ん?志木令子さんのセクシュアリティ議論が何か変だぞ。

あのね、今ね、りょうたさんからのコメレスのために、

クィア・スタディーズ (’96)

クィア・スタディーズ (’96)

の志木令子論文を読んでいたのだけど、…なんだかセクシュアリティ概念の定義や、概念の流通と性の言語化に対する問題化のロジックがおかしいことに気づいた。と言っても、私みたいな無学な輩が単に誤読しただけなのではないか、とも思うし、また今の私の頭はふやけてるのでちゃんとこの違和感の正体を説明できる自信がないのだが、かと言って今書かなければ多分忘れてしまうのでおざなりに一応書いてみる。
えっと、志木論文の一応の論旨を私なりに意訳してみると、
西洋の文化圏において男性視点で作られ日本にそのまま輸入されてきた「せくしゅありてぃ」という言語概念が(とりわけマイノリティ女性である) <私>たちの性活動・性観念の実態を説明し切れておらず、多様な「性的嗜好(とでも言うべき性の実態)」をとりこぼしてしまっている。よって私たちは、他者から十把一絡げにされる事で抹消された個人間に存在する性的な差異(すなわち個人差)を、言葉を尽くして表現してみよう。そうした表現の場を一部の特別な層だけに留めるのではなく、実際に私たちの「性の現場(←おそらくコミュニティの意)」に持ち込んでみよう。
と呼びかけるものだったと思う。(もし語弊があったら、手元に論文があるひとは是非指摘して欲しいです)
ちなみに彼女は現実の性が多様である証拠に、「男と関係を持つことを選択したレズビアン女性」「女と関係を持つことを選択したヘテロセクシュアル女性」などの、セクシュアルアイデンティティーの定義から外れた性のあり方を一例に持ち出している。


全体の評価としては、基礎的な部分も含め色んな意味で大変勉強になる論文であり*1、96年に既にこれだけの理論が生成されてきたことと、クィアコミュニティに属した女性たちの性を分かり易く救い上げようとした試み・功績は、かなり評価されてもいいと私は思う。*2
なのだけど、ここで私は、志木さんのロジックが前提とその論理展開までに幾つかの矛盾・不適切な部分を抱えてるように見えた。まあ、昔の論文にいちいち反駁しても意義はないのかもしれないけれど、りょうたさんがもしかメモを取る際に何らかの参考になればと思い、コメレスをする前にちょっと以下に書いてみる。

さて、私がまずおかしいなと思った点を、何個か文章を例に挙げて、見てみよう。(念のため多めに引用するが、最初と最後の部分だけ読んでも差し支えないはず)

 女たちが自らのセクシュアリティを問う時、ほんの数年前までその問いは、私たちに三つの言葉のうちのどれかひとつを選択して答えるよう要求するものだった。すなわち、「ヘテロセクシュアル」「バイセクシュアル」「レズビアン」のいずれかである。その言葉を自分のものとして“選びとる”ためには、性の欲望について、「親密さ」という気持ちのゆくえについて、他者との関わり方について自問するだけでなく、言語化され、規定された性のあり方(タイプ)をすでに定義された言葉として受け入れる必要があった。〔…〕すでに指摘のある通り、セクシュアリティは性的欲望を中心に据えた性現象――何をどう指向するか、または何をどう排除するか――を問題とするものであるから、「性愛」とは性的自己認識、身体的欲望、他者との性的・精神的関係性への欲望を統合した全体的な指向・観念を示す。

 この調査の中で特に興味深いのは性自認(sexual identity)の質問においてトランスジェンダー(一一人、全体の七・一%)またはわからない(三人、一・九%)と答えた人たちである。トランスジェンダーと答えた人のうち、性指向について、決められない/わからないと答えた人は四人、レズビアンで三人、バイセクシュアルが二人、ヘテロセクシュアル(ただし「トランスジェンダーだから」というただし書きつきで)と、いずれにもあてはまらないとした人が一人ずつであり、まら性自認がわからないとした人は、レズビアン、決められない/わからない、いずれにもあてはまらない、と答えている。セクシュアリティの基準となるのはセックスなのかジェンダーなのか。誰かがFTMTG(female to male trans gender)でヘテロセクシュアルであると言った時、セクシュアリティの基準と考えるものがセックスであれば彼女は男性指向であり、ジェンダーであれば女性指向ということになる。多くの女たちは、女性を指向するFTMTGは厳密にはレズビアンではないと考えている。これはジェンダーを基準とした考え方だが、そうすると彼女たちはヘテロセクシュアルなのだろうか。
 いずれにしても明確な女性の自認を持たない、だがセックス(性別)は女である者たちが、女性を自認するレズビアンバイセクシュアルの女性たちよりも「セクシュアリティ」の概念用語を容易に選び取れない事実は、言葉の限界性、概念としての曖昧さを示す上で重要である。
【黒字部分ノダダによる】

*3

 私たちに強制されるところの「セクシュアリティ」は、現実にはあまりにも多様である。その多様さをたかが三種類の概念で厳密にあらわすことなど不可能だ。〔…〕さまざまに意味づけられた「レズビアン」「バイセクシュアル」「ヘテロセクシュアル」などの概念は、自己認識と政治的スタンスを表す言葉としての意義はあるが、個人を集約的に表現する言葉ではないことを知るべきである。


さて、ここまで読んで皆さんはどう思われたかしら。ここで私がおかしいと思ったのは、「セクシュアリティ」という概念が、いつの間にか「性的指向」のみを指す言葉として使われており、性自認性的嗜好といったジェンダー表現・自己同一性・フェティシズムを含んだ指標を概念からはずしてしまっているという点だ。これは明らかにおかしい。いや、もしかしたら96年にはそういう語意で使われていたのか、とも思ったけれど、同著の論者である花田実さんの論文では、私が現在採用している定義と比較的近いものがあったから、おそらくこの定義は志木さんの恣意性によるものだろう。

奇妙なことに、志木さんの論旨では女性を性愛の対称にしているTGの性自認セクシュアリティとは呼ばず、そのTGの性的指向だけをセクシュアリティと呼び、TGが「レズビアンである」か「ヘテロセクシュアルである」かにしか関心がない…。セクシュアリティの話をしているのに、この扱いの違い。
私自身としては、あくまで「セクシュアリティ」を性的指向性的嗜好性自認など、人の性が成り立つ上で重要なあらゆる構成要素をまとめた概念だと定義している(これら概念の詳しい定義は各自調べていただきたい)。なぜそれが妥当かと言うと、実際にそのように流通しているから。…とまあ身も蓋もない事を言うのだけど、定義を共有することは大事だし、また性的指向だけを「セクシュアリティ」とわざわざ名づけ呼ぶことは、特権的に性的欲望だけを「重要な性の構成要素」と捉えることにも繋がるわけで、その偏重はアンフェアだ。それではまるでアセクシュアルなどはセクシュアリティがないかのようだけど、…まさかねそんなこと、言えない(キロロの「長い間」調)。
それに加え、性的指向性自認と言うあくまでレイヤーが違うと(便宜的に)される概念二つを取ってみても、それらが関係しあってる人もいる(しない人もいる)。自分の性別がどのようなものであるかで、自己の性的指向が変わる、というのは十分にありうる。私だって今は「オカマの男フェチ」と名乗る日もあるけれど、もし仮に将来女になることを選択したら、アイデンティティーを「男フェチ」から「異性愛者」に変更する“かも”しれない。こんな風に、性自認性的指向とは何らかの形で繋がっているケースも、どこかしらあるはずなのね。*4
そもそも性的指向概念が通用しない性の人も沢山いるわけで、そうした複雑で曖昧な(とされる)<性>を可視化する重要性を論じているときに、性的指向(とその欲望)だけを「セクシュアリティ」と呼び、他を排した議論で総括するのは、この論文に見られる思想的態度と矛盾していると思う。


そしてこの定義の不明瞭さと不適切さが後の論旨にも影響を及ぼす。彼女は次にセクシュアリティを二つの視点で分けて考える事を試みる。以下にその二つの視点を抜粋。

 実際、セクシュアリティは次のような二つの違った視点から成っていることに注目したい。


  構図としてのセクシュアリティ――男対女という構図の中で、相対的な位置を示すセクシュアリティ。社会一般の中で客観的な色分けを可能とする(区別する)ためのセクシュアリティ
  
  個人のセクシュアリティ――個人の絶対的価値判断に基づいたセクシュアリティ。  

その二つの視点の内容を紹介したのが以下。

シュプレヒコールをあげるレズビアンの団体は、第三者から見れば十把ひとからげにして「レズビアン」であり、男と女ともつきあう女は実態はどうあれ、すべて「バイセクシュアル」としてくくられる。そして、このように第三者を想定した「セクシュアリティ」は、意識され、共有されるもの以外を必要としないだけでなく、その指向に対しては常に厳密である。〔…〕
 個人のセクシュアリティは、相対する視点から離れた個人の絶対性において、ただ個人が個人であるところの指向から成る(性的欲望を中心に据えた性現象の全体をセクシュアリティとするなら、指向とは意識され、目指された性それ自体である。あえて言うならセクシュアリティは人生であり、指向はそのもととなる意思である)。個人のセクシュアリティは客観的な評価を好まない。それは誰がなんと言おうと、個人のものであり、性格が人それぞれ違うように個人のセクシュアリティは「誰々に似ている」というような言い方はできても、決して「誰々とまったく同じ」ではない。そこが構図としてのセクシュアリティともっとも違うところである。

つまり、「構図としてのセクシュアリティ」をコンセンサスを得られるように他者視点で定義付けられたセクシュアリティとした上で、「個人のセクシュアリティ」をそうした他者視点による名づけの行為から離れた、主体的に名乗り上げるセクシュアリティと位置づけたのだ。

さらに彼女はこの二つの視点が混同される事について批判を語る。どういうことかと言うと、私たち個人は現実に様々な性現象を体験しているが、そうした性は、「レズビアン」などの第三者にわかりやすい名前へと強制的にくくられる事でうやむやに(周縁化と忘却)されてしまい、ゆえにその名前の定義から零れ落ちた性を説明できなくなるからだ、と。
なるほど、確かに名前を持つ事を要請される中で、人々は性の多義性を不可視化していかざるを得ない。そこから零れ落ちた性は取るに足らないものとして忘却され、「どの性別を性的に欲望するか」という点だけがセクシュアリティの重要項となってしまう。それは、あらゆるクィアを生存させない事だと、私は思う。そんな背景を知っているから、志木さんは「第三者視点におもねらず、自分視点で嗜好(趣味や好き嫌いと言ってもいい)を語り、セクシュアリティを構築すべき。=それが「個人のセクシュアリティ」である。」と論じているんだ(だからこそ彼女のセクシュアリティ定義は矛盾している)。


…しかし、実際にはどうだろう。「構図としてのセクシュアリティ」と「個人のセクシュアリティ」とは、果たして分けられるモノなのだろうか?
たとえば、女を愛する女が自分の性現象を「ああ、そうか。自分はヘテロではなくレズビアンだからこうなのか」と納得する時もある。つまり、女を愛する事(性現象)、は最初からアイデンティティー(名前)とセットで考えられることもあるんだ。そうしたとき、当人からすればそれは「個人の絶対性」を基に導き出した結論であるが、それは「社会が自分のような性をどのように名づけているか」を参照にした結論であり、志木さんが言うところの「構図としてのセクシュアリティ」になってしまう。第三者視点を参照することと、個人の絶対性は別に食い違わない。
更に他にも、この二つの視点を成り立たせるためには、論理的に大きな問題点がある。
繰り返しになるがそれは、「セクシュアリティ」概念とは何も性的指向だけを指す概念ではない事。なぜなら、私たちはたとえば自分を男か女に位置づけるけれど(そしてそれをセクシュアリティと呼ぶけれど)、それは自分が勝手に名乗ったら自動的に成立するものではない。たとえば今私が「自分は女だよ!」と宣言したところで認めはしないだろう人も数多くいるだろう*5。そうしたら私は安易に自分を女だとは思えないだろうし、宣言する事もできなくなるかもしれない。もしかしたら「仕方ないから男でいいです、たぶん男なんです、間違ってました」と主張を覆すかもしれない。まあ、それは極端な例ではあるけれど、パスするかどうか(或いはリードされるかどうか、どう承認されるか)、というのは、個人が性自認を確立する上で重要な条件の一つと成っているんだよね。また、「パスされない自分の性別」も、その人にとっては重要なセクシュアリティであるはずだ。それを踏まえて考えるのなら、「セクシュアリティ」とは時に他者のコンセンサス(パス・リードとか承認とかの<まなざし>)が必要なものということなり、勝手に個人が自由奔放に取捨選択出来るものではないって事になる(承認が必要のない人も、いる)。志木さん自身も、TGがレズビアンとして認められないケースを認めているが、これはいわゆる、アイデンティファイの不可能性といったものだ。

そうした複雑な絡み合いがある中で、私たちの内的で個人的な性は、社会性を帯びていると言える。アイデンティティーとはそもそも社会とわたしとの関係性の中で構築されるものだから、最初っから個人の主観だけで構築される訳がない。…そもそも、個人の意思が相対的構図(わたしが言うところの社会性)と無関係でいられるはずはないので、この二つの視点は実は切り離せないモノなのである。


さて、最後に志木さんの主張を読んでみよう。(疲れた…。。。。

 むろん、私たちが現場に持ち込むのは個人のセクシュアリティである。私たちは自分の「嗜好」について、まず話すべきだろう。それは私たちの中にいかに多様な「嗜好」があるかを確認し、認め合う作業となろう。「嗜好」の多様性は「指向」として意識された時、私たちをからめとろうとする今ある概念としてのタブー(「何々でなければならない」)をいっそう際立たせ、その限界性をあきらかにする。そして、現実にある性の多様性、性の自由意志を阻もうとするすべての思想、すべての社会通念は、ここいおいて打破されるべきなのである。

ふむ。またここでも嗜好と指向があいまいな境界線を引いててよくわからないのだけど、性別二元制に対応した「性的指向」概念の特権的な政治性を嗜好の政治性で揺るがす、と言うのなら、僭越ながら私も結構共感いたします。


ただ、上で見たように名乗る事や欲望を語ることの可能性不可能性とは、一筋縄ではいかない問題なので、志木さんも仰るように、議論と思考の過程で構築され、(より望ましいと思われる形で)浸透していくべきなのだと愚考します。

色々と考えさせられる論文でした!はい、ほい、じゃ!

*1:ヘテロフェミニスト……と言うか上野さんによる、搾取的なレズビアニズム消費に対する批判とか。…引用部分だけでもすごい嫌な感じである。

*2:ただし、様々な女性たち(バイ・ビアン・ヘテロ女性)の「一部」を説明する時に、若干パターン化した物言いが散見され、その表象が女性当人にとって暴力的であるかもしれない。が、私はここでそれに触れることは(膨大な量の論述が必要であり、今回の趣旨と離れるので)やめておこうと思う。

*3:ありゃ、そういえば性自認って英語でセクシュアルアイデンティティーとも表記されるのかぁ。ジェンダーの方がよいと思うけどなぁ。

*4:それは、性的指向概念(ヘテロ・ホモ)が基より自己の性別を自明のものとする前提で成り立っている事を考えれば、当然だ。自分の性別がわからなければヘテロもホモもないからね。そしてそれを志木さんは分かっているから、「言葉の限界性」を指摘しているのではないか。

*5:仮にアイデンティティ全般の話で言うなら、別に「女」でなくてもいい。たとえば「白人」でも何でもいい。果たして勝手に名乗ったからと言って、誰がソレを認めるだろうか。認める人もいるだろうけれど、それはアイデンティティ選択の自由を公的に保障するものでは決してない。