これは興味深い「注BLです」。

aya-meさんのブログで愉快なものを見させてもらいましたので、以下に紹介。
「注 BLです。」の帯で遊んでみた | ゲイ&腐男子のBL読書ブログ
いやー、これは面白い。確かにイカニモなBL本にこの帯を付けたとしたら「言わなくても分かります」というリアクションが来るのは容易に想像出来ますね〜。その他にも、notBL本に付けるとしても、後者と前者では、そのパフォーマンスの意味合いが変わってきますし、もしくはゲイカルチャーの本につけるのでもやっぱり意味合いが変わるのでしょう。<これはたとえば同性愛表象を「BL」という名前が代行・代表することの行為性に似ているのかもしれない。そしてその行為に憤慨する声も、あるはずだ。


さてさて、えー、チョット今エントリの全文章を書き上げてみたのだけど、無駄に長くなったので要約を先に置いときます。ので、長くなった方は読みたい方だけご覧になってください。

先日私はニコ動に登録したのだけど、そこで「腐向けMAD」を「一般の動画」と「棲み分け」ようとするマナー動画を見た。そこでは動画タイトルに「BL注意」と明記するのがマナーだと見なされている。
そして、aya-meさんのブログの「注BLです」とマナー動画の「BL注意」、この二つの注意書きには、どちらにも一つの物語に対して「ホモ」と名づける行為性があるが、名づけた「ホモ」を“外側に訴え出る”or“内側にしまい込む”という差異がある。
(これはあくまで私の見方なのだけど、)トラバ先を見れば分かるように、「注BLです」には「自分には一つの作品をホモエロチシズムと名づける準備が出来ているのだ」という、名付けをいとも簡単にしちゃえることを見せつける特性がある。自ら作った作品を腐向けMADに位置付けるのとは違い、自ら「ホモ」なものを作るのではなく、既存の作品を定義し直すという行為性がある。
かわって、「BL注意」には自らの編集という恣意性を腐向けと位置付けることでホモエロチシズムの名付けを行う。だが、それにもかかわらず、名づけたホモエロチシズムを「棲み分け」によって日陰に押し込む特徴がある。

「注意、これはBLです」、同じ文意なのに、二つは別々の行為性を持っているのだ。

「注BLです」には、「ホモフォーブさんに注意、これはあなたが思っているよりホモエロチックな作品なのですよw」と堂々と訴え出ることを可能にするが、「BL注意」は「ホモフォーブさん、『ホモ』を腐向けにしまい込んだから、見逃してね?」という含意を伝えてしまっている。つまり二つは逆の名付けの方向性を持っているのだ。
以上、要約(<とは若干違ってしまったがwww)終了。

うぅーん、何だかキレイに纏められていないような、以下の文章も読みづらくて主張がぼやけているような…。でも疲れたからこんなもんで勘弁して欲しいです。。。


今回、まずは「何が『BL』か?」という問いかけに触れてみたい。その問いにはいくつか答えが用意できそうだけど、仮に何がBLと言えるのかを腐的な主体が自分の主観で判断した場合(<そうでない場合もあるけどね。)、たとえば「OO振りはものすごくホモだ!これなんてBL?」というおなじみの(ネタ的な)言説が出てきたりする。彼女彼らはここでの「ホモ」をあくまで非一般的で独自の名前として使っている(らしい)のだけど、この「ホモ」は正しく「BL」であり、あるいは「やおい」であると語られる。


ところで、先日私は獄の動画見たさにとうとうニコニコ動画でびゅぅ☆したのだけど、ある日こんなマナー動画を見つけた。その名も「腐女子向け動画棲み分け同盟」。

D

ここで注目して頂きたいのは、棲み分けするという目的で「腐向けMAD」または「BL注意」と明記しようと呼びかけている点だ。これが動画投稿の「マナー」らしい*1。さて、先に挙げた「注BLです」とこの「BL注意」じゃ文脈が違うのだけど、二つは字が似ているだけではなく、「何が『BL』か?(そして何が『ホモ』か)」という名づけの行為性において似ている。
私はニコニコに登録して日が浅いのだけど、そんな自分がいくつか見たMAD動画の中には、「腐」とか「BL」を知らない人が見たら「ああ、この動画のうP主はよっぽどAとBのキャラクターが好きなんだなぁ」くらいにしか思わないような、ただアニメのワンシーンを切り取り人気の楽曲を加えて編集してだけのMADもあった。それはもしかしたら、見る人によってはただの「原作のワンシーンの“再生”」と捉えられることもあるかもしれない。その動画を恣意的に「ホモ」だと解釈しない限りは、腐向けであるとかBLであるという評価は、広く一般に共有されないのかもしれない。だけどもそんなものでも、一応は「腐向け」のタグが貼り付けらたりして、「この動画に登場する彼らの間には性的な欲望が介在しているのですよ」という印象を与えている。こうして視聴者は動画に<同性愛>(と呼べるもの)を見いだすのだろう。

やおいBLという言葉が良くも悪くも知られるようになった頃から、BLレーベルからではない作品(アニメ漫画小説)までもが次第に「この作品は腐向けである」と位置付けられるようになった。<時にバッシングと共に、時に共同性を持った賞賛と共に。
結局何が誰向けであり、どういう特性を持っているかという評価は、どれも恣意的なものだ。一つのラブソングを勝手にモノガマスな異性愛の歌だと解釈するのも恣意的だし、一つのアニメを勝手に「ホモ」だと解釈するのも等しく恣意的なのだと私は思う。そして、時に腐の欲望というものは、(物語に登場する男達の関係に対して)「どのキャラも自分のことをゲイだと言っていないのだから」「世の中のすべてはヘテロなのだから」「だからこれはヘテロの友情の物語だ」と解釈する異性愛中心主義的な恣意性を相対化し、ホモエロチックな解釈(批評?読み?)を与えてくれる欲望であったかもしれない。

腐の欲望を持った人々にとって、ただそこにある物語であっても、自分にとって何かしら思うものがあればそれは腐向けとなり、すなわち「ホモ」となり得るのだろう。だが、その物語を「万人にとって腐向けと感じられるはずだ」という期待を押し付ける事はできない。たとえどんなタグで縛られようとも物語は物語だ。それをどう解釈するかは、見るひと次第。<「だから面白いんだな、人生は」byカジさん。

真実の物語、そんなものはない。「これは友情だ」「いや、恋愛だ」、どちらの解釈も恣意的なのだから。けれど、人はいつもソレに名前をつけたがるのだろう。
では、そんな中で一般では「ホモ」ではないと思われているキャラクターの姿を腐向けだと名づけることに、どんな行為性があるのだろう。もしかしたら、ゲイアイコンを自ら見出そうとするクィア、と言うかゲイリーディングと近しいものであったかもしれない。あるいは、違ったのかもしれない。それはたとえば、「ゲイなんか自分の近くにはいない、見た事がない」という声を覆す行為とどのように違い、どのように近しいのか…。一つ一つの行為を見ていくしかその違いと近似を見出す事は出来ないのだろう。
腐の「ホモ」が「一般的な意味の『ホモ』ではない」のなら、あのホモとそのホモはどこで道をたがえた存在なのか。それらの「ホモ」は、私達にどのようなインパクトを与えたのか。ただ異性愛中心主義を相対化したと議論を締めくくるだけでは、終わるに終われない。


さて、ゲイとBLの違いはともかくとして、やはりニコ動においてもBLには「注意」という文句がつくらしい。それは、なぜ?「棲み分け」と言うが、何が/どうして/どのように「注意」を怠らずに棲み分けなきゃいけないのかが、私には未だに良く分からない。
私がaya-meさんの「注BLです」が面白いと感じたのは「BL注意」とは違い、「あなたがホモエロチックだと思わないような表紙であっても、私達にはソレを『ホモエロチックである』と名づける準備がもうここにあるのですよ?」というアグレッシブでアクロバティックな行為性を感じるからだ。
対して、「BL注意」には、その解釈を「棲み分け」という形で広く一般に届かないようにして*2、同時にホモエロチシズムをアングラ的な位置にしまい込むような行為性を感じる。ここに「注BLです」と「BL注意」の違いがあるように私は思う。
つまり、「注BLです」と「BL注意」は“物語をホモエロチシズムとして名づける”という共通項を持ちつつも、それを“外側に訴え出る”or“内側にしまい込む”という差異がある*3

そんな訳で似た字面でありながら異なる行為性の「注意書き」なのですが、私は「ホモ」を日陰にしまい込むような、そんな前時代的な行為に共感はしないのです。誤解して欲しくないのだが、私は「棲み分け」そのものじゃなく、「それが公序良俗に反する」という理由から無闇に内側にしまい込むことに何かしらの問題性を感じるのだ*4。せっかくのホモエロチシズムだもの、ヘテロなマジョリティ社会にも届けたいじゃないよ。だって、「世の中のすべてはヘテロなのだから」とか「自分達は『ホモ』なんて見た事も会った事もない」という言葉に居場所を追いやられたとしても、“「ホモ」な何か”は<ここ>に居る/在るのだから。
「ホモ」はどこかに棲み分けられるのではなく、今実際に<ここ>に生きている存在だ。そしてその事実は、腐にしろゲイにしろ同じ事ではなかっただろうか?

さて、今までaya-meさんのブログの例を勝手にアグレッシブなものとして紹介したけれど、そう考えてるのは今のところ多分私だけ。やはり腐業界には「棲み分け」の主張の方が圧倒的に多いだろうし、この「注BLです」が本当にそうした行為性を発揮できるものかどうかは未知数。<ていうか、発揮しても小さなパフォーマンスでしかないけどね。
ともあれ、どの「ホモ」がどこに棲むことを良しとされるのか?そして、実際にどの主体が棲み分けを行っているのか?という問いかけがあることに変わりは無い。この二つの注意書きや、ゲイアイデンティティによる「ホモ」などは、これからも在り処を問われつづけるはずだろう。

*1:荒らし対策とかではなく?

*2:このマナー動画では、注意書きの他にも一般の動画で腐コメントをしないことも「良識」だとしているのに注目。

*3:ちなみにそのほかの差異として、「BL注意」の腐向けMADには「注BLです」の帯とは違って、自らホモエロチックな作品を創造することでホモエロチシズムをプロデュースするという特性がある。「注BLです」はあくまでそこにある物語を腐的な“まなざし”で定義し直すものだ。

*4:ていうか、私だってタグで腐向けを作ってもらってた方が検索に便利だし「棲み分け」を否定している訳ではないのよ。利便性のための「棲み分け」と特定の欲望のクローズドを良しとする「棲み分け」では、行為として性質が異なる。