BLの「表象」を問題化する立場としてレスのレス、m-aboさんへ。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20090106/1231253753

m-aboさん、今回はご丁寧なレスをしてもらって恐縮です。

この度、m-aboさんには、こちらの「ゲイだからじゃない、お前だから好きなんだ」をクィアしたいのですが、どうすればいいでしょうか? - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃないにレスポンスを頂いたわけですが、元々m-aboさんのお書きになられた11月22日付け記事『腐女子の履歴書』に対して「でも別に担い手がどう思っていようと表象暴力はあるにはあるし、そもそもBL批判者だって担い手の心理など(必ずしも)問題にしてなかったよね」と言いたかっただけなんですよ。それをわざわざm-aboさんのコメント欄ではなく、雑感を足してTBにしただけなのに、正直レスポンスを頂けるとは考えてませんでした。
ですから、どうぞ年を越したことなどはお気になさらないでください。それを言うと私も未だにかけてない記事がありますからー・・・・。


では早速。

 いっぽうnodadaさんの目指す読みの方向に、僕が基本的に共感できるのは、「キャラクタの深層心理を勝手に想像したい」と書かれている、この「勝手に」の一語が負うているもののゆえ、だったりします。「積極的」な「誤読」とは、さまざまに読まれうることを逆手にとった読みの実践、と受け取ったのですが、どうでしょう?

えー、ここら辺は確かに言われてもみればそういう政治的意図を持ってる自覚はあったのですが・・・ただ、私は自分でも自分が分からなくなる時がアルので・・・Zさんにも「考えなしでした」と書きました。。。ここらへんは、あまり気にしないでください^^;


で、「表現されたものがさまざまに読まれうることがもたらす政治性」についてですが、ごめんなさい、そもそも表象暴力って「ある人からすると差別的に読めるから起こりうる問題」なのでしょうか・・・?根本的に表象暴力というものがどういったものかを押さえてないとよく分からないのですが、私も中途半端な理解だったようで、ちょっと混乱してます。

とりあえず、今回は置いておくとして、件のフレーズについて書かせてください。


・・・以下に議論経緯を把握なさってない読者様用に先の文章を再掲します。ご存知の方はどうぞ読み飛ばしてください。

 ただ、「表象暴力論」者の端くれ(笑)としては、コラム「TOPIC1 表現って暴力?」には少し疑問が残りました。「ホモだからじゃない、おまえだから好きなんだ」という、やおい・BLにおけるゲイ差別性の象徴のようになったセリフについて、無記名の筆者は、それはホモフォビアではなく、性愛全般への嫌悪が言わせるものだ、と指摘しています。やおい・BLの中で、ゲイ男性が、一種セックスモンスター的な、男なら誰でもいい、というような人物像で描かれたとしても、それは、ヘテロ男性を含む男性の性愛全般をそのようなものとして女性が嫌悪していること(「男って、女(男)なら誰でもいいの!?」みたいな感じ?)の現われなのだ、と。

 その筋道自体は、個人的にはうなずけるものです。しかしまず、おおかたの読み手・書き手の意識せざる共通了解が仮にそうだったとしても、現れた表現がホモフォビックに読まれてしまい、同性愛嫌悪を再生産しかねないことまでもは、否定できない。そして何より、上記のような正当化は、腐女子がひとり残らずそうだ(=そのように読む者にかぎり「腐女子」と見なす?)、とでも主張するのでない限り、正当化からこぼれ落ちる誰かを、必然的に生み出してしまうはずです。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20081122/1227366828

この記事に対して私はこう書きました。

この手の言説は批判対応という文脈においては(m-aboさんが仰るような)内部抑圧に転じたり、あるいは抑圧自体を隠蔽するレトリックとしてしか有用ではないと思います。しかし、だからと言って分析する事自体を無駄だとは思いません。匿名の書き手さん↑とは別の方向性ですが、BLを読解したい私としては、男が男を愛することの理由に「お前だから好き」と言わざるを得なかった背景、キャラクタの深層心理を勝手に想像したい感じです。

【中略】

そして、担い手が「なぜこのような表現が産まれたのか」を考えることで、差別性発見のみならず表現の希望・クィア性を見つけ出すこともありうると思います。



たとえば、前から私は「ゲイじゃない、お前がすきなんだ」を『未だ名前の与えられない関係・性愛』(あるいは「与えられているけど名前の認知度が低く、当事者がアイデンティファイできない関係・性愛」)として積極的に誤読(?)しています。ゲイレズビアンバイヘテロといった既存枠から重複しつつも逸脱した関係・性愛として読むことで、異性愛/同性愛が二項対立的ではないことに気付くテキストだと評価する。*2しかして同時に、それを非政治的意味合いの「純愛」「究極の愛」へと安易に昇華させず、あくまで「セクシュアリティジェンダー」という政治的土台に引っ張り出し、キャラクター(攻め・受け)を「自分達の関係・性愛を説明するための名前を社会から奪われた主体」としてまなざす。また同時に「彼らは一体どんな名づけの不可能性に追いやられているのか」という根本を読解すると面白いんじゃないか、と思います*3。

もちろんそれは、今回の言説同様ホモフォビアとして読めるテキストの暴力性を看過しやすいでしょうが、それを最小限に食い留め、(究極愛だとか表象される)彼らの関係性をクィアすることが出来たら多少は有益かと思います。

http://d.hatena.ne.jp/nodada/20081211/p1

そしてm-aboさんからは

「ゲイだからじゃない云々」のセリフが例として取り上げられがちなのは、やおい・BLにおけるゲイ差別的な一面についてピンとこない人にも分かりやすい例だから、にすぎなかったんじゃないでしょうか(自分の場合はそうです)。なにも、このセリフを逐一取り上げてモグラ叩きをする必要はない(笑)*3。このセリフが、具体的な作品の細部を欠いたまま、表象暴力に関する問題提起とBLバッシングとを結びつけるシンボルとして利用されるとしたら、そのことには反対しますし、nodadaさんの言われる「誤読」の方向性というのも、その手の安易なバッシングに対する解毒剤のひとつになるんじゃないかな、と感じます。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20090106/1231253753

というレスポンスを頂けました。ありがとうございます。


さてさて。これについて私が今思った雑感を書いてみたいです。

「ゲイだからじゃない云々」のセリフが例として取り上げられがちなのは、やおい・BLにおけるゲイ差別的な一面についてピンとこない人にも分かりやすい例だから、にすぎなかったんじゃないでしょうか(自分の場合はそうです)

というのは、仰るとおり個々の実践において偽りなき意図だと思いますが、今まで、あるいは当時、このフレーズが批判されてきた意図には「分かりやすいから」以外のものもあった気もしますよね。とりわけ、BL表現におけるアイデンティティーポリティクスを読み解く立場としては、正にゲイアイデンティティの受容・遺棄こそが主な課題だったでしょう。

たとえば先のコメント欄で私が上げた『お金がない』シリーズには、オカマキャラに対して「オカマの人権は認めない」と豪語するキャラクタ(狩納たん)がいて*1、そのキャラクタが一人の同性(綾瀬たん)を好きなことを「俺はホモじゃない、お前は特別!」と発言します。このケースは、正しく差別感情が顕著で「皆にも分かりやすい一例」なのですが、同時に「男に恋している自分」と「ゲイではない自分」と「男を愛するゲイ」の間で引き裂かれる自我の一例でもあります。
このマッチョな狩納たんと、二人のゲイネスが感じられない恋愛において、明らかにゲイアイデンティティは拒否られているのであり、にもかかあらず「ゲイではない、ゆえに特別であること」に喜ぶ綾瀬たんがいて、そこで二人の恋愛に幸福が見出されている。
「ゲイじゃない男性が自分を特別な性愛の対象だと思ってくれる」。彼らの男性同性間恋愛において、“ゲイアイデンティティの遺棄”は逆に感動要素として機能しうるのに、「ゲイであること」は二人の恋愛幸福に寄与しないかのように示されている。しかもご丁寧なことに、オカマに人権はないらしいのでホモフォビアへの批判性があるとは解釈できないし、一貫して同性愛の尊厳は奪われたままです。
これは、私のようなゲイアイデンティティを受け入れられず、しかし完全に距離を置く事も出来なかったBL読みのクィアとしては、重大な問題でした。たとえ『お金がない』シリーズのような表現がBL内で主流でなかったとしても・・・です。

・・・いえ、m-aboさんの「取り上げられがちな背景」に対する考察が間違いであるとかないとかでなく、このフレーズに対して特別な問題意識を持つ者もいる/いたはずだと言うことです。
そしてその事は私などに言われるまでもなくm-aboさんもお分かりでしょうし、このフレーズだけがあまりにシンボリックに批判されることで、一本の木だけに視線が集まり林全体を見渡せなくなるのは問題です。その点私もm-aboさんに強く同感。したいのはシンボル叩きじゃないんだ。ただ、個々に批評の動機がある。


その上で書くのですが、私はあえてこのフレーズを「逐一取り上げて」、まるで「もぐら叩き」のごとく、このフレーズが 今/この作品において/どのように/なにを意味(表象)したのか、・・・探り続ける営みを肯定します。しかも割合積極的に。

私は、ゲイじゃないお!諸君を「未だ名前の与えられない関係・性愛(この場合は“主体”かな)」として批評したいと言いましたが、それは良くも悪くもシンボリックに認識された特定のフレーズをシツコク考え続けることをも意味します。
ですから、あたしの誤読方向性が「解毒」どころかシンボル叩きに同調する恐れすらあります。

さて、ここら辺から難しい課題です。

「表象暴力」「ゲイへの差別性」の問題提起そのものは、たんなる事実の指摘、ないしただの正論にすぎないと個人的には思っています。べつに批判とは言えないだろう、そんなの当たり前じゃなかったの、と(June誌が「ゲイへの配慮を」といったニュアンスを記事中で匂わせ始めた当時からの読者の中にさえ、「何をいまさら」的な醒めた感覚があったというのですから…)。批判にしろ反批判にしろ、具体的な作品なり事象が例に挙げられてはじめて成り立つのであって、ジャンルとして語るかぎり、そういう側面があるよ、という以上のことは言えない。
 その意味で、具体的に語る段階だ、という指摘にも芯から同感しますし、にもかかわらず、未だ具体論の手前で「そういう側面がある」ということも、しつこく呟くしかない、とも思います*2

「具体的作品例を挙げず、ジャンルとして言うのであればそういう側面もあるとしかいえない」「同時にそういう側面があることも呟き続ける必要がある」というのは、本・・・・っ当にその通りですね。

やおい・BLが何はともあれ「男同士の恋愛」を描くものである以上、やおい・BLを考えようとするなら、ゲイ差別性について考えることは避けられない、としか僕には思えません*4。

 やおいやBLが、今はさておき初期においては、もっぱら男に表象される側であった女性がはじめて客体化しうる「男(=主体)」の表象でありながら、同時に、異性愛社会では周縁として表象される側であり続ける男性同性愛者にかかわる表象でもあるならなおのこと…。



 僕がいわゆる「やおい論者」を自任する人々に期待していた(いや、むろん、今もしていますが)のは、そういった「当たり前」をどう位置づけるか…根本の差別性をどう引き受けるか、その問題をふまえた上で、やおい・BLを肯定していく筋道でした。逆に言えば、差別性をどの程度に見積もるかはさておき、その問題に触れないということは思いもしませんでした。

 ですから、例の『腐女子マンガ体系』が、二、三の論者をのぞいてその問題をスルーしていた時の肩透かし感たるや(笑)。

そして、・・・ここらへんすごく難しくって、私も戸惑い気味なのですが少しだけ。
まず、BLに限らず表象には暴力性・差別性が切り離せない、という前提でしたら、勿論全面的に同意いたします。とまれ、作品によって表象する主体が違うので、「ゲイ差別性」か「女性差別性」か「肥満差別性」かはテキストによるけれど。その上で、個々のテキストにどういった形で表象暴力が現れているかを読解しつつ、テキストに意味と価値を与えることで批評とか批判が成り立つのだと思います。
ですから、確かに「表象には暴力性がある」というメタな議論そのものは批判ではなく事実と言えます。批判とか批評はそれが「どういったもので、どういった意味を持ちうるのか」の掘り下げ作業のことでしょうね、きっと。

で、m-aboさんの議論を乱暴に要約させていただくと、「BLが男同士の恋愛をテーマに扱っている以上ゲイ差別性を考えるのは避けられない、ゆえにBLを肯定するならそこに触れないのは考えられないことだった」というご指摘だったと解釈しています。
・・・しかし、これについて私は、「文脈によって外せない事は当然あるけれど、それを除けばBLを肯定するにあたってどこまでゲイ差別性(というか男性同士の性愛表象)を考えるべきかは、場合による」と思ってしまいます。案件によってはソレを「考えること」はベストでなくベターかな、という酷い結論です。*3


以前に「やおい・BLが女性抑圧に対抗する手段であった経緯を語らずにBLの男性同性愛表象を問題化するのは、世間に跋扈する腐女子バッシングを律する利する行為であまり賢くないのでは」といった意見がありました。佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
これについて私は、「たとえ他者を律することになっても表象(暴力)を語ることの正当性は疑いようもないし、弊害(というのも語弊があるけれど)については別の『処方箋』を用意すべき」と考えます。だって同じ『疾患』ではないから。
で、BL(そのものというよりBLの表現ですね)を肯定するにあたって、何かエンカレッジな側面もあると指摘する際にたとえばゲイ差別性等をどう語るべきか、というのは、本当に個々のケースによってあるべき指標が異なると思います。
たとえば、あるBLがポリガマスな恋愛をモノガマスな恋愛と対等に描いていたとします。この場合、「BLにはゲイ差別の側面があ」ったとしても評価に値する側面が消えるとは限らない。けれど、ポリガマスな恋愛を肯定しているけれど、実は「ポリガマスなのはいいけどゲイなのは良くないよね」という「ヘテロならいいけどレズビアンバイゲイは良くないよね」と同じ“性愛の序列化”を行う内容であれば、勿論ポリガミー側面の評価と同時にゲイ差別性を問題にして、性愛の序列化などを問題化(語る)すべきと思います。*4
つまり、どの表現がゲイ差別性と関わるのかを、個別に見なければ難しいかな、と。・・・ここら辺詰めが甘かったら指摘してください。


ちなみに、表現でなく「BL」そのものとしては、問題性の有無にかかかわらず無条件で肯定する、というのが私の出発点です。
しかし、m-aboさんが『腐女子マンガ体系』に抱いた膝カックンを私が理解できていないのかもしれません。
もし、「BLが表現・文化として差別されている、しかもゲイ差別性を根拠に否定されている」という文脈でしたら、私も少し意見が違ってきます。それにはやはり、戦略的に言っても道義性から言っても、ゲイ差別性に触れるべきだと思います。
「それでもBLはあっても良い。そして私はBLの抱える問題性も丸ごとBLを掘り下げ認めてゆくのだ」という姿勢。それこそが“無条件のBL肯定”だからです。
たとえば「でも、こんな良い側面もあるんだよ、だから悪いところばかりじゃないよ(悪いところばかりの文化は否定されても仕方がないけどね!私たちは違うから見逃してね)」みたいな、「差別」という問題を隠蔽した肯定など、欺瞞と卑下に他ならないですし。

そういえばあの本、もうどんな内容だったか忘れてしまったなぁ。


それから。

 やおい・BL作品にクィア性を見いだしていく作業は、当然、そのすべての読者に対しても作品をクィア的に読み開くことにつながる。ある性的な表現に触れるとき、受け手のセクシャリティがまったくそれに影響されない、と決めつける理由はないはずです…nodadaさんに今さら念を押すようなことではないですが(笑)。セクシャリティの可塑性に対して自分を閉じないでいる受け手にとって、見いだされたクィア性は、自身のセクシャリティにおいて読みの広がりを受けとめるきっかけに、もしかしたら、なるのかもしれない…とは思っています。

という点ですが、これは念を押すご指摘感謝いたします〜♪こうやって言語化されることでクリアになる視点もあり、「あ、やっぱり受け手のセクシュアリティも関わってくるよね」って自信も付きます。だから、m-aboさんにご教授頂けて嬉しかったです。


それでは!
 

 

*1:オカマはゲイだとは限らないし、件のオカマ・染谷さんもどっちか言うとTGなんだけど、それでもオカマに対する差別にはホモフォビアも当然ある。

*2:ちなみにm-aboさんの触れた「具体的に語る段階という指摘」は、http://d.hatena.ne.jp/nodada/20081211#c1229252027こちらの私の発言を指しています。

*3:あと、本筋ではないですが、それがゲイ差別性なのかバイ差別性なのかetc、という点も問題を複雑にさせますね。クリティカルにゲイ差別である場合もあるけれど。

*4:私ならそんなテキストは「恣意的に新たな価値基準を作り、性愛に優劣を付けることに変わりない差別的な表現で、それは性愛規範を強化するという意味で、クィアではなくむしろストレートな表現だ」と評価します。