つららつらりと。突っ込めない秘所に潜り込んで差別を言うこと

しょうもない愚痴吐きをまんま載せるのもあれなので折る。(と言うか、今後長めの記事は全部折るかな?)
あと、最近よそ様のブログと偶然同じ記事を読んで小児性愛に(生意気に)言及したがってきて。その事に書く時は必ず折ります。(別に私がタブー視してるわけでなく、このブログにはこの関連にショックを覚える人も来るだろうから、です。)

続きを読む

つららつらりと。恐怖からの排除の正当性?


(注:ここからはあくまで観念的に小児性愛等マイノリティに対する倫理観を中心的に問うエントリーとする。)
えてして、マイノリティとは排除されがちだ。この場合、性的少数者と言うのは、やはり性に潜在的嫌悪を擁する社会において、非常に冷たい視線を送られる「スティグマを背負うべき」存在として扱われやすいので、また危惧するところは多い。

その中で、嫌悪は社会的排除の流れの主動力となりうる。日本で「体感治安」がこれほどまでに重要視されるのも嫌悪感が働いているから、というのも大きいはず。
というか、日本ではマイノリティ差別はどちらかと言うと、個人主義的排他性による嫌悪ではなく、フォビア的嫌悪。・・・恐さからの嫌悪がとても多いような気がする。

そのような嫌悪が蔓延する社会において、マイノリティ排除は非常に好ましい正義の態度だとされる。
日本的(と位置づける)嫌悪が排除の正当な理由となりやすい状況があるわけね。

だし、嫌悪することは清く美しい態度として消費されるわけだ。

しかし、もしAさんのような排除を目的とするならば、排除の理由は常に中立的視点を持ってして危険度を正しく数値化等した後、導き出される物でないといけないだろう。
なぜなら、誰かを社会的排除をするということは、一面的に捉えるならば人権を侵害することに他ならないわけだから。
侵害していい正当な理由とは、いわゆる「公共の福祉に反する」行為をした者に対する制裁・・・、なのではないか?(私は社会や法に詳しくないので↑のような稚拙な考えしか持たない。突っ込みあればどうぞ。)

それを加味した上で、小児性愛者を排除・・・あるいは(よく言われる)監視を正当な物とする理由とはなんなのか?

つまりそれは具体的事実としての危険度、がポイントとなるのではないかな?
しかして危険にも種類がある。
性犯罪を起こした者に対する一定の(←尺度が不明だが)監視は社会的に正当なのかもしれない。
それは犯罪者本人にも必要なことかもしれないわけだし。
実際のリスクが著しく見られるとき、日常生活になんらかの法的措置があっても当人や社会は許容するべきなのかと思う。

しかし、実際のリスクとはなんなのか?
それは勿論、性犯罪者が再度性犯罪を犯す危険度が病院等で指摘されたときに想定される(社会復帰においての)リスクなどではないか?
他にもあるだろうが、なんにせよ多分の考察検証(?)が必要不可欠である事は確かだろう。

それにより、社会的制裁が始めて正当な理由をもち得る事になるのではないか?


しかして、往々にして小児性愛者は常に「犯罪者予備軍」とされる。




(ここで我がごとで申し訳ないが)私はゲイに近い存在ではあるが、もし同時にAセクであった場合、私の性行為を実行する確率とはどうなるだろうか?
ゲイやレズビアンは、なぜか「とかくセックスをするものだ」と決め付けられている風潮があるらしいのだが、ここでも安易な発想と無知から来る偏見というバイアスがあるのですね。
で、もしAセクのゲイがある男性Cに「お前はゲイだから俺のそばに寄られると恐いんだよ!恐いんだから正常な俺達から隔離されろ!」と言われたら・・・単純に「偏見だ( ´Д`)ァゥ」と思うと思う。


このような場合もしばしば「恐いから」というのは正当な意見のように世間では認められる。

しかし果たして、個人の不安だとか数値不可能の感情を頼りに人を排除してよいのだろうか?
いや、よくない。(反語!カッコイイw)

正当な意見と言うのがなんの軸を元に保障されているかは不明だが、恐いから、嫌いだから、イメージが悪いから、と言うのを理由に排除するということはそこに序列を置いてるということになる。
もっとはっきり言うなら、そこにある種の人間的価値における優劣をつけている。
ということになる。

そう。私はゲイだから、排除されても構わない。構わない存在なのだから、より優位な価値のある我等異性愛者が「恐い」と言うなら、それこそが排除の正当な理由であるのだ・・・という価値観に他ならないのではないか。

それは権威主義とでも言うのだろうか?

つららつらりと。正当な理由を持たずに権威に逃げるのは卑怯だ。


ここでやっと、小児性愛者への親御さんから受けるバッシングに話を戻そう。


上記のように恐怖心や心に抱く危険のイメージそのものが、あたかも正当な排除の理由と見なされるとき、私達はまたもや
あの人(小児性愛者)はモンスターであって、私達人間とは違う存在なのだ
という愚の骨頂ともいえる分類法を用いているのではないかな?

しかし、排除監視を必要とする時、それは一時的一面的であろうと、人権を他のものより貶める(?)ことをするわけだから、公的な立場が個人を抑圧し人権をコントロールすることに他ならんわけだ。(だよね?)

ならば、そこに私的な感情ないし世間の風潮としてのフォビアがあってはならないのではないか?*1

排除監視を正当な理由とするものは、あくまで・・・。具体的リスクを考慮した際に見られる必要な措置を行使しなければならないという論理的配慮ではないか?ある措置が必要だと客観的に認められる場合を持ってのみ、(そしてそれを理由にして)排除監視といった社会的制裁が合理になるのではー?

あのひとは劣等な種族だ、とか、非人間的存在だ、とか言う憎悪が他者の人権を抑圧してはいけないだろう。
コレはとても基本的なことだと思うのだが・・・・?


で、小児性愛者は現在偏見で見られる立場であるだろう。

・・・だからなに?
小児性愛者が性犯罪者と同義で見られていることは明白。
だからなに?

そう独りよがりに思うのは勝手だが(度は越すなよ?)、それを理由に誰に何をできようものか?
人権を無視するような何かをしても良いと思ったとき、すなわち序列化を図っているわけだが、根本的に考えて、ヒエラルキーであったり個人の特性であったりするものを対象に、人権を自分より下に見る論理的根拠などあろうものか。
ない。
それをする時、必ず相手を卑しいものと位置づけている。それは、たとえ子への愛情が絡んでいようと、規範的道徳に囚われていようと、同じである。
そこには必ず相手を「あいつの人権は奪っても良いものなのだ(自分や其他大勢より劣っている。)」という根拠のない序列化を図っている、と思うの。

そして、だからこそ、一部の親御さんはああいうと思うの。
「お前は子どもを持っていないから分からないんだ。」

これは絶対的強みである。
なんだかんだいって、今の世の中も子に執着できる親御さんは多いもの。子を守りたい、と思うのが親の条件だとは決して思わないが、そういう親御さんが巷には溢れるほどいらっしゃるのではないかな?頼もしいことだ。
つまり、これは親が親と連帯を持てるということ。そして、世間はそういう親御さんの意見にとても同情的。
・・・そして反対にマイノリティに対しては冷たい。
このとき、親御さんの心境  マイノリティの人権 は天秤に量られるのだ。
無論、親御さんの心境の方が優勢だ。

そして、・・・私みたいな人にとってはこのような価値観は抑圧的。
だってわからないもの?親の気持ちなんて。
というか、別にわかる必要もない。こう言っちゃあなんだが、子どもへの性犯罪を語るときに親であるかどうか自体は重要ではない。
なんの問題においても、特定の層だけが言及する権利を持つわけではないんだし。


ここで言わせて貰うと。
あなたは○○じゃない、だからわからない、と言うのは、他のものを端からはじいた自分の殻にこもる、対話を拒否した態度ではないかな?

フェアではなかろう。
他者にはわからない部分を理由にするなら、最初から人権に携わる議論には参加して欲しくはない。
人権とは特権階級だけの話ではないのだから。

小児性愛者を排除するということは、つまりは人権問題なのだ。(ああ、当然過ぎる。)
正当な理由もなしに、「親御さんの心境」で小児性愛者を排除するということは、ある層が抱く不安等に、ある人(この場合マイノリティ)が屈しなければならないという証。

そのようなものを許すのは果たして高い民度と言えるのかな?

議論する際、あなたにはわからないよ、と親である事をまるで特権とし、何にも代え難い心なのだというのでは、全くフェアではないだろう。
私に親御さんの気持ちが分からないからといって、私の語る権利を奪わないで欲しい。
正当な排除の理由がないからといって、自分達以外にしか分からないと目前に線引きをして壁を作るのは止めてほしい。
排除の根拠にならない。それでは、人権は時として感情に流されても良いものになってしまうではないか・・・。
根拠を必要とする問題に、線引きをして暗黙の領域を作るのはフェアではない。中立的立場で取り扱わないといけないものを題材にする時に、感情論や親であるあという特質を盾にするのは不当だ。と思うのだ。

私達の話をするなら私達と話をしよう。

親と小児性愛者は決して別のものではないのだから。

「お前は子どもを持っていないから分からないんだ。」
と言うなら、私にはもう手の施しようがないではないか。わからないから、排除を許さないといけないのか?
そこに中立的視点はあるのか?
ないのなら、なぜその排除は正当足りえるのか?

親でしかないものじゃないとわからない。
親だからこそ小児性愛者を憎み、排除を促してよい。
親であることは無条件的に優先される。

このように、中立的であるはずの議論の場に、私的とも取られる価値観が進入しても良いのか?


親であるからこそ憎む気持ちが出るのであれば、その思いを原動力に具体的数値などの根拠を探し提示し、子を守るという大前提の目的を果たせばよいはずではなかったか?
決して「親の憎しみ」そのものが、政治的社会的排除の理由であってはならないのでは?


そしてなによりも第一に、私達はどこからか、分類の意味を取り間違っているのではないか?

*1:勿論、世論を考慮して刑が重くなる事はあるだろうが、ここでもより基本的観念的視点でいう時の排除に言及してるので・・・。