反省しなきゃいけない地点でごわす。

数時間前に更新したばっかだけど、更新!(未読の方下記事もヨロシク!)
そういや、「光 ちゃん」てキーワードやたら人気なんだけど・・・どゆこと?


さてはい。
今日は眠いです!はい!でも明日は忙しいので!(意味不明!)
ので、今日は今の内自分宛プラス一部読者様宛反省文を書きます。勿論、自分とは関連してないと思われた方にも読んでもらえたらウレスーかも。

よく分からない人にはちんぷんかんぷんかもしれませんが、自省のため、自ブログとして大変重要な点なので、ここで整理しておきます。
以下、長いです!



セクシュアリティ概念を批判したい訳。

セクシュアリティ概念に対して、なぜ私が批判的なのかは、ここを通い読んでくれてる方々には既にお分かりかもしれない。
そう、理由は、私達の本質を隠してるように思えるから。つまり、インチキに見えて胡散臭いから、という事なんだけれど・・・。
私達は単純じゃないのに、セクシュアリティという名称に単純化され、一般化され、それが絶対のものであるとし、あらゆる人々に強いるもののように思えて気に食わないのよね。
本質を一個の原因や名称に還元することの暴力性や、混乱を避けたいとの思いがあるのね。本質自体の不可視化。固定化反対の意思なわけ。
(それもあって、色々滑稽なパフォーマンスをしてたりw)


でもセクシュアリティ概念が歴史もあって、ある程度「社会に対する様々な効用」もある事は否定されない。
というか、むしろかなり実用性があり、今やなくてはならないし、今更捨て去るわけには行かない。*1

というかその実用性を軽視してはならない。


たとえばバイセクシュアリティは、「そもそもなんで男/女の二元性で指向(志向・嗜好)を決めなくちゃいけないの?」という一般的には(バイセクシュアリティとして)認識されてない社会に対する効用もあるし、また、「世の中、モノ(単一)セクシュアルだけじゃない!」というあまりにもバイセクシュアリティとして当然の主張を私達に投げかけてくれて来たよね。

たとえばゲイ・ビアンセクシュアル。これは、実は「ヘテロセクシズムの対抗」だけじゃなく、ジェンダーのコードへの揺らぎを起こす代表格としても位置づけられてきたはず。(なんだかんだでクィアの代表だもんね。)
それの極端な表れとして、ダイクやクィーン、キング。これもひとつのゲイ(注:男女両方を指す)文化の特色のひとつ。←もっとも、これはTGとの連続性アリかもだけど。
(私は『男性同性愛者=おねぇ』『女性同性愛者=男気!』等の図式を、一般化させないなら、これも胸を張って「私達ゲイ文化の特色!」て言いたいと思う。…後者は私には無理だけど。)
また、「異性を愛する」のが当然だという社会の固定観念を根底から覆すセクシュアリティであることは言うまでもない。



ヘテロセクシズムの中には、「異性愛万歳!」だけじゃなく、(結婚制度の文脈等で)モノガミーの強制やジェンダーによる様々な抑圧やモノセクシュアルの絶対化・強制などを可能にしているのですが。多くの問題性があるのは一般にはあまり自覚されない。


だからこそ、ひとつひとつの(セクシュアリティにおける)区分が、時に有効な対抗力となるのだ。しかもそれは分離的になることで可能。


分離主義的である、という誤解を恐れず言うと、それぞれの区分が明らかであり、その差異は絶対的なものである、という共通認識が、実のところ現状への対抗として有効である事は否めないと思うのね。
そう、分離してもらわないと、それぞれ固有のメッセージ性が薄れてしまい、個々のセクシュアリティの多義性多様性が弱くなっちゃうのね。*2


まぁ、セクマイである互いのセクシュアリティ性が、色んなパターンで喧嘩しちゃうことも多々あるんだけど、それでも結局今のところそれに折り合いを見つけて、自分達の特徴を誇張(!)していかなくちゃならない。そういう事情があるよね。
(喧嘩しちゃう部分は、やっぱり人権第一で考えて、社会全体をどう再構築していくのがより全体としてフェアであるかを論争していかなくちゃならない。)


そうしてくると見えてくるのは、セクマイは多義性もしくは多元性であることが強みであると言うことなのね。


ところで私、セクマイを「多様性」て言葉で表すのにはなんだか違和感を覚えるんだけど。(確かにヘテロセクシズムの中では「多様」に見えるんだけど。)
・・・そして、多元的なあり方には否定的な感情を持ってしまうんだけど。


なぜかって言うと、まず多様性について言うならば、セクマイは多様性ではないから。
からしたら、セクマイ・・・というかセクシュアリティ概念に則った区分自体が多様性ではなく、多元的であると捉えてるからさ。
そして第二に、多元性はあくまでヘテロセクシズム同様、結局は私達全員を枠にはめた考え方でしかないと感じてしまうから。なんか1から2になっただけな印象を持つのね。(それは、今更あんまり神経質になるべきことでないんだろうケド。)
それでも、私達セクマイ(に限らないんだけど!)は自分たち特有の原義というか多元性多義性をこれからも重んじていかなくちゃならない。

なぜって、私達は目に見える形で存在していかなくちゃならないから。
どう言う事かって言うと。
それは、私たち自身がロールモデルになっていかなくちゃならないから。


そうしないと、
これから次々と絶え間なく出てくる、現状の社会に合わない性を持ち得る人々(子どもも含め)が、「自分は何者であるか?」と迷う羽目になるから。*3
やっぱり一度は自己規定をしないことには不安定だし、他にも自己分析(自分探し!)とかってのもなかなか出来ないと思うのね。


それに、「自分は1人(孤独)じゃない、連帯できる仲間が居る!」と思える状況は絶対必須なので、やっぱり私達はこれからも枠に嵌って存在しなければ!、な訳ね。
ロールモデルは主に二重の意味で必要なわけだ。


そうするときに、私達が自分の本質をあえてセクシュアリティと云う悪しき(←と勝手に私は思ってる)一般化・単純化の枠に嵌めていかなくちゃならないと感じる。


それに、やっぱり、社会に訴えていくにはわかりやすくなくちゃいけない。


たとえば、ビアンである事をカミングアウトされた尾辻議員なんかは、わかりやすさが売りみたいなんだけど。
実際に「ああ、私には抵抗感ある表現してるぅ。」と思える言い回しでも、ガチらしさを前面に出してくれることで、その主張に重みを乗せてくれている。

「私と云う確固たるアイデンティティー(の存在)が困ってるんだ!なんとかしろい!!いや、してみせる!」というメッセージ性は、やっぱりガチのレズビアンをカミングアウトしてくれないことにはおぼつか無い。


こういう意味でガチである自分を外側に向けて背負ってくれる人は大変ありがたい。(その意味で私なんかは中途半端に見えるでそうね。)


政治的な話題においてカテゴリーは絶対必要なんだと、私みたいな素人でも肌身に感じるしさ?
つまり、政治的な話題にはパッケージとしての纏まり感が欲しいモノなのね。


わかりやすさのメッセージがない。これは非常に痛い。
だから、私達はゲイを名乗らないといけない。ビアンを誇らないといけない。バイを誇張しないといけない。(↑それぞれの表現は互換できます。)
と云うことがあると思うのね。


訴えかけるには、なにか看板が必要なんだ。
それはセクシュアリティに限らずどんな運動でも言える事だろうケド、連帯を生むためには、実際なにか旗印がないことにはどうにも立ち行かない。
そして、やはり私達は(たとえば)「同性愛者として(!)」、現在基準無標であるところの異性愛者(…と自覚すらしてないだろうケド;)と立ち向かわないといけない。

そうすることで、やっと異性愛者が「異性愛者として」可視化されるんだ。そして対等にならなきゃいけないと気づく人も増える。

そうならば、私達ひとりひとりが一個一個特有の「抱えた問題」を振り翳して歩まないと意味がない。


TGは、性別二元性への批判を。(無論迎合主義的TGもあるだろうけど。)
これは、(たとえば)同性愛者等はやってくれないことだよね。無論、ヘテロセクシズムを温存してても変わらない。


バイセクシュアルは、モノセクシュアルへの批判を。(しない人も居るだろうケド。)
これもまた、(たとえば)同性愛者等がやってくれるわけでもないよね。無論、ヘテロセクシズムを温存してたんじゃ話にならない。


在日外国人の同性愛者が同性愛コミュニティで不可視化されるとき、「同性愛者として」ではなく、「在日外国人の同性愛者として」立ち上がらないといけないというのは同意していただけると思う。そういうことです。


その一個一個の特性を顕在化?しなきゃいけないんだよね。というか、可視化。
「自分らしい自分」と言うのをひとつのプレゼンとして顕著に表していかなくちゃならん、と。


そう、私達はあえて分類を必要とする。
実はそうすることで、必然的にどこかで他の何かを不可視化し、新たな問題を社会全体が抱えることになるけれど。
でも、今ゲイ・ビアン・バイの看板を捨てたらどうなるか?
今TG・TS・TVの看板を捨てたらどうなるか?
なにもかも(セクシュアリティにおける)社会変革の実践が不可能となる。
それだけはなんとしても避けないといけないのは当然過ぎること。


確かに、私みたいに名称を保障されてないようなやつが、無理やりゲイでアイデンティファイをすると、どうしても自己の“TGよりのセクシュアリティ”とで内面で矛盾しちゃうけど・・・。
でもそれを理由にセクシュアリティ概念自体を否定していたんじゃ何も始まらない。
なぜ、違和感があっても「あえて言うなら○○だ」と看板を背負うのか?
それは他に看板がないから、というのもあるけど、看板を背負わないと、二進も三進も行かないから。たとえそれがLGBTコミュニティ内のことであってもね。


だし、私達の看板(セクシュアリティ)とは、今現在大変有用で有意義たる分類法なのである。(←あくまで分類法である事を強調しときたい。)
逆に言うと、未だ、有効性のあるものなのだ。セクシュアリティ概念と言うものは…。
だから、捨てられはしない。
不可避的に背負わなければならないっつー現在の事情を頭ごなしに否定するのは、逆に不安定を呼び寄せるだけになりかねない。
当然過ぎるとされるものに異を唱える力。それがセクシュアリティ概念には確かに備わってるのだ。




・・・そして私は、しかし本音としてそのセクシュアリティ概念を個人的には捨て去りたいと思ってる。


有効性があり、実用的なことは知ってる。だってそれを使うことで実益があるんだもん。
だけど、私の本音は、「捨て去りたい」だ。
と言っても、誤解して欲しくないのは、捨て去るといってもそれは一部において、の意味。
「捨てたくなったらいつでも捨てられる。」という状況をどこかで保障したいのよ、要は。


あのねん。LGBTとかの分類の温存自体は否定したくはないのよ。当然。
だってそれだって、たとえ私にとって抑圧的でも、多様性のひとつであることには変わりないもん。
そう、私がセクシュアリティ概念からあぶれる自分を主張して「これもれっきとした多様性のひとつだ!」て訴えたとき、全く同様にセクシュアリティ概念による分類もまたひとつの多様性なのだから、どちらかひとつとって「アレはダメこれはイイ」とか言うのはおかしい。
認められるべきひとつの要素であるのはどちらも同様。


おかまが差別的言語であっても、当事者が肯定的にひとつのアイデンティティーとして「おかま」という形を尊重する。その向きを否定する理由なんてないもんね。
そんなこと思ってる人に「おかまじゃなくて、TGとかもっとイメージのいい(?)言葉使いいや〜」と云うのは、チョット変でしょ?つか傲慢?
なにかに帰属するための道具は出来るだけ残したいもんね。

他にも、ニートとか?

だって、これは「女流作家」とかと違って不適切な表現とも限らないもん。
名前があるからこそ、そこに存在する悩み(?)の実態とかを浮き彫りにしてくれるんだもんね。


たとえば、性同一性障害を「障害」と銘打ってるからって、「障害?!何を差別的な!TGと呼べ!」とか言ったらおかしいでしょ?
それ単なる障害に対する嫌悪感・偏見じゃん?GIDに障害として認めるべき点があるなら、それは当事者の声を一番に慮って尊重していきたいよね。*4
肯定するための道具なんて何個あっても構わない。どれかに絞る必要もない。どれもこれも残す必要があったり、或いは残したいと思うなら残せばいい。本来的に問題性がなければそれは尊重されるべきだろう。
そう、カテゴリーとは、絶対的なものであると、時に抑圧になるが、時に尊重して然るべきものでもあるよね。
自己規定の道具自体は尊重しなきゃだし。


ある時には抑圧的だからと言って、即刻廃止しなければならないとは限らない。そこらへんは、実際に議論しないと分からない事かもね。
(さすがにニガーとかは・・・必要でもないし、クィアとかとは事情が違うしね。クィアは戦略的に肯定の意味合いに変えられた語なんだけどね。)


そういうわけで、実はノダダも重要だと思ってることに関して言わせて貰いました。
一部読者様には、
お前はアイデンティティー放棄だなんて、ユートピア思想でもあるのか?
という空中に浮かんでそうな私の発言に違和感をお持ちかもしれないので。ここで弁明。←それがヘタレだって言うに。


でも、ここであえて私の主張。
それは、やっぱり「絶対化してはいけない!!」てことだす。
私の「セクシュアリティ概念の批判」の肝は、リテラシー(?)を持って使おうぜ!というものなのね。(←自戒を込めて言う。)


どういうことかと云うと、語源も知らずにテケトーに振り回すんじゃなくて、“どうしてそれが有効なのか、有用なのか、なぜ使われてきてどういう歴史や背景のある言葉なのか”みたいなことを振り返る姿勢を持ちたいということなのね。
そのためには、必要なことがある。
それはセクシュアリティ概念を絶対のものに位置づけない!ということ。
絶対とも限らない、それを知っておくこと。ひとつの道具として見る事
そう、自分が「これは絶対ではない」と認知することで、初めて使用する言語が有効なものになると思うのね。
だから、あまりにも当然になりすぎてる言語と言語の周縁を一旦疑って欲しかったのね。
疑うと言うか、一度くらい形骸にしてしまって、そのものの形を照射したかった。否定による逆照射。


そのためには、やはり、理論的に無茶であろうと、セクシュアリティ概念の否定・批判が必要になる。
もちろん、「おいどんは有用だから使ってたんだよ」とお分かりの方には、「こいつ馬鹿?」と思われただけかもしれないが。
でも、「人間と言う生き物はセクシュアリティ概念によって分けられる存在だ!それが人間の根幹だ!」みたいな意識を持ってる人って少なくないと思うのね。特に自身がセクマイでなく、セクマイに何の関心もない人は、やっぱそういう意識を内面化してると思うのー。
だからこそ、私はささやかながらの抵抗をちょそちょそやってみてるのね。無駄で意味なしかもだけど。
このブログを読んでくださる方の一部には、なにか新しい風を感じてもらえるかもしれないと思って。(夢見ガチっ子。)
・・・無論素人見解ですけど。。。


ただ、リテラシー(と云う言葉もここでは不適切な気がするが)が必要になってくるんじゃないか?と思うのね。
だから、セクシュアリティ概念の使用上で行き詰った時用にでも「疑う姿勢」に慣れてもらえると私的に嬉しいと思ったのね。
やっぱ、「ゲイて言ってるけど、なんかしっくりこないんだよね。」て人も居るだろうから。そういう声を捨て去らないでもすむように、
なんで必要なのか。
なんで有効なのか。
とかをちゃぁんと自覚して使っていけたほうがよいと思うんだ。


それの先にはアイデンティティーの政治の必要性っちゅー話題とからんでくるんだけど、私は不勉強なので、回避。(アグレッシブでアクロバティックな華麗なる逃避と呼んで!!)
まあ、なんにしても、どのような時に個々の名称言語が有用であるかのポイント整理は必要になってくるだろうケドね、戦略的にもさ。


そこらへんの肝は、たとえば事実婚同性婚での社会保障等の話題とかに見られるように、「そもそもアイデンティティーとか家族単位とかでなく、個人への保障をすべきっていう問題なんじゃないの?」ていう類の話を思い起こしてくれればわかると思うけど。


そもそもそこでは必要なのか?問題としてる対象の論じなければならない根本のポイントとはなんなのか?どこなのか?はいつも意識しておかなければならないだろうねー。
と云うことだけは言える。
とにかく「根本を見て、全体性を捉え、尚且つ自分の足場を何度でも見直せる」、という認識を持つのが常に課題だと思われ。



あと、ヘテロセクシュアルの人に関係なしな記事に思われるかもだけど、性に関して一部の人にだけ関係ないなんて話題はありません。
どうぞ、なにか思われたらコメントくださいね^^。

*1:個人が個人として捨ててもいいとは思うけど、そりゃ現在じゃ茨の道ね。私自身は概念にのっとらずに自分を見捉えたいけど…。

*2:しかし話は少し変わって、・・・同性愛だけがLGBTQ内で誇張されると、時にはバイセクシュアリティの不可視化などが進むかもしれないという点があり、他にもあらゆる面で、他セクシュアリティを<セクマイ内外問わず>抑圧する危険性は付きまとう・・・。それも分離するセクシュアリティの実体だけどね。

*3:・・・それは認識論的で、実はその時点で「自己をどこかに固定化をしないといけない!」という、後々自分の首を絞めるかもしれない類のジレンマでもあるんだけど。

*4:ただ「女流〜〜」なんかは単なる不適切な表現かと。わざわざ作家等のカテゴリーを男女で分ける必然性などどこにもないし、単に女性への偏見・固定化だもん。女性全体として邪魔なだけ。・・・変わって、障害の名は時としてちゃんとした理由から必要な概念であるし(医療的保障)、表現として不適切なこともない。んで、女流なんちゃらは、個人の表現の自由としてなら自称するのを尊重してもよいのだろうけど、それはあくまで「女流」という名称の尊重じゃなく、個人的な「表現の自由」の尊重だから。だし、話が根本的に違うと思うのね。異論あればどうぞ。