ついでだからとホモフォビアの

なにかを書こうと思ったら、なあんだ。ココに割かしいいのがあるじゃないか。

http://actagainsthomophobia.txt-nifty.com/blog/


(ここの『ホモフォビアについて(詳細)』をお読みください。)

2006年4月22日付けの『ホモフォビアについて(詳細)』を引用してチョットさらっと行きましょか?(トラックバックがまたまた出来ません!泣ですのでどちらにせよTOPのリンクを張るだけとします、申し訳ないです。)
ところで・・・私バナーをブログに載せて紹介する術を心得ていないのだけど、誰か教えてよ!・・・ううん、コレはきっと天からの「自分でしなさい」のお告げなんだよ!(ウゼー!)
 ちなみに、ホモフォビアの意はホモフォビア - Wikipediaを参照してね(>v<b


では!いつも通り当たり前すぎるお話、参る!

同性への愛情を抱く私たち、同性愛行為をする私たち、同性愛者と自覚する私たちは、社会システムや日常生活のあらゆる側面に顔を出してくるそのようなホモフォビアに、日々かこまれて生きています。その結果、私たち自身多かれ少なかれホモフォビアを内面化してしまい、それがいかに不当なことであるかを自覚できないことすらあります。

(『ホモフォビアについて (詳細)』引用。太字引用者。)


つまり、こういうことです。洗脳作業されちゃうんですね。

いくら強固な意志で抗おうとも私たちはいつも万全ではありません。そしてあらゆる方面であらゆる効果を持つホモフォビアが存在します。そんな中で、私たちは果たして 完璧にホモフォビアから解放されている といえるだろうか?否、それは世俗と関わる以上避けて通れない道。

このブログ内で2006年5月19日付けの『「ホモフォビア:私たちすべてがどれだけ犠牲を払っているか」』で紹介されているWarren J. Blumenfield氏の引用文*1も併せて読もう。

氏は「ホモフォビアは以下の4つのレベルで現れていると思います。」と言う。


1. 個人のレベルでのホモフォビア
2. 個人間のレベルでのホモフォビア
3. 制度のレベルでのホモフォビア
4. 文化(時に集合的、社会的とも呼ばれる)のレベルでのホモフォビア


とする。



つまり、多方面から日常的にホモフォビアにさらされているのだ。というか、「常にそこにある」と言ってしまっても過言じゃないかな?だって、制度面でも同性愛関係の社会的保障をしていないのですもの。明確な差別があることで、それを通じホモフォビアを感じてしまう。というわけ。
もし同性パートナーが居る際、いつなんとき何があるかわからないのに、お互いの関係性を証明できる(婚姻関係的な意味での)証拠がないということ。
パートナーが急病で倒れても家族同様に面会出来るかどうか分からない。*2もっと簡単に言うと、結婚できない、と言う事実が自分たちの生活に不安要素を存在し続けさせる。
なぜって日本では結婚くらいしか(基本的には)法的な関係性の保証がないもんね。


現在同性間では結婚できないわけだから、「できない」という事実は常に生活と共にあり続けるって事。
この状況を踏まえて生活した際、同性パートナーを持つ人達は常にホモフォビアにさらされている実感を持ちうる(「なんで保障されないんだ!」ってね。)。・・・ちょっとナーバスすぎる見方だけどね。一面的には事実かと。


その中で、私たちは何も“結婚できない状況”という生活だけで生きてるわけではない。友達とも遊ぶし、仕事にも出かけるし、その他もろもろの生活が合さって人生を営んでいる。


そして、ホモフォビアは一箇所だけで発生するわけでもないし、手を変え品を変えそこらじゅうでさらされる危惧が付きまとう。



そうするとどうなるか?

例えば「やーいやーい、ホモはおかしいんだぞー、自然界に反してるんだぞー、不道徳なんだぞー。」と言われたとする。
その時私たちは「は?何の場合においての自然?自然界にも同性間の性交はあるけど?昔は男が少年を愛することを美徳としていたときもあったけど?なんですか?」と言えばいい。
しかし、先に言ったように私たちは誰もいつも万全ではいられない。
精神が参ってるときにネガティブなことを言われたら、いくら論理的に反論を言える人でも悪意に共鳴してしまうかもしれない。
「自然界にもある」と知っていても、品を変え新たなホモフォビア的言説を付け加えられたら、混乱して「あれ?そうなのかな?」と思ってしまうかもしれない。
なぜなら、一面的な生活だけでなく多方面から攻められ、一つ一つの事実が襲い掛かるとき、私たちはそれに対抗しうる精神を常に持ちうるか、反証を提示できるか、といった保証はどこにもない訳だし。
対抗するには自分を鍛え続けなきゃちと難しい。*3


個人からバッシングを受け、社会からバッシングを受け、文化的な面からもバッシングを受け・・・。

果たして、「絶対にホモフォビアに共感共鳴しない」でいられるか?その保障はあるのか?



差別に反対。でも(差別的)マジョリティから常に抑圧を受ける状況下で、絶対に保てるスタンスはなかなか持てない。
これはミソジニーも一緒。どこか「やっぱりあの人は女性だから・・・」的腐敗した空気が蔓延してる中で、誰がミソジニーに感染しないとも限らないわけで。いくら理論武装しようと、人間、感性で生きてる部分もあるわけだから。完璧にミソジニーから解放されるというのは非常に困難。

私はそういう意味で『頭ぐるり』のエントリーで「完璧にホモフォビアのない人間 はいない。」と言ったのね。
当然過ぎて言わずもがなですか・・・。そうですよね。はいごめん。いつもこうなんです・・・。



じゃあここで少し視点を変えましょか?

じゃあだからと言って、
「ふぅん、じゃあ俺たち「完璧にホモフォビアから解放されている人はいない」わけだから、無理して頑張らなくていいんだ。なんだー。じゃあホモフォビア内面化しておいても許されよね〜。やりー!」
とはならないよね。

いや、別に「身を削ってホモフォビアに立ち向かう精神を養え!」とか「ホモフォビアは仕方ないから諦めよ・・・?」とか言いたい訳ではない。


結局、ホモフォビアと言う一個の(人生の要素たる)対象を自分がどう扱いたいか。ホモフォビア(orミソジニーorセクハラor人種差別or・・・・)に自分がどういう立場を取り続けていたいか、と言うことなんだと思う。

だから、私は誰かに「ホモフォビアに対して○○しなよ!」とは言わない。結局、自分がどういう人生を歩みたいか、の選択肢でもあるのだから。*4 ただし。無論同性愛差別とは人権侵害です。何があろうと許さないし許されない。*5 お覚悟w!


そう考えると、(対象に差異はあれど)どんなスタンスや情勢に対しても、自分の人生をいかに構築していくのか。・・・という「人生の選択」的話に尽きるのかな?とも思う。
一回くらい、最初くらい負けてもいいよ(え?よくない?)。自分がどうしたいかを見失わなければいいんじゃない?そして、本当に心の奥底からホモフォビアを内面化していたい人なんていないよ。だって、そんなのストレスだもん。


それならば。ある人に対して、社会が、私たち一人一人が、どういう人生の選択肢があるかを充分提示し合える最低ラインを持ち続けられたらいいんではないかなー?
どんな人生を構築していけるかを考えられる、選択肢の見える状況を作る事が重要なのかも。

それが、基本の対抗路線であってもいいかもね・・・?
ホモフォビアしなくても大丈夫よー、どうしてそんなに恐がってるのー?じゃあこうしてみるのはいかがっすかぁー?こういう生き方お買い得ですよー。あ、隣町の田中さんなんてこんな生き方売ってらっしゃるんですよー、お試しあれ〜?」みたいな。



さぁ、あなたはどんな人生を歩みたいかしらん?
↑なんか脅迫的な書き方をしてしまった。・・・よりよい選択肢を模索できたらいいよねーて話です。

*1:( 出典 “Homophobia: How we all pay the price” , Warren J. Blumenfeld (eds) (1992) Boston: Beacon Press )

*2:一応抜け道はありそうです。YOUTH TALK 13 尾辻かな子さん~同性パートナーも家族と同等に扱うべき - YouTube

*3:勿論私たちは誰も1人ではないのだから、他の人からサポートを受ければいい。しかし、そのネットワークをもてるかどうかも問題だし。ここでは、あくまで不安要素はそこここにあるし、自分自身が対峙するとしたら鍛えることが必要となる・・・ということを言いたいのです。

*4:いや、ごめん。提案はするかも。ただ、ホモフォビアに対抗しなきゃダメ的人生を送るよう強要はしないってこと。

*5:ヘイトクライム(憎悪犯罪)なんてもってのほか!