ところで、昨日

納豆が馬鹿売れしてたみたい。・・・・ああ、なるほど。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070110-00000147-mai-soci

ったく、「みの」みたいなもんか?
ていうか、私に納豆どことか聞かないでよ。知らないよ。知ってたけど。(どっち)
しかし、コーナー一面スッカラカンだったのには仰天・・・。あるもんねぇ、こういうこと。どうせなら、こういうのスーパーとかの営業戦略と連携してやったら?みのさん?


んで、10日のエントリーは、「バイセクシュアルについて書かれてない!『ノーマル』が他のセクシュアリティにも抑圧的なのに、それをノダダは不可視化をしてる!」と思われた方もおられるかもしれません。
ええ、確かに同性愛者に限ったことではないのですけれど、包括的に話すと私みたいなまとまった書き方が出来ない子には「わかりやすさ」が欠如しちゃうし、しかも。他のセクシュアリティだと、『ノーマル』が持つ効果の働き方も幾らか変わっていきますし。なので、あえて、「同性愛者に向けて『ノーマル』と言う事」に内容を狭めました。というか、そういう内容になっています。
これは、“同性愛者に向けて『ノーマル』と言う事”自体が、主に『ノーマル』の問題点を突ける手法になりうるだろうと思うので、妥当だと私は思います。照準を合わせるのです。
あえてポイントをひとつに絞ることで、内容の問題点を、わかりやすい明るい場所に照準を合わす事が可能だと思います。
ですが、勿論Aセクやバイセクシュアルや、セクシュアリティに関わらず生産主義的な社会構図に「適用できていない!」と非難されがちな人達にも抑圧的になることは明白です。
生殖活動を重んじない、或いは関わることが困難な人にとってそれぞれ異なった効果を持つことになる『ノーマル』という言葉。
それぞれの差異は多分にあります。
それを包括するより、一個の例を示し、言葉の問題性が明らかにある事を、まず読者様にも見出してもらいたい。
この場合、それは、同性愛者がキーでした。というか、同性愛者に照準を合わせました。
見出すためには、個別に働くその効果を示すのも有力だと思います。
ただ、それをすることにより、『ノーマル』という言葉が必ずしも同性愛者にしか抑圧的でないという誤解を招くことはいかな者であろうと許されません。(と言うか、許さないでください。)
ですので、ココで少し10日の補足をさせていただきました。


生産(生殖)ばかりを重んじさせ、それを規範にし、反した物にレッテル(負の記号)を与えかねないのはそれ自体重症だ。と思います。
『ノーマル』などと言う表現をする。そこに、排他性がある事は明白。
排他性があるなら、そこ(ノーマル)からあぶれる人が、あらゆる層より出てくるのは当然のこと。
私は、特権階級を作り出すような思考を、(同性愛者の視点のみならず)批判していきたいと思います。
ただ、私も大して洞察力もなければ、万全ともいえないので、手落ちの部分もあるだろうと思います。低脳な私ですが、なにか問題があればどうぞご教授ください。

さて、本題に移りたいのですが、ご飯の時間ですのでまた後ほど・・・。