げいざぱんぬーすでDV。

あのさ、苺の銘柄で幸の香ってあるじゃない?あれを、私に向かって「さちのかおり」って言った人がいたんだけど。
その時は私、「ああ、『さちのか』ね。」と思ってただけなんだけど。後から考えるとエライ可愛い名前やなって笑っちゃったんだけどさ。その場で吹かなかった私はえらいと思う。


で、今日はゲイジャパンニュースを見ていて。
DVの記事があったので、それについてゆったりお話するつもり。
いつもどおり当たり前のことをつらつらと書く。お暇な方どうぞ。


ゲイジャパンニュースDE基礎
ナタDEココ。
(注:以下DV関連。)




ちなみに、この記事のタイトル、『違う形の“クローゼット”』は多分、

同性愛者の虐待が表に出てこないのは、表沙汰にすることにより、同性愛嫌悪による更なる問題が、自分の身に降りかかるのではないかと心配しているためだというのだ。

という部分に当たるんじゃないかと重湯(思う)。
はぁ・・・。色々とドタマ痛い話だわ。


DE、本題。

最初に言うと、私は「同性愛者らLGBTにもDVはあるんだ!」ていう文脈でDVに向き合うべきかどうかはわかりかねるという考えだったのね。

ドメスティック・バイオレンスは異性間だけの問題ではない」という啓蒙により、より多くの情報を有効にし、効果的な助けの手をさし伸べることができるようになると提言する

とあるわけだけど。
このDV問題については二通りの議論の仕方と言うか切り口があると思うのね。大雑把に言うと、
異性愛者にだけDVの救済を求めるのではなく同性愛者らにも救済を!不完全だ!」
「女性=被害者、男性=加害者ではなく、男性も女性も被害者(or加害者)になりうる。不完全だ!」
と二つくらいあるかしら?
どちらも正しいのだけれど、どちらでモノを考えるかで、多少その議論の行方と言うか行き着く結論も変わるくない?


んで、私としては、同性愛者へのケアというのは無論必要だとは思うのだけど。
でもそれは必ずしも「同性愛者にも救済を!」という文脈にするべきなのか、或いは他の路線(後者)か、或いはより包括的な新対策を取るべきか・・・、そこんとこがよくわからなかったのね。


さぁ、では何事も考えるのは、対象の基本はどこであり何なのか、を考えなくちゃいけないね。じわじわと考えていこう。
そう、ここからは定義を中心に考えていこう。DV定義の解釈で、この話の大筋が見えてくるはず。
ではGO!


DV定義の解釈は中立性を!


まずDVとはなにか?
ドメスティックバイオレンス、直訳すると家庭内の暴力だけど。パートナー間でも当てはまる概念となりました。
親密な間柄における、精神的、経済的、性的な暴力のことだよね。(またはその支配関係、構造、とまで解釈してしまうと拡大解釈だろうか?)


日本では主に「夫やパートナーなど、親密な間柄にある、又はあった男性から女性に対してふるわれる暴力」と解釈されるみたいだけど。(http://www.pref.chiba.jp/syozoku/b_dankyou/main/dv/whatsdv.html#dvtoha
でも異性間同性間、既婚未婚、関係なく「親密な間柄におけるこのような暴力」は起こりえるし、実際起こっている。それは、どの国でもそうでしょう。
表面的な解釈ではなく、奥のほうを突いた本質的な解釈としてはこちらを参照。↓
http://www.macska.org/emerging/dv01-intro.html


まあ、実体に合った適切な表現で解釈すべきなのは言うまでもない事。
決して、実際に困ってる誰かがDVの被害者・加害者として救済を求められない状態にはしないように、定義を解釈していきたい。*1


それを前提に話を進めていきましょうか^^


さて、「同性愛者にもDVの救済を!」か「女性男性どちらも被害者になるという視点で救済を!」と云う話。
(でもどちらかという話ではないんです、実は。)


私の以前の感覚としては、「本来、男性も女性も、性別に関わらずDVは起こりうる。『男性から女性』の構図で救済の門を閉じるべきではない!」という、どっちか言うと「同性愛者にも救済を!」より「男性も女性も被害者(加害者)になりうる」の視点なのね。
だって、本来それで事足りない?
同性間であろうと、異性間であろうと、この認識であれば同性/異性に拘わらず対処できるはずじゃない?
それが本来妥当な路線だと思ってたんだけど。


でも、これ現実的ではない。
だって、忘れてはならないことに、現代社会は異性愛中心主義(ヘテロセクシズム)だから。
ヘテロセクシズムである以上、同性間のDVは想定されないし、不可視化される。
主張として「男性女性も被害・加害者になる!」じゃ、多分
「ああ、確かに『女性から男性』の構図でもDVは起きるナァ。」と解釈されるだろう。
(無論、これも忘れてはいけないんだけど!)*2


それと、「現代社会はヘテロセクシズムである。」という以外に「ホモフォビックである」ということが重要点だ。
このことで、最初のゲイジャパンニュースを引用したように、(ゲイビアンであることで非難されると危惧し)同性間DVは救済を求められなかったりと、ホモフォビアが問題になる時もある。
これは同性間特有の問題であり、異性間/同性間と分けて対策しないといけないよね。
そもそも同性間特有の具体的で突っ込んだ内容のDV実体には迫られないという事情がある。
それはジェンダーによる支配関係というのが男女と違い成り立たないという点もあるし、他にもある。
男性同士女性同士だと、どちらも捕まっちゃうかもしれないよね。
(同性間のDVの取り扱いの難しさについて詳しくは先のmacskaさんのHP参照)


だから、やっぱり「ドメスティック・バイオレンスは異性間だけの問題ではない」という形の主張が必要になってくる。


そうなんだけど、やっぱり本来は男女共に被害・加害者になるといった見識で足りるはずだと思うのが私の感覚だった。
だけど、そこに、同性間の視点が組み込まれないことに気づいてなかった。
やっぱり主張としてはどれも分離させて「女性男性も被害・加害者になる」と「同性間にもDVは起こる」をそれぞれに議論の軸にしていかなくちゃならないんだな、と思う。
だって、どっちも個別に問題化する事象だから。


追記:そもそもジェンダーが同一のとき、降りかかるDVの実体は固有のものが出て来るだろうし、もうちょっと難しい話題だ。そう考えると、やっぱり「男女共に被害・加害者になる」という論理と「同性間にもDVはある」という見識は別のものであるね。(私の考えでは、なぜ異性間同性間で異なるようになるのかわからないし、それ自体が社会的性のおかしな点だと思うがそれはまた別の話。)
だしここをよりはっきり言うと。
「男女共に被害・加害者になる」と「異性間だけの問題じゃない」はそれぞれ別のものとして取り扱わなくてはならない!(というか、どっちも当たり前すぎ!!)これが今回私が書いて気づいたことです。というか、書いてて変わっちゃった主張です。はい、ふたつは別個で機能すべきです!!ごめん!!



で、結論。
あらゆるパターンを想定しつつ、誰の声も排除しないで、中立的な定義解釈をもって救済を!
という視点がDV救済に必要なんだと考えます。
これが、DV関連の議論をする上での私の視点です。


そうだね、たとえば。DVに一貫して見られる特徴をまず挙げていって、そこに見出された中立的な判断材料(つまり普遍的要素)を持ってして定義を解釈する。そしてその見出された普遍的要素での解釈上、DVとして取り扱わないといけない関係を救済の対象とする。
これだと思うわけです。



もうちょっと話を続けると、こう。
上の結論は、実に当然なことなんだけど、やっぱり今の日本じゃ、女性の被害者の救済だけが目的になって、他に目もくれない状況があると思うのね。


「女性を守りたい!」
という意識が大前提になっている状況ね。
それは分かるんだけど、そうではなく。
別に女性だけを被害者に想定するのではなく、被害者になりうる者、なっている者を救済するために、あえて前提を必要としないゆるやかで中立的視点こそが必要なのだと思う。
それが何かと云うと、「あらゆるパターンで見られる普遍的要素」を包括したDV定義だ。*3
これさえあれば排除なく救済できるはず。と思う。
その点で、上に紹介した定義なども有効なはず。


というわけで、なにを議論の切り口にするかと云う話でしたが、やっぱり、誰にでも救済の門の開かれた定義、これが重要かと思うのでしたぁ。


DVの取り扱い上気をつけたい基礎的思考。

ここからは私も疑問なところなので、結論と云うわけではないんだけど。もし宜しければ一緒に考えてください。


では、ちょっとここで以前のエントリーと絡む話をしたいのだけど。私前回、

そもそもそこでは必要なのか?問題としてる対象の論じなければならない根本のポイントとはなんなのか?どこなのか?はいつも意識しておかなければならないだろうねー。

と述べさせてもらったのだけど。


ここでもそれが言えるのね。


私以前紹介した本の中にトランスジェンダー・フェミニズムてのがあったんだけど。ちょっと手元にないしウル覚えで申し訳ないんだがこの本で気になったことを言わせて貰う。


この本では後半、DVに関して言及してあったのだけど。*4



で、この本の中たとえば、ゲイ男性の例とかを挙げてるのね。
ゲイ男性の被害者は自分を被害者として捉えていいかどうか分からないでいたりして。(これはジェンダーイメージの問題もあるかしらね?)
他に、相談窓口がない。シェルターもない。救済の門が見当たらないことを問題として、その例を挙げてらっしゃるのね。
つまり「異性愛者だけの問題じゃない!」ということなんだわ。

それはとっても全うな切り口なのだけれど。この本で私にはどうも不適切に思われる表記があったのよ。
それというのは、
LGBTI
という表記のことなんだ。
これだとインターセックスにも救済を!て読めちゃうのね。


ん?なんもおかしくないと思った?レズビアンゲイバイセクシュアルトランスジェンダーインターセックス、どれも纏められててよい表現だと思われる方もおられるかもしれない。
確かに、これらすべての人に救済は必要だ。


しかしDV救済でLGBTを持ち出すというのは、いわゆる先の「同性愛者にも救済を!」とか「異性愛者だけの問題ではない!」という主張の切り口であったはず。
セクマイを持ち出すとき、なにを中心軸において問題とするかの視点が必要なはずだ。
たとえば、同性間の視点を加えることで、異性間だけの問題じゃないことを指摘しつつ、
DVに一貫して見られる要素を考慮して想定されるパターンの救済。
・・・ていうさっきの話と同様の軸を導き出すとかね。(これなら同性間DVも見逃されない。)


でもここで、おかしいのは、インターセックスを持ち出すことでなんの話として纏めてるのか分からない点。
そう、インターセックスを持ち出す理由が分からない。


私もここらへんの部分は実はきっちり読み上げてなかったので批判するのはお門違いかもしれないけど。でもなんの話をしていてもおかしいのではないかと疑問が残る。
だって、これはDVのお話だもの。
うん、
DVの話にインターセックスて概念を挙げるのはおかしいだろう!

何でも含めりゃいいってもんじゃないでしょう。ということです。


え?いや、「インターセックスの人を含めないなんてノダダは酷いヤツだ」と思うかしら?え?だって・・・おかしくない?


まず言いたいのは、DVに関しては、その関係性が重要だと思うのね。(関係のないところにDVは起きない。)
するとどうだろう、その「関係性」とやらのポイントは主にセクシュアリティジェンダーや続柄ではないだろうか?間違っても医療とは結びつかないかと思うの。
そう、決してDVとは医療問題ではないからさ


インターセックスの人っていうのは、つまりある種の身体的障害を有してるということじゃない?*5
ということは、だ。直接的にDVに関連する概念ではない。(インターセックスだからDVに遭うのではない。)
ならば、DV関連でインターセックスを持ち出すには根拠が要る。

この2点が重要なはず。


さて、どうなのか?
私なんかがDVの定義を勝手にどうこうできないのだが、ここではDVを関係性の話題として考えるとしましょう。(繰り返すが、関係性のないところにDVはないはず。)


で、DVの文脈でなら、本来的にインターセックスとして救済を求める必要はないのではないか?或いはDVの定義上「インターセックス」を救済の対象に含める意義はないのではないか?と思う。
だって、最初に私の感覚を言ったとおり、私は「男女共に被害・加害者になりうる・・・という視点で本来十分のはずでは?」と考えてたので、インターセックスの人も男女として救済を求めればいいと思ったの。
インターセックスの人が「インターセックスとして」DVの救済を求める事態というのは想像がつかないのよ。
インターセックスの人も非インターセックスの男女と同様の救済で事足りるのではないか。


だって、インターセックスの人だって、男性女性として生きてるわけだ。そして、インターセックスとTGは同義じゃない。そう考えると、どうもインターセックスとしてDV被害の救済を求める意義はないように感じる。
そもそも「自分達をインターセックスとして救済してくれ」と当事者が救済を求めてるのか?ということだ。



おかしいのは、DVという「関係性の中で起こりうる事象」に対して、インターセックスと云う医療分野の名称を持ち出してることだ。
なんか不適切臭くない?


DVは医療問題じゃない!


と思うんだけど・・・。どうよ?

繰り返すが、
大体、インターセックスこそ「男女共に救済を!」の視点で充分な対象じゃないか。
インターセックス当事者の大抵は男性女性として生活してるらしいんだしさ。


彼等の特徴とは、あくまで尿道下裂や性腺形成不全等の、医療が必要な部分であるわけじゃん。とすると、DVに遭うかどうか、という問題と密接に関わる類の性質ではないことになる。
たとえば同性愛者は、同性愛者であるがゆえに、その定義上同性とパートナー関係になる事が予測される。が、インターセックスである事で引き出される(予測される)のは、それとはまったく別の「医療問題」であるのだ。
インターセックスと云う「概念」がどうDVに結びつくのか?


そもそもインターセックスて包括的名称はあるけども、その名称自体が必ずしも彼等のアイデンティティーなワケじゃなくて。
その内部でも問題事項が重なる部分もあれば重ならない部分もあるわけで。つまりはそもそも身体への医療自体がインターセックス最大のポイントなわけじゃん?でしょ?*6
だとしたら、インターセックスは医療系や障害論あたりで論ぜられるはずだと思うんだけど。なぜに関係性における話題である(と私は思ってる)DVにおいて論ぜられるんだ?
わ、わからない・・・。分かる人いたら教えて頂戴!


・・・・これはおそらく「インターセックスは性のグラデーションだ!」という言葉が表すように、インターセックスも時に、セクシュアルマイノリティの分野に据え置かれて論ぜられている部分があるからだと思う。つまり、「異性愛者だけの問題ではない(同性愛者にも救済を!)!」というセクマイ関連の主張に繋げられ同列に置かれるわけだ。(セクマイのひとつとされるわけだから。)
それは正しいかどうか分からないが、逆を言うとセクマイでもないものとしてもインターセックスが語られているという事実があるってことだ。
じゃあインターセックスを「セクマイのDV」の一つとして扱う妥当性と意義はどこか?私は、それこそ現代主流である既存のDV意識で事足りる場合が多いと思うのよ。


じゃあここで、インターセックスという名称或いは事象(?)と、インターセックス当事者そのものを分けて考えていただこう。
たとえばの話。同性愛者のインターセックスの人がいたとしよう。
そのとき、インターセックスの当事者が、もしDV関連で異性愛中心主義的DVに隠蔽され困るのだとしたら、それはあくまで同性間DVの文脈などからであろう。
と思う。(インターセックスの同性愛者であっても同性間DVは同性間DVでしょ?)


少なくともインターセックスの文脈では「DV関連で特異なパターンとして困る」、なんてことはないんじゃない?だって、インターセックスも男性女性なんだしさ。
それで困るのだとしたら、それは「同性間だから」とかLGBTの問題として関わる問題じゃないか?(それ自体インターセックス以外の者にも当てはまる話だが。)
それくらいしか私には思いつかないかな。あとはTG的問題はあるかも。でもそれは、あくまでインターセックス特有の問題ではないのでは、と。
それならば、医療的分野の名称を掲げてDV救済をするのはなんか不自然じゃないか。
というかわざわざインターセックスとしてDV関連に繋げるというのは、インターセックスの人は同性愛者でもないし異性愛者でもないしTGでもない、という括りつけを勝手にしてしまってることにならないか?
身体的特徴が典型でなくても、同性愛者にアイデンティファイしていれば同性愛者だし、他セクシュアリティでもそれは同様のはず。



気をつけてもらいたいのは、インターセックスは必ずしも男性女性の典型方として生きない人達ではないということ。

男性女性として生きないインターセックスの当事者もいるだろうけど、それだってインターセックスの文脈でDV救済に困る、という話に繋がるのかは疑問が残る。(つまりそれはTGの文脈ではないか。)
どうだろう?



それとも私がよく読んでないうちにこの本では、インターセックス異性愛者中心の救済策によってDVの実体を隠蔽され不可視化されてる、という例示でもしてたのだろうか?そうだとしたら申し訳ない。(私には想像できないんですけど。)


追記:

もうチョット考えてみた。
もしかしたら、インターセックスである事でTGみたくジェンダーアイデンティティーが不安定になる人も居るかもしれないよね。そして男性女性ではなく、「インターセックス」と云うのをジェンダーアイデンティティーにする人も居るかも。
したら、そういう人が異性間・同性間DVとして扱われるのは不満と思うかもしれない。それなら確かにインターセックスとしてDV救済を求めるかも。
つまり、『インターセックスのDV救済の窓口』を求めるのかもしれない、と。
んー・・・。(ちょっと難しい。)


あと、インターセックスと云う身体的特徴からパートナーや家族内で暴力を振るわれたとしたら。
それも確かに特有の問題かも。でも、それってDV救済の現場でどう扱われるべきことなんだ?(それをインターセックスの事例として取り扱うべきなのか?)


他にも考えられるかもしれない。誰かトランスジェンダー・フェミニズム持ってる方居たらDVの箇所教えてー。
それとご意見あればどうぞコメントなりメールなりヨロシクー><!

*1:加害者にも救済が必要、だなんていったら反感を買うかしら?

*2:異性間のことを言えば、ジェンダーイメージによる、「女性は弱者」の意識が働く分、異性間DVは「ジェンダーによる暴力」といった形式でもDVが発生しやすいだろうし、ジェンダーがDV大きく関与しうる。と思うです。

*3:たとえば、「DVには一貫して、その関係性の極端な破綻が見られる。このことから、『関係性の破綻』がDVの定義上普遍的で重要な軸だろう。」とかね。こういう軸を一個一個挙げていくの。支配構図の中で行われる継続的な一方的な暴力。それに見られる一定の特徴を挙げていって、それに当てはまる人を救済の対象にする定義解釈をすればいいんじゃないかと思うのですが。皆様どうお考えでございましょう?

*4:そう、この本はTG関連の本なわけですが。「異性間同性間のDV」というけど、勿論TGの人もDVに遭うかもしれないわけで。だからやっぱり中立的な解釈が必要だよね。

*5:と言っても、私が障害と解釈してよいものかどうか・・・。日本じゃどうなってるんだろう?今や和訳は「性発達障害」(disorders of sex development)なのだと聞いたが・・・。

*6:無論社会的側面もあるけど、それがどうDVと結びつくのか?