同性愛者に向かって言う、「自分はストレート/ノーマルだ」という表現。


追記:先に要点をココにまとめておこうと思う。

  1. セクシャリティは相対化される言語であるはず。
  2. なので、そこにノーマル/ストレートなる意味は見出されない。
  3. なのに、自分をノーマルryと呼ぶは被差別者と自分を隔すこと。
  • 社会的に抑圧されてる者に向かって「ノーマルではない」というのは著しく相手の自尊心や自己肯定度を傷つける要因となる。

ということを続きに長々と書こうと思う。

さて、
世の中には多くの哀しみで溢れている。出自で拒まれたり、稀有な容姿であることでけなされたり、・・・少数である事で無言のうちに、あるいは隠れた意図として排斥を明言されたりするのだ。


これもその一部といえる。

なにか?
それは、同性愛者に対する、無意識的あるいは作意の排斥という「選別」だ。


ところで私はブログ巡りが好きだ。
好きなブロガーの内に、ヘテロセクシャルの者もいる。これから言うことは、その好感を持ってるブロガー(に限らないが)に対しても攻撃的なことと映るかもしれない。それは私としても実は苦痛であるし、柔らかい物言いで語れたらいいのだけれど、多分どうしてもきつめな物言いになる思う。
他の読者様にもきついと思われるかも。・・・と言っても、以前からそういうことも一部口にしてきただろうし、ココを覗いて下さってる読者様には今更な事かも知れない。そして、私と言う人物が今更な事をくどくど語りたがることもご存知かもしれない^^
まあそういうことを言うつもり。では以下長いとは思いますが、興味あったりお時間があればどうぞ続きを読むをクリック〜。


ところで風邪引きなので、ちょっと不調。更に私はエントリー書く時、忘れたことを思い出す形で書いてるから分かりづらいかも。とここで言い訳。

本題。

同性愛に言及するときの「僕私はノーマル/ストレートだけどー>u<;」と言う表現。


以下は、あくまで対人コミュニケーションとしてのお話です。


私はセクシャリティやとりわけ同性愛に興味関心がある子なので、ネットでも同性愛に関する言葉をよく目にするんですね。それで、よくあるかどうかはよく分からないんですけど、今日読んでた本でもブログでもノーマル・ストレートという意味不明な表現を見つけることがある。
「私はノーマルだけど、同性愛者のことを言えば・・・(ホニャラララ)」
・・・?なんだこりゃ?と思う。
だって、ストレートって言ったら、私なんかたとえば漫画の表現においてゲイ・レズビアンモノは美味しく頂けるのだけれど、ヘテロセクシャルモノはどうも自分の舌にあわないのよ。(これは様々な要因がありそうだけれど今回スルー。)
これだって、ストレートに「同性愛スキー」ってことになるわけだけれど、きっとこれは「ストレート」として認識されないんだろうね?じゃ、どういう意味なのよ。
更にわけわかんないのは、ノーマル。・・・。これ一体どういう意味かしら?本当意味不明よ?
ノーマルにヘテロとかノーマルにバイとかノーマルにホモセクシャルだとか、意味不明でしょ?
ヘテロヘテロであって、それに通常もクソもない。ヘテロはどこまで行ってもヘテロだ。それは他のセクシャリティどれをとっても同じ。
たとえば、SDSMやアナルセックスを行っていても、それを当事者がヘテロ(や他のセクシャリティ)の関係だと認識していれば、所詮はヘテロなのだ。異性間の愛だとか行為ならヘテロセクシュアルな関係であるでしょ?


私、まかり間違っても自分の事「ノーマル」だとか言わないけど、それは私が男性を性的に欲望することに由来しないわ。私は、身体がオスであると同時に、ただただ(主に)男性に性的欲望が向かうから、自分をセクシャルマイノリティだと思うし、出来る事ならクィアを自称したいと言う思いもある。*1
それは、私がひとつのカテゴリーに当てはまる、という意味しか持たないことなのね。
私はクィア(と自称していいか知らないけど)であることを、ノーマルとは捉えないし、する理由もない。


・・・これはありえないことだし、別段ありえたいわけでもないことなんだけど・・・。仮に私がこれからヘテロセクシャルにアイデンティファイできたとしよう。(ありえねーw!)
このときも、先と同様に私は自分を「ノーマル」だとは思わない。
だって、ヘテロである事は、ヘテロである事以外を指し示す語ではないから。
そして、同時にある重要な点がある。
それは何かと言うと、ヘテロセクシュアルが「へてろせくしゅある」である以上、本来、それに対置される「ホモセクシャルとは違うものだし、バイセクシャルでもないし、・・・etc」という相対化された語でしかない事

・・・意味分かるよね?ね?


なのに、ヘテロである事とノーマルという語が=(イコール)になる時、ヘテロはひとつの権威に変容し、本来的意味を無規則に越えてしまうことになる。
相対化されるための語が、恣意的に権威となり、そのことでセクシャリティにおいて階級の要素を持つことになる。


それは明らかにおかしい。
どういうことかと言うと、
たとえば「生物進化論(だっけ?)において、ヘテロセックスは典型的な例だ。よって、この学問上、「ヘテロ」と言う有り様は正常(ノーマル)と位置づけられる。」とかとか。

これなら意味はまあ分かる。
この学問上、ヘテロは「ノーマル」という意味を持つ用語となる、みたいに注釈を入れてもらえば、「ああ、なるほど。確かにこの学問上(学問の性質上・定義上)、ヘテロの例を正常と呼ぶのは適当だ。」と判断付く。


たとえば友人知人との会話上、出てきたセクシャリティの話題について、科学的な分析を実践してるわけでもないのに、セクシャリティを言及する場に本来の語意(相対化されるための語)以外を↑のように持ち込むのは意味不明。と私は感じる。(私の知人友人に学者は1人もいないので、いきなり学問上の定義でセクシャリティ概念に言及されたら驚く。)



けれど。
科学的なことや学問的な内容(←て、どっちも学問だけど)で会話してるわけでもないのに、生物学上の語意(「一般的である」とか)やそれぞれの学問における具体的セクシャリティ解釈はどうやって差し込まれるだろう?もし、なんらかの学問上の意味での(ヘテロ等の)語を持ち出すなら、それなりに説明が必要だ。
「○学の定義上、△は予定調和の範囲だ。□は稀有な例なので、サンプルとして異常な値と言える。・・・」とかね。


何学問においてのどのような解釈で、その語が“口語的な内容としての語意”と異なった意味になるのか?*2
そして、はたしてどのような場でもヘテロだけを特権階級のように言及してもよいものだろうか?*3



なぜ、私が見てきたヘテロセクシャルの一部が、自分達をノーマルと呼んだのか?
それは、結局世間の大勢がヘテロに見えるからだ。
ヘテロ仲間が大所帯だから「我々は通常・普通であり、典型的だ」という意味でノーマルと云ったのだろう。

ふむ、確かにヘテロセクシャルを有してる者は多い。それを持ってして、「僕・私はノーマルだけどー」と言うことは一見妥当に思われる。


では、「ノーマル」という語は、一体どのような意味を付与されてるのか。
それは、通常や普通という意味もあれば正常と言う意味もある。
正常とは何か?なにが正常で何が異常なのか??


はたしてセクシャリティに関して正常などと言うコノテーションが成立するだろうか?
そして、同性愛者は「ノーマル」をどのような意味と捉えるだろうか。


そう、正常と云うのは、おそらく「生殖を行うのが、生物として正常だ」みたいな、半端な考えがあるのではないか。というか、それ以外に、正常と云う言葉を用いる理由がわからない。
進化学だかなんだか知らないが、有性生殖を行うことが出来るセクシャリティが正常なのだろうか?
だが、このような意味で正常だというセクシャリティは、私が知りうる限り、ない。


なぜならヘテロセクシャルバイセクシャルも生殖を可能とするセクシャリティであろうが、それは単に受精卵を作るような行為をする可能性が高いというだけで、必ずしもそれ(生殖)を無条件に達成するセクシャリティではないから。

そう、ヘテロセクシャルも多様な形態を有し、そもそも生殖能力があるかどうかと言う根本的な内容を忘れているのだ。
自分がヘテロセクシャルだからと言って、必ずしも生殖を行うか?達成するか?
否、生殖を行ったものが生殖という機能(?)を達成するのだ。


ヘテロだからって、生殖するから正常だ!なんてのは通らない。


たとえば私が今からゲイをアイデンティファイしても、実際生殖行為を行えば生殖を達成した者となる。当然の事だ。この場合私は正常ですか?はたして、そう呼ぶヘテロセクシャルの人が居るか?(別に「ノーマル」扱いされたくもないが。)


生殖は生殖。セクシャリティセクシャリティ

本来、生殖と言う事項は、そのセクシャリティに付与されないのだ。これも当然だよね?*4


このように、ノーマル(「必ずしも生殖を実行するような」)なセクシャリティの人などおらぬ。居るというなら、それは有性生殖をしたかどうかに尽きることなのか?
・・・いちいち「あなた有性生殖しましたか?」とでも聞くのだろうか?気味が悪い話だ。
何学的に言って、生殖を果たしたらノーマル(正常)になるのか知らないが、「私は生物としてノーマルなセクシャリティです」じゃ意味が分かりません。
偶然それを果たしたら正常だと言うのなら、生殖可能な身体を持つものすべて正常じゃないのか?(生殖が出来るかどうか、なんてしてもいないし調べても見ないのに分からないよねぇ?)

それとも、子を作った事のない者は正常じゃないのか?もしくは、生殖能力のないものは正常じゃないのか?異常者ですか?そんな抑圧的な話って・・・。
人と云う存在は、生殖なくしては正常じゃないのか・・・・?


それでは、これを対人コミュニケーションの話として土台を変えようか。

はい、上記のように、生殖を行ったものが正常だと呼ぶことは、それはコミュニケーションする者としてはたして褒められる態度といえるか?


そういや、NHKの家族に乾杯と言う番組でどこぞの演歌歌手が、「あなたお子さんは?結婚は?」とやたらそこらへんで聞いて周っていたが、あれほど初対面の人に対して無礼千万な態度もあまりなかろう。*5
はっきり言って、ノーマルなどということを、人に向けて言うことは気持ち悪い。
私なんかは「何この人・・・。そんなに生殖に励みたいなら種馬(あるいは腹)が足りてない地域に性の行商でもしに行けば?」と思うくらい不快。
生殖どうこうは個人的なことでもあるのに、「私僕はノーマル」と言うことで、事実相手を生殖すべき者として意味づけをしているのだ。(なぜって、それ以外にどういう意味でノーマルというニュアンスが成立するか不明だもん。)
なぜなら、「私はノーマル」と言うことで、「あなたも私と同じに生殖をしないと正常じゃないよ!u」と言ってることと同義だから。

そんなの本来、他者が入り込んでいい領域ではなかろう。


なぜ、このような失礼極まりないことを平然として言うのだろう。

しかも、 同性愛に言及してる場で!これを言う人を、私は見たことがあるのだ。


同性愛者は同性愛者である事を負の意味で受け取らざるを得ない部分がある。*6
社会的に、レッテルを貼られ、規範に反したものとして侮蔑される。


このような時、「自分はノーマルだけど、差別イクナイ!」と語ったらどうか?
私の主観だけで言わせて貰うなら、
「あ、このひとは口だけだな。」
と思う。
そして、暗に相手の同性愛という要素を「生殖をしないからアブノーマル」だと認識させる行為であって、とても抑圧的。そもそも相手のスタンスをこの時点で否定してるではないか!!


よって、こういうことを言う人は私、「口だけ」だと思う。
だって実際口だけだもん。本気で差別イクナイとは言っていない。相手を「人として」否定しようとしてるもん。
だからこれは、単に「同情してあげるよ?」のメッセージだ。なんのありがたいこともない、「だから僕を恨まないでね?」と言ってるだけの話。(どう恨むなと言うのか知らないが。)


聞きたい。
「僕はヘテロセクシャルだけど」ではなく、なんでわざわざ「僕はノーマルだけど」と言った?
ストレートでもノーマルでもいいのだけれど、同性愛を言及してる際そういうふうに発言するということは、暗に「君と違って僕は変態じゃないし、清く正しいんだよ?」と語ってることになる。
いや、そう聞こえる、て話じゃなくて。実際そのような効用を持つのよ。この発言には。


だって、そういわれて見なさいよ。
自分がたとえばなにかのマニアだとしたら。
「僕は君みたいにマニアじゃなく、ノーマルだけど、偏見はないよ^^」といわれたらどう?
偏見バリバリじゃん。

単純にそのカテゴリーを、他者性である事として認めるのに、わざわざ自分はノーマルだのと予防線を張る意味はない。
というかもし張ったら、それは余計だ。


他者の他者たる所以を認めるのに、自分の安全性を保つための言明など何故する必要があろうか。その言明をした上で、差別は宜しくないと言うのはどういうことか。
それは結局、
僕はノーマル。でも君はこのノーマルである僕に許しを乞い、そして許されるべき可哀想な者だ。
とのたまってるに他ならない。(断言します。)


なぜって、自分と言った時点で、言外に相手をノーマルでない者、つまり正常じゃない者と見ているわけだから。
そのようなニュアンスを望まなくてもそうなる。
正常じゃない、と言う。そして、同性愛者が負の記号を持ってしまう可能性を前提にした会話がある時。
これは、論理的に見て、同性愛者を負のイメージで括ろうとする、言外の圧力だ。
同性愛者が否定されうるものと知りながらの会話だから「差別よくない」と言ってるのに、君はノーマルじゃないよ、というメッセージを送ることは、相手に「自分が同性愛者である」ことを否定的に捉えよ、と示してることになる。

実際、正常じゃないとわざわざ意味づけることで、侮蔑される者と自分との距離を置くのだ。だから、それは差別だろう。

前述したように、ノーマルと言う言葉はセクシャリティを説明し得ない。
なのに、ノーマルと言う言葉をあえて自分に適用したということは、同性愛者である相手に「君おかしいんじゃない?」と意味づける効果を持つ。(違うというなら誰か私に説明して。)


所詮、ノーマルと云うのは「ヘテロセクシャルだ」という相対化されたものの意味を指すのではなく、自分は特権階級であり、君は下級層だ、と暗にメッセージを送ってることでしょう。
だって、「自分はヘテロセクシャルだけど(立場は違うけど)、差別イクナイと思う」じゃなく、「自分はノーマルだけど(君より優れてるけど)、差別イクナイと思う」と言ったのだからさ。
わざわざノーマルと言うのは結局自己防衛でしょ。防衛することで、自分からは排斥しなきゃいけない負のもの、と言ってるだけじゃない。同情的な物言いをしてるのならばそういう意味で「ノーマル」という語を使ったことになるじゃない。

差別的である事に他ならないと私は思う。


まあ私からしたら、同性愛を不適切だと思っていても、たとえばアメリカみたいに投票で結婚制度を同性愛者も参加できる制度にするかどうか、て議論のときに、「はい、同性愛者にも認めるべきです」と投票するなら別段本人の気持ちなど気にはしないが。


しかしそれでも、わざわざノーマルだのと予防線をひく事は、結局差別的なのだ。というか、差別を再生産する意味さえ持ちうる。
特に同性愛者に向かって自分はノーマルだの言うことは、より差別的。
そのことの事実は変わらないと思う。

ただ、態度の差別は私にとって別段相手をする必要もない。
嫌いならそれでいい。変態で汚らわしく異常者でしかないと思っていても、実際の行動が同性愛者の現実を人権配慮の姿勢で支えるものであれば私はあまり非難しない。


思うなら思うで、分別さえあればそれで無問題、と言うこと。


ただ、あえて最後に言わせて貰うと。
「あなたのやってること(上記のようなセリフを被差別者に言うこと)は、決して対人コミュニケーションの上で褒められたものではありませんよ。」
ということ。

というか、「自分はノーマル」と云うことで、アイデンティティーを確立しづらい人を不安がらせるなよ!むやみやたらに自尊心を奪うようなセリフを吐くなよ!と思う。


・・・私も自戒のため書いておくが。



みだりに人の心を荒らしてはいけないよ。
ということ。



実は更に他の点も併せて書こうと思っていたが、長くなったので次回に回す。それではごきげんよう

*1:なぜここでゲイと言わないかって言うと、私には性自認の意味が分からないから。自分が男であるという認識を公的にも私的にも認めたくもないし、認める必要も感じない。ので、男性同性愛者である、という意を主に持つ「ゲイ」を自称できない。しづらい。他にも理由はいくつかあるけど、スルー。・・・ホントはゲイて言えたら楽なんだけど。事実に反するしアイデンティファイできねー!

*2:たとえば、性同一性障害はもはや日常会話の中にも進出してきたが、その定義は法律上のものと学問上のものと、それぞれの内容が異なるのだ。口語的な意味での「性同一性障害」とはおそらくトランスセクシュアル(TS)に近い解釈であろうね?そして、法律の定義で性同一性障害を語るなら、「今から法律上の定義としての性同一性障害を語りますよ」と前提をわからせないことには、いらぬ混乱を招くでしょ?(ちなみに医学上の定義等は、私のアンテナにあるAnnno Job Logさんの記事で参照。)だから、所詮口語的な内容であるはずの会話にノーマル・正常などという語を持ち出されるのは変だと思うの。ただのセクシャリティとしてならば、正常もへったくれもないのだから。このことは後述します。

*3:もっとも、なぜヘテロセクシャルの者達が、異性を愛するのかは、他のセクシャリティ同様いまだ解明されてないのだから(だよね?)どのセクシャリティをとっても、序列など出来ない事。ただ、「なぜかそうであった」というだけの話。そしてもしここに、学問的に解明されてる部分を持ってしても、ヘテロを「一般例である」という意味以外のノーマルと呼ぶことに私は反対する。

*4:同性愛者であるからと言って、なぜ非生産的ととられるのかわからない。生殖はどこまで行っても生殖なのだから、セクシャリティに関連なく、それを可能な身体であるなら誰しもがその能力を実践可能であるはずなのに、なぜわざわざ生殖という軸を持って同性愛者と異性愛者を区別するのだろう?したかどうかと言うだけの話なのに、そこにセクシャリティは関係ないだろう。それとも、同性愛者を名乗ったら生殖に関連してはならないという法律でもあるのだろうか?それは、たとえばライフスタイルとかの問題じゃないのか?

*5:あの中に、非異性愛者であったり、異性とセックスすることやセックスすること自体を望まない人などがいなければよいのだが・・・。ヤシロアキ、最低だと思う。類似に、どこかのお笑い芸人が自分の性欲が生殖に繋がるから凄いんだ、見たいなこと言ってるやつがいた。とんだ大間違いだ。ネタであっても気持ちが悪い。

*6:同性愛者であるものは、その負の記号を肯定しなおすことで、やっとそれをアイデンティティーにできる。なので、同性愛者である事で負の記号を常に持たざるを得ない、と言う意味ではなく。負の記号として一度は体験する、と言うことだ。肯定の道のりを経る、と言うのはそういうことだろう。