批評の正当性を認めるということ、何をどう語り対話してゆくべきかの模索。

まだ続くみたいですけど先にお返事。

http://blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/77054.html

本題に入る前に少しだけ。結局首突っ込んじゃってすいません。とりあえず、あくまで私の関心にそって書いてみます。

早速レス。

「たとえ他者を律することになっても表象(暴力)を語ることの正当性は疑いようもない」というお言葉ですが、「律する」ってどういう意味でしょうか。「利する」ならまだわかるのですが。

利するの誤りです。

私はモラルの次元ではなく、腐女子との対話の糸口が欲しいなら従来のノンケホモフォビック男性による腐女子叩きの言説に回収されそうなPCチェックは「戦略」としていかがなものか、と言っただけなので正当性については否定しておりません。PCチェック、やりたきゃやればいいし(受けるかどうかは別)。

とゆんゆんさんは仰っています。あなたのこの主張は、Ry0TAさんのコメント欄で幾度も繰り返されています。それを改めて読んでみましょう。

やおい/BLをよくご存じないままPCチェックに励まれるうち、いつの間にか異性愛男性の「腐女子は自重しろ」「腐女子は巣に帰れ」(=女は同性愛表現、男性に対する性欲の表現を自粛しろ)という声に唱和して、家父長的なヘテロセクシズムに加担することになっていなければいいのですが。

http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20080202/1201956488#c

つまり、やおい/BLはヘテロセクシズムよりも家父長制の産物であり、故あって男子禁制である場に、ゲイであろうとそうでなかろうと男性が立ち入るならその辺を踏まえないと、男性であるというだけで言論の弾圧になりかねないということです。
〔中略〕
ある対象を批評するとき、何を中心的トピックとするかは本人の自由です。ただ、Ry0TAさんは、もしかして異性愛中心主義者VS同性愛主義者の対立に拘泥するあまり、家父長制による男女の非対称性をお忘れになってはいませんか。異性愛中心主義と家父長制はコインの裏表のようにして女性を抑圧してきた、その産物がやおい/BLなのに、「異性愛規範に基づいた同性愛表象が生産されることへの批判」を、何の断りもなく本来の問題と言ってしまうのはあまりにも片手落ちにすぎませんか。

率直に言えば、家父長制批判を不十分にしか踏まえていない「やおい/BLの同性愛的表象には問題がある」という批評は、「男性同性愛表象のようなわけわからんものを愛好する腐女子キモい」というレトリックで腐女子を叩いてきた異性愛男性に新たに「正当性」という言い分を与えることで利用されてしまう気がします。
本気でゲイとして腐女子と対話したいなら、そういう差別的な異性愛男性を利するような戦略は賢くないと思うのですが、どうでしょうか。

ですがこれらの批判はRy0TAさんと佐藤雅樹氏のエッセイに対して不当なものです。

ではまず、私の論旨を再度説明してみたいと思います。*1
私は先のエントリでm-aboさんに「外せないケースもあるがそれ以外なら必ずしも触れなければならない、とまでは言えないのでは」的なことを書きました。また、その例として「たとえばBLがゲイを差別しているという根拠で存在や表現を否定されている場合は、やはりゲイ差別性を踏まえた上で肯定方法を考えるべきだろう」と書きました。なぜなら、そこでゲイへの差別性に触れずに存在を肯定してしまうと、(数ある男性同性愛表象の中でBLとて差別に加担している側面もあるのに、)差別の問題と向き合わない隠蔽行為となるからですね。その肯定方法は肯定ではなく欺瞞だし、それ自体が差別に加担しうるレトリックなので、問題です。
そのような文脈と言うか経緯があるのなら、当然向き合うべき課題は(差別だけに限らず)多々あるはず。


たとえ話をしましょう。

雑誌対談でも床屋談義でも何でも構わないのですが、どこかの誰かに「BLは文学やマンガとしての質が低い」と否定されたとします。これには「その“質”とやらは一体誰が決めるのか、腐を恣意的に排除した視点のみで、文化を序列化しているだけではないのか」などと批判し得る。けれどそこで「BLはゲイにとって差別的だ」とする観点を盛り込む必要性は、おそらく考えられない。あと、「BLの市場増大とゲイ受容の関連性」といった議論等を加えるなら非常にややこしくなりますが、それこそ要研究な分野ですね。・・・ちなみにこれらの議論は、表現(表象)批評というよりは、存在の是非論にすらなるなる議論なので、ちょっと佐藤氏やRy0TAさんの議論対象とは異なりますけれどね。

他にもより表現に近い議論として、「BLは心理描写に長けている」「BLの表紙って何故か男二人が抱き合ってこちらに視線を向けてるものが多いけど、なんで?」という話にゲイの差別性が関与しているかどうかは、実際研究してみないと分かりませんよね(↑この場合おそらく関与はナイでしょう)。だから、最初からゲイ差別性に触れるべきという課題が成り立つとは限らない。
単純な話ですが、そういうことです。

もちろん、中にはゲイ差別性の関与が考えられるケースもあります。たとえば「BLのメインストリームでは未だにイカホモと呼ばれるよな男性身体はあまり描かれない」といった議論では、おそらく男性身体嫌悪やホモフォビアも関わっている可能性は十分に考えられる。ですから、「BLで描かれる男性身体表象」を議論する際には、そこらへんを加味しないといけない場面も少なからず出てくるはずでしょう。

また、佐藤氏のエッセイでもゲイ差別性に触れるべき(少なくとも問題を不可視化させるべきではない)ケースが指摘されていましたね。

 かつて女たちをある呪縛から解き放つ役割をなした表現物が、いまでは別の誰かを封じ込めるものに変貌している。

ここで言われる少年愛を描いた「少女漫画」が、性描写の非タブー化をもたらしたことの功罪は、女性解放を肯定する上で触れる必要が何かしらあるはずです。ソレを差し引いたばかりの肯定言説だけでは見落とされるものもある、というのはご理解いただけますよね。
これが「文脈によって外せないケース」の例です。・・・まあ、正直どこまで「触れるべき」と言えるかは若干疑問ですが、肯定言説が問題を不可視化させないように、語り手は配慮すべきではないでしょうか。それが研究者によるユリイカなど影響力のある媒体で行われた発言なら、尚の事。


以上がm-aboさんに書いたレスの説明です。


この上で、ゆんゆんさんの「ミソジニー加担の可能性」という議論を考えてみましょう。

私はコレに対して「同じ疾患ではないから異なる処方箋が用意されるべき」と書きました。次にこれの詳細を書きます。
あっと。その前にまずお聞きしますが、表象や表象暴力を批評する事と 言説が及ぼす社会的影響(受け手の政治的行為)はあくまで別ですよね?別であると言う事は、責任の所在も別々であるということです。
確かに、何かゲイがBLのことを批判的に書くと(まるで腐女子だけがゲイに対して差別主義者であるかのように)「自分も叩いていいんだ」とバッシングが湧いてくることは十分にあり得るし、実際あったと思います。ですが、それって批評者が悪いんですか?それ、批評者の取るべき責任ですか?
もちろん、表象ではなく腐女子やBLの存在意義を対象にした批評ですと話は変わってきますが、今回の場合は「ホモフォビアを指摘」などの表象暴力系を扱った話ですね。であるのに、指摘した内容以上の責任を負うべきなのでしょうか?

もしかして、別に女性文化を攻撃する内容を発信してなくても、男性であれば常に「この批評は腐バッシングを是とするものではありません、あしからず」といちいち申し添えなければならないとお考えですか?しかし、たとえBLの男性同性愛表象の差別性を指摘したからと言って、BLやBLを消費している人たちをバッシングしていいなんて理由は一つもないんですよ。で、私の場合は、何か問題がある表現は消されるべきか、というとそうでもないと思ってます。先にも申し上げましたが「問題ごとBLを肯定する」のが私の出発点です。*2
そして、(本当に存在自体を否定して死ねとか言う人もいるかもしれませんが)この場合の批評者はBLの表象を問題化したのであって、「だから皆も叩いていいんですよ」とは言ってないんですね。なのに「当事者であるゲイもBLを批判したんだから」といった理由で、何をしても許されると思い込むような輩が阿呆なんですよ。そういう輩は自分の振る舞いを批判されるべきだし、自分の振る舞いに責任を持つべきです。*3
実際にそんな勘違いが噴出しやすい状況があったとしても、そのために批評という行為が阻害されてはならないと私は考えます。(無論ミスリーディングへの配慮は欠かせませんが。)
だからこそ、責任は阿呆に取らせるべきなのですね。批評者が背負うべきものではありません。そこで批評者にその責任を負わすと、批評者は自由に批評する、という行為を萎縮させてしまうかもしれません。(現状ではあまりなさそうな話ですが、責任を負わされるのであれば、という仮定の話です)

もっとも、ゆんゆんさんは、ゲイが男性であるために何の「配慮」もせずに女性文化に「踏み込む」ことは、女性への「言論弾圧」になりかねないと仰るかもしれません。
これもあくまで男性としての、もしくはポジショナリティに関わりなく誰もが持つべき倫理性であって、批評者としての責任ではありません。
が、これについて私なりに解決法を書かせてください。
実際にBLへの言及が叩く口実に利用されるなど、もしそこに女性文化への攻撃が見られたなら、批評行為以前にそれらを一つ一つ指摘して行って「表象系の問題を語る事と、女性文化への是非は分けて考えよう」とか「問題があるからって全否定と言うのは出発点として間違っている」とか訴えつつ、女性文化への配慮をしていけば良い、と思います。

しかし、勿論批評とて社会に生きる人間のやることですから、諸々問題が生じる場合もあるでしょう。その場合は当然、批評者としての責任を持つべきですね。具体的にはたとえば、テキストの表象を批評してるのに「だから女が書くものは駄目なんだ」などと言って批評行為と自分のミソジニーを混同させない事。もしくはその批評の内容自体がミソジニー的観点に立脚したものでないか、男性としての権威を利用して印象操作などしていないかなど、自ら細心の注意を払う事。その他はまあ常識の範疇ですね。
それらの問題点がない場合は、批評という行為自体は正当なのですから、“いかなる理由があっても”批判される謂れはありません。正当性を認める、と言うのはそういうことです。

あと、あなたはRy0TAさん並びに佐藤氏のエッセイを批判する理由として、女性文化の成り立ちや抑圧に配慮せずBLを問題化することに偏っている(「一面性において」)、と仰います。が、例の佐藤氏のエッセイにしても、BLの糾弾ではなく表現を批評していくことを論じた内容ですね。バッシングを扇動したわけじゃありません。
・・・確かに攻撃的で、私自身これはBLとそれを消費する者への偏見と予断ではないか、と感じる部分はありました。この部分への批判は妥当だと思います。ですが、彼の論旨はあくまで「少女マンガ」の表現を問題化し、何に向かい合うべきかを示した内容な訳です。それが批判される謂れを、私は思いつかない。Ry0TAさんにしても同じことです。そして、佐藤氏もけして「ホモフォビアで切る」といった一面的な視点だけで論じていたわけではないはず。

クィア・スタディーズ (’96)

クィア・スタディーズ (’96)

 竹宮恵子は、自作について次のように語っている。
「漫画には発表された時代とまったく無関係な作品と、そうでないものとあって、私の『風と木の詩』は後者。少女漫画界で、性描写がほとんどご法度だった頃に、自らに課している性の緊縛から、少女達を精神的に解放したくて、少年対少年という形に変えて緊縛の裏をかいた。だから、ゲイを表現したものとはおのずと違う」(『CREA』一九九一年三月号より)。
〔中略〕
 しかし、性の問題を少女マンガで扱うのは、とてもデリケートで難しかった。「少女」が主人公では、女の子である読者にとって生々しすぎるからだ。「少年」と違って、「少女」には性の欲望はないことにされてきた。ましてや、その価値基準に当の女の子たち自身が社会から完全包囲されているのだから、ストレートな表現方法では、読者からも、出版社からも拒絶されかねない。そんな事情から「少年」という性差のあいまいなもの同士の組み合わせとなったのだろう。
●「耽美ホモ」から「やおい」へ 
 ところが、作家の意図とは別のところで、「少年愛」は読者である女性たちにとって、きわめておいしい未知のデザートだった。〔中略〕彼らが演じるのは、世間からは決して認められず、それゆえにこそ激しい「禁断の恋」なのである。今どき「禁断の恋」なんて、そうそうお目にかかれはしない。しかも、女である自分は、当事者としてなんら脅かされることなく、あくまで傍観者として報われない恋の道行をながめていればいい。

 「同性愛表現」をゲームのようにお気楽にたのしめるようになったことで、女たちが性に対する能動性を獲得した、という解釈もある。 けれども、そのことに対する是非をこの場で言ったところでしかたがないので、ここでは、あくまでゲイにとって、この問題がどういうことなのかを考えてみよう。
 〔中略〕
 かつて女たちをある呪縛から解き放つ役割をなした表現物が、いまでは別の誰かを封じ込めるものに変貌している。

 「女性差別表現」という言葉がある。「女を欲望の対象としての描き、女の性を商品化する表現」、または「女を、男社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込める表現」であると理解している。
〔中略〕
 「女性差別表現」の区分でいくならば、「ヤオイ表現物」は「男性同性愛者の性を商品化している」と言うことができるだろうし、「男性同性愛者を、異性愛社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込める表現」であるから、立派な「ゲイ差別表現」だ。
〔中略〕
 ここで、当事者以外が表現の担い手になるのはすべていけないのか、という疑問が残る。どうやったところで、表現物には作者が身を置く社会の価値観が反映されてしまう。
〔中略〕
 問題は「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」なのである。

佐藤氏の論理精度に対する評価はさておき、佐藤氏は性描写の非タブー化を実践したなど少女漫画の内情を確認した上で、非対称的権力関係における性の商品化及び表象暴力を問題化していたように思えます。ゆんゆんさんは「一面性」を批判する、と言いますが、彼はそうした背景を加味した上で(それでも尚問題である)表象暴力と向き合ったのではなかったでしょうか。そして彼は最後に、「問題はホモフォビアである」と答えています。
私自身も「“どのような背景があっても”表象暴力に対しては何らかの批判的対応があるべきだ」と考えます。そうした目的の上で行われる批評にとって、“表現(表象)こそ”を問題化することの何が「片手落ち」で戦略過誤だと言うのでしょう。

不当な批判は、その者の行為を貶めます。これ以上謂れのない理由で佐藤氏のエッセイを批判するのはおやめください。


それから「腐女子との対話の糸口が欲しいなら・・・」と順序が逆さな事を仰ってますが、そもそもゆんゆんさんは表象暴力の問題前提を見誤っておられます。
私もさっきから「ゲイ差別性ゲイ差別性」ばかり言ってますが、BLによる男性同性愛表象に“呼ばれた”のは、他でもない、ゲイ以外も含む男性(と呼ばれうる)側です。更に言えば、BLが主に男性を描いたジャンルとは言え、同性間の愛を表象したものであるなら、その表象に呼ばれたのはレズビアンバイセクシュアル女性でもあったかもしれません。*4BLの男性同性愛表象は男性側やクィアを呼んだのであって、その場合表象の担い手は呼ばれた者からの応答に答える道義があるのではないでしょうか(表象暴力に対する批判であれば特に)。表象しておいて自分は関係がないなんて素振りは認められません。

そういう状況で男性同性愛表象になじみがあるという理由だけで、ゲイへの配慮を腐女子により多く求めるのは、腐女子に幻想を抱き過ぎだと思うのです

とありますが、これも経緯を見誤ってますね。腐女子にBLややおいのあらゆる表象の責任があるわけでは勿論ないですが、しかし、表象(特に暴力であった場合は!)を担う機会が多ければ多いだけ、応答を求められる機会も増すのが当然の帰結です*5
幻想を抱くとかの話ではなくて、人には各々の立場や自分の振る舞いによって、背負うべきものが事後的に生じてゆくということです。というか、この場合腐女子かどうかはどうでもいいですね。
誤解のないように言いますが、もちろんそれがBLに限らないあらゆる「同性愛」への話であるなら、それこそBLの表象に関わった人以外の者にも各々背負っているものがあります。表象の担い手は表象された者への応答責任が(少なくとも道義的には)ある、という話です。

応答を求める行為が女性の言論弾圧に変わる可能性ですか?それは先ほども申し上げたとおりです。

仮にそれが幻想ではなく、腐女子の方が例えばTDNネタなどを楽しむノンケ男より立場が弱いから俺たちの言うことに耳を貸さざるを得ないだろうとゲイ陣営が思っているとしたら、パワハラ親父の発想と何ら変わりはないですよね。パワハラ親父の所業と同じく消極的な抵抗にあうだけです。

それからこの度ゆんゆんさんにつきましては、あまりに相手の心理を邪推し過ぎていると思います。たとえばあるゲイが「女性なのに男性同性愛モノを描くのは許せない」と言ったとします。その主張自体はまったく賛同できないものですが、ここでのゲイさんはただ「女に男を語る資格はない」というミソジナスな心理だけを持っているかもしれません。しかしソレを言うなら、もしかしたら「これ以上当事者以外からの性的視線に耐えられない」という心理もあったかもしれない。他にも、可能性だけならいくらでも考えられるわけです。
こういうのを「内心の推定」と言うのでしょうか?実りがないですね。
とまれ、「相手にはこんな差別的感情があるのではないか」という恐怖自体はとても共感するし、私も日頃他人に対してこの思いは払拭し切れません。しかし、議論をする際はせめて相手に最低限の信用を置くべきだ、とも思います。信用と言っても別に相手の事を素晴らしい人間だとか差別感情の一切ない人だとか思う必要はなくて、ただ「相手の振る舞いから読み取れるもので判断する」であるとか「根拠もない場合は疑ってかからない」という基本的な姿勢が必要だと思います。そうした姿勢がなければ、まともに議論は出来ませんよね。


BLを批判する方々がどういった理由で行うのかは誰にもわかりません。分からないからこそ、無闇な邪推は控えるべきです。



 

*1:ところでここではゆんゆんさんや、佐藤氏言う「少女漫画」とか「やおい」「ヤオイ」を、「BL」で統一させますが、議論するための簡略化以外の意図はありません。

*2:ちなみに私のこの立場は「では、あなたはヘイトスピーチを肯定しますか」という問いに晒されますが、それもやはり色んな角度から他人の人権を侵害するほどの問題性があるか実証が必要だと答えます。

*3:てか、そういう輩に限って自分の加害性は華麗にスルーする奴だったり、BLにすべての差別責任をなすりつけたりするだけとか、本当にうんざりです。当たり前の話ですが、自分の嫌いなものを叩きたいだけ、という意図しか見出せない便乗など価値を貶めているだけであり、誰にとっても望ましくありません。

*4:たとえば「異性を愛さない人は変だ」という言説は、男女限らず非異性愛者に抑圧的であることは明らかですね。そして、この場合はたとえBLの議論だとしても、女性の存在を不可視化させるべきではない。<自戒を込めて。

*5:ここで私は、「実際に執筆する」だとか、「やおい論をする」だとか、あるいは「消費する事で文化を支えている」場合を、「担う」と表現しています。もちろん、それぞれに負うべきものや程度は異なります。