日本にホモフォビアはない??
では本題。
言いたいことはわかる。・・・いや、ごめん、わからない。
ホモフォビア : ジャックの談話室
既に私のアンテナに入ってらっしゃるrotatioこと飯田明芳氏のブログや玉野真路氏のブログによって言及されている。
飯田氏の言うとおり、定義を明確にしないままの議論は・・・不毛。
(http://d.hatena.ne.jp/rotatio/20070113/1168619333)
まず反論の方法としては二つあります。
「いいや!日本にもホモフォビアはある!これとこれとこれがそうだぁあ!」
と云うやり方。
それと、
論理的思考による反論。(私が苦手なアレ…。)
この二点。
前者は確かに簡単なのだけれど・・・。でもあえて言わせて貰うなら、そんな「例示」を挙げる必要はない。
それ以前の問題ですから。はい。
では、まず前提となる用語の定義をおさらいしましょう。
ホモフォビア(homophobia)とは、一言でいえば、同性への愛情、同性との性行為あるいはそのような行為をする人々、同性愛者、同性愛者としての生のあり方などに対して非合理な恐怖心を抱く、同性愛恐怖・同性愛嫌悪の症状のことです。
(IDAHO Japanブログ引用)
ホモフォビア(Homophobia)とは、同性愛、同性愛者に対する恐怖感、嫌悪感を持つ人。特に男性同性愛に対するものが多い。
(ホモフォビア - Wikipedia引用)
このように、素直に解釈するなら、ホモフォビアは
「同性愛(者)への恐怖・嫌悪」
と解釈できます。
(というか、それ以外に何があるの?教えて。)
で、このように述べられる。
ホモフォビアを日本語に訳すと「同性愛者嫌悪」という言葉になるみたいですが、実際は「嫌悪」という感情よりもはるかに強烈な、しばしば暴力行為を伴う、同性愛者にたいする激しい憎悪というか、敵意です。
[…]
欧米の同性愛者は、このような激しいホモフォビアの脅威に日常的に晒されて生きているのです。
(引用者により省略あり。)
とありますが、それはもはや
ヘイトクライムでしょう。
ホモフォビアではないです。(勿論、ヘイトクライム自体「憎悪的犯罪」なのだから、そこに同性愛嫌悪があっても何ら不思議はない。)
この方は、ホモフォビアに関して
私はアメリカには行ったことがありませんが、若い頃、フランスに住んでいたので、欧米キリスト教圏のホモフォビアがいかに凄まじいものであるか、よく知っています。
と言って
そういう欧米の同性愛者が置かれた厳しい状況を知りもせず、言葉遊びみたいな感覚で気楽にホモフォビアという言葉を使ってもらいたくないですね。
断言しますが、一部のゲイリブにかぶれたホモの脳内を除けば、
日本にホモフォビアなんて存在しません!
と断じてますが。
勿論これは通用しません。
別に日本のホモフォビアを「大した事ない」と捉えようが、欧米のホモフォビアを「より激しいもの」と捉えようが、それはホモフォビアかどうかについては全く関係ありません。
どっちを見ようが、どっちだってホモフォビアはホモフォビアです。
それでは、彼はなぜ日本にホモフォビアがないというのか?
比べたら一見格差(?)があるからだと、私は推測します。
でも、本来のホモフォビアの定義をとると、そもそも程度差など関係ないのですね。
それを知ってるはずなのに、あえて「ない」と言う。
そう言ってしまえば、ホモフォビアの定義に「程度差によってホモフォビアかどうかが変わる。」という新解釈をしてしまうことになる。*1
ですので、おかしい。
なにも、「こっちのほうがマシ」に見えるからと言って、ホモフォビアが「ない」なんて決定することはありませんよね。
マシかどうか、なんて本当にどうでもいい。*2
定義は定義で、そのまんま使いましょう。
同性愛恐怖・嫌悪。これがあくまで定義です。というか和訳です。
日本にだって同性愛への恐怖・嫌悪は実在するんですから、その事実を歪曲してはいけません。
別に暴行したかどうかの「行動」じゃなくて・・・、それに内在される「恐怖・嫌悪」自体をホモフォビアと呼んだはず。そういう包括的な用語なんじゃないの?
というか私。「ヘイトクライムがホモフォビア」なんて珍説初めて聞いた・・・。(え?そうなの?)
結論。
そもそも本来の定義を取り間違っていて、私的な価値判断を下しており、この解釈は不適当。
はい、不適当なので却下。と云うことですね。
おしまい。
ですが、実はこれはこの記事の表面的な読み方なんだと思うんですね。
私が推測するに、このエントリーをお書きになられた方は、実はホモフォビアの意味なんてどうでもよかったのではないでしょうか?
おそらく、言葉の扱われ方に疑問を抱いておられるのでしょう。
この方は、欧米の中での同性愛嫌悪と日本の同性愛嫌悪とを比較することで、日本の同性愛嫌悪を大した物ではないと解釈しておられる。
その主張を、ホモフォビアという言語を用いて指摘してるのですね。
「ほら、この言語の使われている実際の背景を見ると、両者には大きな隔たりがあるでしょ?なのに、欧米と同じようなフリをして、他人の受け売りの言葉を使ってゲイリブを気取っている。本家とはえらい遜色なのにね!」
という意味だと思うの。
けれど、ホモフォビア自体とっても有用な言語なのに、それを地域ごとに捨てるのはもったいない。
ホモフォビアと云う語があるために、「気持ち悪いと思われるのは自分達が悪いんじゃない、同性愛を恐怖嫌悪してる者達が気持ち悪いと思ってるというだけなんだ。」という判断が出来る側面もあったろう。
そう、私の意見を言わせて貰えば、「このような用語が一部でも有用有効だったという事態そのものが、注目すべきなのではないか。」ということ。
その一点だけをもってしても、ホモフォビアという言葉の存在を否定するのには納得いかない。これが私の率直な意見どす。
なんのアレルギーかは判りかねますが、ゲイリブでの言葉の扱い方に違和感があるからと言って、その有用性は消えないだろう・・・。と思うのですね。
簡単なことですが、こういうこと。
有用な物はそのまま残していこう。他にいい言葉があればそれも使っていこう。
有用性があるかどうかで考えましょう。それが根本のはずだから。
確かにカタカナより日本語の方が伝わりやすいかもしれないが、それを理由にホモフォビアを消さなければならないという論理は成り立たない。
ならば、実際に有用性を論じていけばいい。
まあ、和製英語とかカタカナとかより、日本語のほうがよいかどうかは、議論の余地があるでしょうね。
でも、欧米と日本においての「目に見えるホモフォビア」の程度差で、その言葉を使うかどうかなどは論じられない。
と思いましたとさ。
そうそう、以前別エントリー立てて何か書くと言ってたけど、コメント欄でその部分に触れたので、まあ置いておく事にします。