セクシュアリティとBL?

読む前に。
大前提は、腐女子という集団も、結局はその中の多様な人間である個人個人が構成しているのであって、単純に一般化できるものでないのは言うまでもない事。
そして、なぜ腐女子と言われる(自称する)人達がやおいBLを好むかと言うと・・・それは結局やおいBLが面白いから、としか言えないのだ。
このことをお忘れなきよう頼みたい。


今夜はとりたてて、「距離のある者」達を焦点に考えてみる。
BLを欲望するのは女性と限らないし、百合も女性が欲望することも当然ある。けれど、今日はそこをあえて言及せず、BL等のカルチャーに向かう、「距離のある者」を特集。
まずはブログのトラバ。


la aqua vita 動物化するポストモダン
を読んで。

やおいやBLジャンルが、他のジャンルと極端に異なっている側面があるとしたら、
それはむしろ、セクシュアリティーという単語では還元できない要素にあると私は思います。[…]言語化(概念化)しづらい負の側面の問題にこそ、
私は一BL読者として、このジャンルの魅力と特徴を強く感じるのですね。
(引用者による省略あり。)

というのでピンと来て。


ああ、そうだよな。元来サブカルチャー(というか広く文化的な媒体)には性的な欲望がまとわりつくもの。
ていうか、別にやおいBL以外にも性的なジャンルはあるんだから、それを除いてやおいBL支持層の腐女子だけ妙なスポットライトが当てられるのは不自然。
そのスポットライトが当てられた要因とは他のジャンルと別の物ではなかったのか?


腐女子セクシュアリティをFTMゲイだとか言う方が居たらしいが(誰?)、そういう視線を腐女子にだけ向けるのは明らかにおかしいよな。(無論、いたとしても不思議はない。)
当然なのに、ちょと見逃してた。


んで、どうして腐女子セクシャリティーが問われる(?)のか。
それはまあ、ただの低レベルの腐女子切ったつもりのメディアや有識者でなくても、実はすごい興味を置くべき領域だから。
そう、率直に言って批判系の学問なんかにとって興味深い領域に見えるから。


そう、腐女子ってどこかクィアっぽい。
クィア理論からどのようなやおい解釈をされてるのかは残念ながら知らないけれど(誰かそゆ本知ってたらコメントプリーズ)、クィア理論自体の姿勢として、主体との「距離」を必要とするものがないだろうか?・・・というか主体との「ズレ」が必要に思えるよね。


距離をとるというのは、ホモソーシャルの生みの親、セジウィックが女性でありながら「男同士の絆」を説いたその姿勢の事。
(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話から引用。

 (真剣な)戯れの同一化の快楽を演じるのである。女性であるセジウィックは、男性のホモソーシャルな欲望を主体の位置に立って所有することはけっしてない。しかし男同士の欲望を解説するセジウィックは、たんに冷静な客観的な視点でメカニズムを分析するというよりは、他者の欲望をおしはかり、それに寄り添い、同一化しえないものに同一化する可能性に向けて読みを実践している。[…]現代日本のポピュラー・カルチャーではやおいと呼ばれることになるだろうこの姿勢を通じて、ふだんは欲望でないふりをしている男同士の欲望は、暴き出され批判され相対化されるとともに、距離を孕んだ同一化の快楽の対象になる。
(引用者省略あり。)

とある。

ふむ、そうなんだよね。腐女子的快楽とは、正に距離を孕んだ快楽だ!
BLには腐男子もいるけども、ただ、やはりその特性たるは腐女子の野次馬的な覗き見視線だろう。と私は解釈。
そう、そのまなざしとは「欲望の対象それ自体が、客体である事の自覚を持ちつつも私的に占領され、そこに本来見出されるはずのない(規範)秘密の快楽を引き上げる。」というものだ。(と思う。)
↑意味は後述。


とまぁ、距離がある。では、媒体を通じて欲望することは、一体どのような可能性があるのか?
この本の著者が最初にフーコーを引用するように、そもそも「あらゆる欲望と快楽は性的である」。(少なくとも連続性はあるでしょうね。)
(小説であろうと、漫画であろうと、)媒体への読み手の同一化のシナリオとは、密やかな自己ファンタジーの発見を介して得られる快楽であろう。


よく言われることだが、やおいを消費する者は、ジャンプなど実際にはゲイセクシュアルな欲望が見られない媒体に、自分の(ゲイ的な)妄想を見出し、脳内変換をしちゃうじゃない?(男を頭の中でおもちゃにする。by柿沼瑛子


それがやおい的快楽なのだとしたら、自己のファンタジーを見出しやすい「規定のない環境」を欲する傾向が、やおい愛好者には多いということになる。(ちなみにBLは正に「ゲイモノ」に位置づけられるよね。)
想像の幅をあえて制限されないことで、自分の内なる嗜好性を発揮すると。
まあ、一種の覗き見による妄想、だ。*1
でも、媒体に自己ファンタジーを見出すことは、他のジャンルにも当然言えるわけで。
すると、やおいの需要はどのような意味で特殊なのだろう。


安直に言うと、「見出されるはずのない、距離ある物への欲望と快楽」というものだ。(この時点でBLとやおいは近しい。)



見出されるはずのない、というのは、ホモフォビックな規範の意味もあるし、同時に主体を通して得られるはずであった快楽を越えてしまったファンタジーを欲望することにもある。

つまり、セジウィック同様、女性でありながら、男性という主体に位置せずとも、男同士の欲望を暴く行為の事。
これをより実践してきたのはやはり腐女子やおい愛好者の女性)ではないか?(他のジャンルは知らないけども!)
ふたなりとか男性読者による百合ものとかも同様のことが言えるが、得られるはずのない絆を自分の手に取り戻し、自己のファンタジーを構築する・・・という様があるのね。


対岸の方へと意識を向けることで、逆に自分の欲望が主体性を重んじなくても存在しうるのだと気づく。それが腐女子的な傾向なのかもしれない。

それは確かにセクシュアリティと関わっているように見える。
が、もはや欲望が自己の性(たとえばジェンダー)を無視することになんの問題もないという態度を見るに、それは人間の(基礎的な)認識的領域さえもを快楽の基地にすると言う開拓の行為に思える。
どういうことかって言うと、
性がある。性を持つことで、性的な欲望の仕方を覚える。しかし私達はあらゆる欲望・快楽を持ちうる。性的な欲望を自我・自己という領域で占領する。性→自己ではなく、自己→性の構図で欲望体系を自主的に確保する。そして、主体に立たず、自己の欲望・快楽を性的なものへと再構築する。

という処理があるのかも。
こうなった時点で、もはや腐女子に限った話題でない事がうかがえる。


ちなみに私は、自分のことをたまに「男性同性愛者」だったのではなく、「男性愛者」だったのでは?と思う事がある。
同性愛を欲望するのではなく、あくまで男性を欲望するのではないか?と思う事がある。
それの真実は置いとくとして、存外自分が「異性愛者」なのか「同性愛者」なのかは計り知れない。
だって、いくら自分の欲情した具体的風景を頭の中で構築して見せて「ああ、やっぱり自分は非対称性を欲望している」とか「ああ、やっぱり自分は同均質性を欲望している」と思っても、それをどうして女性男性を欲望してるだけの欲望体系でないと言いきれるか?
もしかしたら、女性・男性さえそこにいれば「百合」「やおい・BL」でも「ヘテロモノ」でもよかったのではないか?
という問いは、結局誰も明確に答えてくれそうもない。


この中で、私達はどれだけ主体に拠った欲望形態だけを維持・保有できるものか?
そもそも欲望体系自体、自己の中で乱立してもよいものなのではないか?(無論、両性愛を指すのではなく、快楽の基地を乱立することの意味で。)


日本は昔、公家の中では男女を分けない形で色好みを実践してたそうな。
武家や僧侶の男社会でも、女色(男が女を)男色(男が男を)という二つの形式で欲望を形作っていた。(それは決して同性愛/異性愛の分類方法ではない。)
欲望が単に自分の赴くままに形作られていた時代が、一応は存在していたのではないだろうか。


それらを見るに、私達とは、同性愛/異性愛の枠組みで欲望するのではなく、自分の認識的領域で見出す快楽を全く個別に編み出すことが出来るのではないか?そしてそれが人間の欲望の本来なのではないか?
という仮説(?)が出てくる。



欲望形態の乱立或いは両立?などによって、自分の性が自主的に再構築されていく。
それが今、一部のカルチャーに見られているだけなのではないだろうか?
そしてそれは、腐女子界や百合界ふたなり界等でそれぞれ個別の特徴があり、しかしどこか底流する部分も有する文化的な性の営みではないか?
言うなれば、それは最も「人間らしい欲望」の有り方ではないだろうか?
と思う。
実際私達のセクシュアリティはあやふや過ぎて意味プーな物なんだけど、そこに表出される性もあればそこからはみ出す形の性(性とも限らない欲望)もまた存在しうるのかな。と。


しかし、これはあまりに当然過ぎることなのかも。


だって、私達は既に生きてる中で想像力は肉体を越える、ことを体験しているもの。
きっと誰にでも身に覚えがあるはず。


というか、レズものってイイよなぁとかゲイって素敵だ〜とか、(異性愛者且つその対象に不一致なジェンダーの者には)手に届かないはずのようなものでも、私達は簡単に欲望してきたわけじゃない。
ただそれが、自分の性の本質とまでは考えないと言うだけで。


それは要するに、自分達はいづれも必ず同性愛/異性愛に区分けされる、との思い込みがあるゆえだろう。
なにも、どちらかひとつをとって、「これが私のホンモノの(?)本質だ!」と決め付けなくてもよさそうなものなのに。


そうであっても、どうしてもやおい・BLを欲望しなければならなかった女性はいただろう。百合やふたなり等も同様に。
そういう部分をとって、私達が性の自己分析を行ってみるのも非常に面白そうだ。


ちなみに私も百合は好き。ヘテロモノもいつかは好きになれるかも。
これもひとつの「距離の孕む同一化の欲望」だ・・・。

*1:ただ、やおいとBLのこの違いが、明らかなニーズの差異を表してるかと言うと難しい。そもそもBLもやおいも好きな人は居るし、どちらかしか好きでない人も居る。ということは、結局腐女子という人々に、多様性があるということなんだけれど。なぜやおいを愛好するか、ということとなぜBLを愛好するかということは、人によって理由が違う。趣味の問題でもあるし、腐女子的な特有の傾向が複雑なのかもしれないし。単純じゃないのよね。