ごめん、昨日のはコレについてコメントしました。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nodada/20080613/p3
ブクマで気になった人がいたみたいなので言いますが、ドラマは『ラストフレンズ』、そのインタビューについて書きました。↓
日本初レズビアン&クィアカルチャーWebマガジン|TokyoWrestling.com
で、「ある人」は三橋さん。↓のコメント欄を参照されたい。ちなみにどちらもりょうたさん経由だったりする。テヘ。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200806120000/
でさ、この脚本家のインタビューを見て率直に思うのは「この人馬鹿だなぁ」ということなんだけども、それは必ずしもグレーゾーンをこのような姿勢で描いた事に限らなくて、「思っててもそれは言うなよ」という意味合いでもある。と言うのは、ウケを狙って被差別対象をパターナリスティックに描いたりすることは商業的にはよくある事だと分かっているから。それって脚本家に限らず商業作家なら皆通る道だろうしね。もちろんそこで「大衆の分かりやすい姿ばかりを描くのはもうウンザリだよ!」と、今まで繰り返された表象形態から離れた表象を行う事は出来るし、それを諦めるのなら表現は一気に陳腐なものになるだろうし、そして「マジョリティのためのマイノリティ消費」を繰り返す事になるだろう。そして、制作サイドではない一般の受け手が制作サイドの事情などを言い訳とさせずにきちんと批評していく事も必要のはず。・・・とまれ、実際に描くのは自分(脚本家)だけではなく、商業として成り立たせるために色んな愚昧を犯さなくてはならないことに変わりはない。だから、「分かりやすさ」のために“性同一性と性的指向性を混同した世間的偏見”を与えない配慮を犠牲にしてしまうことは、この脚本家だけでなくありえる事だろう。<それこそ、この脚本家よりセクシュアリティ関連の表象に真摯な人であっても、だ。
しかし、にもかかわらずこのインタビューを見て私は言いようもない不快感を持ったし、正直「やっぱりストレートにセクシュアリティのグレーゾーンなんか描かせちゃいけないんだよ、だって無責任感たっぷりだよこの人」と思ったものだ。
そして同時に思うのはこう言う事。・・・結局GIDにしろレズビアンにしろ、ストレート脚本家やストレート視聴者からしたらただの「流行りもの」か何かなのだろう、ということだ。このインタビューは正にそういうイヤらしいストレートの消費的視線を露わにしたものだったと思う。

ストレートからすると、まずレズビアン性同一性障害の区別がいまいちつかないというところがあるんですね。なので、どっちともはっきりは言えないけれど、まずは「性同一性障害」にしておこう、と考えました。というのも、ドラマ『3年B 組金八先生』で、上戸彩性同一性障害を演じてクローズアップされたので、その言葉のほうが日本では認知度が高いのもひとつの理由でした。また、ストレートの偏見かもしれませんが、「性同一性障害」という言葉は、「悩み」を連想する気がするんです。瑠可という人物は悶々と悩むという設定ということから、性同一性障害のほうがレズビアンよりそういった面で共感を得やすいかなと思ったんです。そういう戦略的な意味もあって、レズビアンというよりも、性同一性障害に傾いたわけなんです。

実は、最初に脚本をFtMの方に見せたら、「これってレズビアンじゃん(笑)。レズビアンだと何でいけないの?」と即答されました(笑)。でもなんかやっぱり一般の人によりアピールするときにはこの言葉が必要だと感じたので、言葉として「性同一性障害」という単語を残したいという意図でした。

ついでに言うと最初の方ではこうも言っている。

私がストレートなのでよくわかっていないのかもしれないのですが、まず、FtMレズビアンの間にグレーゾーンがあるように感じているんです。たとえば瑠可とタケルとの関係性も、グレーゾーンとして描いています。瑠可が女の部分がまるっきりゼロパーセントではなくて、少しはあるかもしれないという風には私は思っていて、人間ってグレーでいいんじゃないかなと。

「ストレートからするとどっちも同じだろう」と暴論を吐き付けておいて何が「人間はグレーでいい」だ。おこがましいにも程がある。
そういう視線に晒され、「グレー」と名指しされた人々。しかしその存在は「グレー」と呼ばれながらも、ただの一個のセクシュアリティであっただけだ。セクシュアリティに差異はあり、近似もあるだろう。その意味でどちらかに分類できない人も出て来るのは当たり前だ。しかし、それらの存在をグレーと位置付けられるのは、「異性愛/同性愛・男性/女性という区分で人間の性を区別する私たち」の観念の成せる業だ(これらの区分がなければ、そもそも「グレーゾーン」など論理的に存在しなくなる)。
そういうストレートのイメージを繰り返し「当事者」に与えるとき、「当事者」は名指す側の視線から逃れるすべはほぼないだろう。これが視線の暴力性というものではないか。自分自身でさえ「自分が何者か名づけ難い」のに、周囲からも「グレー」と言われ、そして「どちらも同じだろう」と決め付けられつづける。しかし、これは「自分がなに者か名づけ難い」と感じる人にだけ暴力的なのではない。レズビアン性同一性障害者にとっても同様だ。誰も「ああ、でも似たようなもんでしょー?」と言われて気持ちのいい人は居ない。


では、私はこの脚本家に何を求めるかと言うと、コレが存外難しい。もっと調べろとも思わないし(調べても勿論いいけれど、根本はソコじゃない)、両方を完璧に区別して描けとも思わない(それは私自身の否定だ)。
たとえば、性同一性の問題をレズビアンにまで映し出させるその視線に苦しむ人々の存在。これを私は配慮して欲しいと思うが、同時に「そもそもなんでこんな下らないことをいちいち配慮しなきゃいけないほど、世間はややこしい見方をしているんだ」とも思う。この不満は結局、脚本家のような商業作家になにを求めるかという問いの答えを導かない。ただ言いようもない不満が私の中に残ると言うだけ。
しかも、私はその不満の解消を必ずしも求める訳ではない(こう言っちゃ何だけど、たぶん<全て>の偏見のない作品ってきっとツマランわよ?)。

だから私は多くのことは言えないままだ。ただ、このインタビューを見て「ああ、ほらほら、やっぱりね。今まで新聞等でも必ず《心と体が合致しない苦しみを抱えた性同一性障害者》って枕詞みたいな書き出ししてるから、この脚本家も苦労を前面に出した作品の方が大衆に分かりやすいと思ったのよ。」と私は半ば苦笑気味に皮肉を言いたくなる。ノンストレートな存在を「ストレートになれない苦労を抱えた可愛そうな人」と捉えた方が断然イメージがつきやすいのでしょう、しかもその方がストレートの自明性を疑わずに済むものね。そうやって、ストレートに分かりやすい他者として描き続けるんだから、GID性同一性障害者が「流行りもの」として消費されるのは目に見えていた事だと思う。

結局は「セクシュアルマイノリティやノンストレートがストレートのために消費されつづけるのは苦痛」と言う事だね。コレに尽きるわ。

だからこそ、せめて「受け手・描かれる対象」と「書き手」の間にある重みを感じられる商業作家がいて欲しいと思うんだ。