差異ある腐の行為性と異性愛社会の行為性、細分化した視点と批評性を偏向させない態度。

http://d.hatena.ne.jp/nodada/20080201/p1
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前回のエントリでは
藤本由香里の議論は<リアル/ファンタジー>と言う相反した排他的な関係性にゲイと腐を振り分けて隔離するが、それは<やおい/ゲイ>の連続性を忘却するばかりか二項の溝を埋めるべく対話すると言う機会を失わせる議論だ。よって、“表現の暴力性に自覚的になり責任を持つ”ことと矛盾するのではないか?」
とだけ書いていればよかったような気がします。。。まあ、中間地点の議論はりょうたさんにTBを頂いたので、そちらを読んでいただければと思う(是非に)。だけど、前回で書いた「暴力抑圧性を看過したいわけではなく、異性愛社会全体の傾向だ」と書いたのは、ちょっと迂闊と言うか、半端な書き下しで不明瞭だったなと反省。ブクマでもご指摘いただいたように、結構擁護的な事を書くと、それだけで腐文化等の暴力・抑圧性を看過するための論理に利用されやすいのだろう。実際、クィアでも腐でもない人がそういうこと書いたりもしてるし・・・。(でも、そもそも「私らだけじゃないんだからあっちも批判してよ」と言って、自分の非を別の者にスライドさせるというのは、本当に子供だましだと思う。だって、そんなことばかり言っていたら誰も反省したりしない。どっちが先とかじゃないでしょ、と。)
ただ、ここで私にはジレンマがあって。たとえば腐がゲイ(<なぜかこの場合クィアと言うよりゲイに限定されている)にとって一番の差別主義者だ、みたいな理解がされるうちに、ゲイへの差別が腐限定のモノとして矮小化されないかと危惧するのね。
まあ、世の中じゃ特定の集団を叩くことで「私は○○という差別主義者を叩いてるのだから、私に差別的な点はない」みたいに免罪符に使う人もいそうだしね。それもイヤなんだけど、腐を焦点にすることで、異性愛社会の傾向への批判性を欠くのではないかという心配はアル。

さて、ではどう答えればいいのか。
でも私が思うのは、差別(暴力・抑圧と言ってもいい)行為一つとっても、腐に特有の行為性がある場合もあれば、或いは腐に特有でない場合もあるってことなんだよね。
たとえば現在では、腐文化の浸透によりゲイレズビアンの「同性愛」は「BL(或いは百合?)」という語彙に取って代わられているように感じるが、それはいわば表象の強奪であり、腐と異性愛社会の共犯によるゲイネスの植民地化ではないかとも思う。それは腐文化特有の傾向であり、総合的に批判されるべきだと私は思う【1】。(まあ、BLの認知をキッカケに同性愛者の肯定度が上がるということはままあるみたいだけど、それにしてもなぜ「同性愛」ではなく「BL」なのかねー?結構不思議。)
なのだけど、では前回のエントリで触れたような「ゲイは隠れててこそ花」みたいな失礼と言うか何様発言は、ゲイならびにクィアをマジョリティの玩具にしてもいいという傾向であり、それは腐に限った話ではないような気がする【2】。
とまあ、それぞれの行為性があるが、以上の二つはその行為性の主体が微妙に異なるのではないか、と思う。後者の差別性を批判したいとき、腐だけに責任を押し付けて他を批判しないのであれば、それこそ腐バッシングを免罪符にして異性愛社会全体への批判性を欠いた、矮小化の議論だと私は思う。
要するに、差別とか暴力・抑圧性と一口に言っても行為性にはソレゾレ違いがあるのだし、各事象を個別に(しかし議論を連帯させつつ)批評してゆくしか道はないんじゃないかなぁと思う。時には腐が主体的に暴力抑圧に加担(構築)している場合もあるだろうし、その場合には腐の行為性を焦点に当てて議論するのは妥当のはず。なのだけど、言わずもがな全部が腐の行為性で説明が行くわけではないのだから、議論の文脈に合った焦点の探求をすべきなのだろう。
そんなわけで、とりあえず前提はこんな感じでいいと思うのだけど・・・どうですか?