」姿勢を要請し、異性愛規範を補強していることの結果だ。それは問題だし、さすがに許容できない現状なのだ。だから、非難されるいわれの無いはずの欲望が(奨励されてる欲望よりも)下位に置かれることで「語るべきではないもの」として位置付けるよな秩序や、それを維持する論旨は批判される必要がある。そういう筋道の中のひとつとして、腐嗜好へのプレッシャーにさえも私は批判するわけだ。特定の欲望が排除されたりする背景には、秩序からの何らかの要請があると思うけれど(経験談)、その秩序は無批判に肯定されて良いものとは限らない。その秩序が不当な抑圧をしているのなら、その不当な抑圧で貶められた欲望を周縁に追いやることには反対すべきだと思う。もちろんそれはどんなものでも何をしたって許されていいという結論を導かない。ただ、「なぜ腐嗜好が周縁に追いやられているのか、なぜそうでなければならないと私たちは信じているのか」というのはきっと考える必要があって、その事柄の背景には、何らかの秩序はあるはず。その秩序のすべてが悪いとは限らないけれど、何か反省すべき点は無かったのか・・・ちゃんと私たち自身で見つめなおすべきなのだ。秩序なんてものは更新されていっていいはずだから。普遍的に正しいものもそうはないはずだから。だから、自分たちの考えの元に何があるかを考え、その考えを要請している『ソレ』をどうするか、ちゃんと考えたほうが良い。要請された私たちの行為は何かを維持するためのものでもあるだろうけど、ソレに対して思考停止しないことが重要。ならば、無批判に「語るべきではない」と言うよりも、なぜそう思うのか、そう思わない人はなぜそう思わないのか、ということについて建設的に議論していけると喜ばしい。・・・はず。
という私の姿勢にも批判されるべき点はあるでしょう。けれど、とりあえず私は、「なぜ自分はその行為を動機付けられたのか?」を振り返ることに意味意義はあるはずだと思っている。そして、欲望の序列化には権力が介入しているのだから、その権力の介入が正当であったかどうか考える必要はある。(もっとも、私は欲望は序列化されないほうが妥当だとするけれどね。)
欲望の扱いについて語るときは、そういう背景についても加味していけたらいいなぁ。

ところで、これもし同じ内容のインタビューを「腐女子」ではなく「ゲイ」が行っていたのだとしたら、世間の反応はどう変わったのか、あるいは変わらなかったのか・・・興味がある。もしゲイの場合に今回のように非難されなかったら(されてるんですよね?)、それは腐嗜好/腐女子への否定的なまなざし(バッシング)が裏にあるからなのか。その場合、腐嗜好/腐女子はどのように序列化され、どのように秩序維持のために駆動させられたと言えるのか・・・。
ゲイと腐女子の語りの質よりも、語りの与える効果の違いについて、何か考察があったら面白いのに・・・。←テメェでしろ。