っ昔の掘り返し。

んで、ちょっと先行く前にこんな例を扱って前哨戦したいです。(て言うのもおかしいな。)

以前「男女は友達でいられるか?」みたいな論争がブログ界隈等であったらしいんだけど。
・・・そう、「男女間の友情」論 です。
これをちょっと題材に、次の応用のため扱い、私なり意見を書きまする。
(今日はちょっと賢そうに振舞うので、このエントリーで先に慣れちゃって下さい。)


これの論争のおかしさは既に指摘されてるし、議論自体終わってるんだけど。
私はちなみにブロガーみやきちさまのブログではじめて知った。(正直私もこんな“仮にも”論争が成り立つこと自体に驚愕を隠せない。)
あ、一応紹介。↓
2006-09-01
(こちらから私が言いたいことはもう既に読めると思う。)
んで、私がおかしいと思うところの点は3点。

  • 時間軸の設定を忘れている。
  • 異性愛者の視点がすっぽり抜けている。
  • 他者と自己を同一視している。

と、この3点。

まあ、分かる人にはわかると思うが、ちょいとおさらいね。


これの最大の失点は、説明責任を果たしていないと言うことと思う。
まず最初に、こんな荒唐無稽な議論を始める前にしなければならないことがありました。それが、前提条件の説明。というか、前提の限定。


だってこの議論はあまりにも特殊(無茶)すぎて・・・。「結論が最初から見えているのに、あえて議論することで論理的思考を深めよう!」ていう意義しか見出せないものだから。

そう、このような無茶な議論をするならば前提を細かに設定せねばなるまい。と。
この議論を実際にするにあたっては、
「他者が必ずしも自分と同一の性衝動を持つことを仮定し、尚且つその衝動の方向性も(極めて限定された範囲の中の)“異性愛”指向に限定するものとし、時間軸の制定もあえて考えない!」
というディベートするにはかなり難のある前提条件を説明しなければならなかった。と思うのね。

しかし説明を行わない場合は、
「世の中には同性愛者はいないし、自分のような>欲情か疎遠かの二者選択のみ<の人間以外はいない!」
と断言してることになる。
ので絶対に通らない理屈です。
説明もせずに不特定多数が絡む議論をするのは無理だし、破綻した論理しか生まれないはず。*1


では、先に挙げた三点を用いて、具体的に突っ込んでいく。


まず第一に。
時間軸の設定ですが、たとえば「男女双方が友情から恋情に向かう」可能性を示唆するとしても、もはや一度でもこの世界のどこかで友情契約が成り立っていればその時点で「男女間の友情論争」は終わります。(むしろ議論する前から終わってるけど。)
なぜなら、一時的であろうと、確かに「友情が成立した」ことはこの時点でもう証明されてますから、「男女間で友情は成立するか?」の問いに既に答えが出てるのです。

そして、無論「昔から一度たりとて男女間の友情が一時的であろうとも成り立たなかった」なんてことは考えられないし、死ぬまで友情を契り通した人達などざらに居るでしょう。当然過ぎます。*2
そう、みやきち日記経由で読ませていただいたwhite_cake氏のセリフでわかるように。
>反例を一つでも提示することができれば、そこで議論は終了なのでございますよ。<
なのです。当然です。キミとボクとは友達か?−その1− - wHite_caKe



この理屈に反論するなら、たとえばこういうものが考えられる。
「いや、でもいつかは恋情に変わっちまうんだって!(或いはセックスしてしまう。)」*3
というもの。


・・・それならそうと、時間軸の設定を予め説明せよ。
(たとえば1年の間とか、日本人の平均寿命までとか。勿論「永遠」てのはナシ。)
議論の場が成立していないのでこんなのは通らない。


しかし、「今はそうでもいつかは恋情に変わる!」なんて言うなら、あらゆる議論は不可能になる。
なぜなら、どのような議題においても「可能性」自体は無限大なのだから、それを無視してどこまでも議論の幅を広めてしまうのはそもそも論理的思考としてご法度のはずでは?
だってそんな事を言い出したら、きりがない。
「いや!きっと〜〜だったら○○になったはずだ!」とか言い出してしまうと、もはやそれは議論じゃない。


それは「わからないことを議論する」という前提自体ひっくり返したレトリックだから変じゃない?
よって、最初からこんな反論は許されないと私は思う。
するなら、時間軸の設定を事細かに限定しておくべきだろう。


第二に。
異性愛者の可能性を省いてる。
これは重篤
なぜ、男女の友情論なのに、同性愛の男女を加味しないのか?
繰り返すが、これを私は「同性愛者が同性愛者でしかない」ものにするレトリックだと思ってる。不当であり意味不明。
同性愛者(に限らない)は「男女」の中に入らないとでも言うのだろうか?


これも説明責任を果たしていない。
最初から異性愛者に限定して話を進めるなら進めるで、「(特定の)異性愛者限定」と言えば良かった。
ので、ダメダメ。(しかし、どの異性愛者に限定すればこんな議論が成り立つのか私には想像できない。)


第三に。
他者と自己の境界を混同しているという点。
「自分の欲望はすべからく他者と共有できるものであるべし!!!自分と違うものなどおらぬ!」
という勘違いはなはだしい妄想。これも更に重篤
これも先の>欲情か疎遠かの二者選択のみ<の思考に嵌っており、理屈として通らない。
「俺は異性といると絶対いつかは恋情になるしかないんだ!」と思ったからと言って、
他者も「あ、俺もあなたと同様に絶対恋情になっちゃいます!」となるとは限らない。それだけの話だ。


自分の実感が必ずしも相手と共有できるとは限らないのが、自己と他者の領域なのだろう(領域と言うか違い?)。
おそらく、この珍妙奇天烈な妄想により、男女の友情論などが過去に噴出したと思われる。


しかし、自分の性欲望が誰かの性欲望と(何らかの客観的視座<統計方法?>を用いて)近似値であったとしても、それが誰しもと共有できるものかは、当然…別。


なぜ独りよがりに自分と相手が同じだと思えるのだろう?*4


お前と私は一緒だよな?!という圧力を感じちゃう。こんな理屈変だ。



というか、説明責任も果たさないで勝手に判断して選別して、個々の存在の在り方を歪曲させるなよ!と思うので。
そういう強引さを顕著に表した議論だったのだな、と思う。
これで、最初に論理的に考えよましょ?>v<の前戯は終わった・・・。
(・・・前戯?)

*1:ちなみに、私はこのような「まあ、でも異性愛者がほとんどだし同性愛者の可能性はあくまで外にやろう」という言外の排斥を“『同性愛者が同性愛者でしかない』ことを強制するレトリック”等と呼んでます(自分の中でだけw)。・・・と言ってもそもそも同性愛を自認する人が異性と恋をしないとも限らないけど。異性愛を自認する人だってそうでしょ。

*2:私なんか自分視点で言わせてもらえば、現在男女間の友情なんて一個も実践してないもん。だって男じゃないモーん!プンプン!

*3:ちなみに、この議論で更に混迷を深めた原因は「友情の定義」のあやふやさ。でも、「セックスしたら恋人」は大雑把過ぎ。しかも、許せないことに、「人は誰しもセックスできるはずだ!」と考えてること。あの・・・セックスがそもそも色んな事情でしない人も居ればできない人もいるのは当然でしょ?と思う。その人の可能性を無条件的に除くと言うことは、暗に「そういう奴は社会にいない」と無視して、「男女の枠」に入れなくてもいいという選別をしてること。だから許さない。同じことが同性愛にも言えるわけ。

*4:これは、もしかして日本的な空気なのかもしれない。ちなみに私は「空気読め」はどうかと思う。・・・。絶対音感みたいに音をドレミで読むように、「これはCO2、これはH」てなことでもしたいの?て思う笑ていうか、「空気読め」て多数派の理屈だと思うわ。全体に合わない人にとってこれって凄い抑圧的。