やっぱり「正しい」はない。

きょ、今日は・・・少し、ノダダ・・・てててテンパってるYO!(・д・ь ちょと頭おかしいYO!気にしちゃメーYO!
ザザザ、ざー行くよ〜?うよー。


あ、ところでそのまんま東さん当選おめでたうー。都城市の条例、一つよろしくー。


苺食いてー!わー、、、。。。。



ああああのさ、よよよよく同性愛異性愛で考えると「自然」がどうのこうの言っちゃうじゃん?
でもあれ、もうどうでもよくない?なくない?そー。んー、ま、それは置いといてねー。(爆)


私今日悟り開いちゃった!(大丈夫、恐くない×2 中二病なだけだから。←)


と云うのも、私「異性愛者は自然」という理屈を受け入れてもいいんだって、認めてもいいんだって気づいたからなのー。(注:ただし、ある一面(前提条件)においてだけ。他(の前提条件)では通用しないよん?)
で、私無意識の内で、気がつくと「異性愛だっておかしい!アレヤコレヤとどうもおかしい!おかしいのはどっち(異性愛・同性愛)でも言える事じゃん!つーか、ひとりだけ自然ぶってて変なの、ヘ〜ンなの!」て異性愛の方を皮肉っちゃうんだけど。(まあ、それも一応妥当な理屈として言ってるのでそれも当然間違ってはないんだけど。)
でもそんな理屈だけで『異性愛・同性愛』を考えなくてもいいんだって今更ながら気づいた。そういう思考展開でもいいけど、他にもいくらでも展開方法はあるんだってやっと気づいた。私ってば視界狭っ!お子ちゃまだったのね!


そいでね?私ってば結構異性愛コワイコワイ思ってる子なのね。(子って年じゃないけど。)
まあ、私の造語で言うならヘテロフォビアって感じなんだけど。それには色々理由があって。社会の雰囲気(←何故か変換できる)とかが変わらないとどうしようもない面もあるからゆっくりゆったり路線変更できたらと思ってるんだけど。まあ、それはどうでもよいとして。
そのコワい理由の一つに、よく異性愛者が自分達の事を「俺たち自然だ!お前等ホモは不自然でオカシイ!!」て言うアレがあるのね。
あれ言われると私「ヘテロコワ〜イ。ポパ〜イ(・□・!」てなるのね。も、ダッシュで逃げたくなっちゃう。


でもね?でもね?あれっておかしくない?
いや、「自然て言うケド、自然界にも同性間の性的接触はあるZE!」て話じゃなくて。
異性愛は自然だぜ!同性愛は変だぜ!」ていうロジックそのものがおかしくない?て思うのよ。


あのね、これは同性愛異性愛とかセクシュアリティ以外の話においても当然の事なんだけど・・・。実は素朴な論理の基本話なんだ。ちょっと聞いてもらえるかな。馬鹿でスイマセン。


  • A=自然、ならばB(CDEF…)=不自然

は成り立たない。
Aが自然ならば、何において自然なのかを説明しないといけない。(他のBCDEF…とどう違うのかを説明しないといけない。)
つまり、Aが自然であることと、他のBCDEFが自然或いは不自然であるかどうかは、全く別ごとである。
Aが自然であったとき、Aと共通項のある他のものもまた自然である。
同じく
Aが不自然であったとき、Aと共通項のある他のものもまた不自然である。
A=B(CDEF…)ではないのだから、どちらか一方が「自然」であっても、それだけを理由にどちらか一方を「自然」「不自然」と位置づけられることはない。
よって、比較対象であるモノの共通項の有無や、他の比較要素などが、対象を評価するキーポイントとなる。

というよくある話。(私が纏めたのでお粗末ですが、こういうの高校生くらいなら誰でも感覚的に分かってもらえるよね?)
これを性愛、つまりセクシュアリティにつなげると、こう。

異性愛は自然、ならば同性愛は不自然
は成り立たない。
異性愛が自然ならば、何において自然なのかを説明しなければならない。(他の性愛とどう違うのかを説明しないといけない。)
つまり、異性愛が自然である事と、他の性愛が自然或いは不自然であるかどうかは、全く別ごとである。
以下略(オイ)

なわけだけど。
更に言うと、

異性愛は自然
の中身を推測すると、それは
「生殖をするから自然」ということだろうと思われる。
しかし、
異性愛とはなにか?
異性愛とは「異性を愛する」ことである。
それはつまり、生殖するかどうかとはまったく別である。あるとき、ある者たちの「異性愛」は生殖を可能とするかもしれない。しかし、同時にしないかもしれない。
よって、「異性愛」=「生殖」は成り立たない。
では他の性愛とのはっきりとした差異は何処にあるのか?
「異性」「同性」「非ヒト科」「非生物」を愛することの差異とは何か?
これら相対化されたそれぞれの分野はそれぞれに差異がある事から、「すべて同じでないもの」ことこそが共通項である。
では、同じでないことからどれが自然であるか、という評価は出来るか?否出来ない。
ならば、どの性愛が自然であるかを証明するとき、その自然の定義を限定しなければ、その評価は下せない。
つまり、どの性愛もただ、相対化されたものである、と云う事実しか持ち得ない。
というのが、性愛を並べたときにまず出てくる結論であろう。

という考えを挙げておくね。(私が書いたから正に中学生レベル。ゴメス。)
で、ここで自然の定義を押さえたいところだけど、でもあえてそうしない。
そうすると、自然という言葉への私達の観念が多様すぎて一個に規定すると、もはやこの関連の話は一切出来なくなるから。だからあえてその定義を「なんとなく自然と思うもの」といった曖昧なものとして位置づけする。


ただし、「自然」と云うのを、今回「偶然」で当てはめることとする。

  • 自然とは、一種の流れであり、経緯そのものである。その流れ、経緯とはなんらかの要因の重なり合ったときの偶然を言う。

と今回は解釈することにする。(こう位置づけることで、一定の性愛評価が可能になるはず。)
まあ、私、性愛に関しては社会構築主義なので・・・こんな感じで勘弁!つってもよく知らないんだけどね、しゃかいこうちくしゅぎ。

自然であってもいいんだ!!

今回私は、あえて、あらゆる「偶然」を「自然」と捉える路線で異性愛同性愛等に言及する。


先に押さえたいノダダ見解!

私の中では、異性愛とは
「異性に惹かれる偶然」である。
私の中では、同性愛とは
「同性に惹かれる偶然」である。
そして、偶然に「イイも悪いもない」し、必然的に優劣(序列)はつかないというのは明らか。
偶然に価値をつけるとしたら。それはつまり個人の主観による判断でしかない。

ということですので、これを前提にお読みください。
そして今回のエントリは、私の論理展開の経路を変革するものであり、私の感覚の変化について語っている事を先に述べておきたい。(つまり、この中で触れるあらゆるロジックやレトリックに、なんらかの答えを導き出してるのではなく、それについて考える際の私の展開方法を書きとめてるのに過ぎないということ。)
ではGO!



私は以前から「どっちも不自然!」て理屈であらゆるマイノリティを自分の中で肯定して行ったんだけど。でも逆もあるんだって気づかなかった。そう、
「どっちも自然。」ていう考え方が抜けてた。


異性愛=自然でいいよ。大いに結構。
でも、それは自然って言ってもこういう自然だよ?
「ある一本の木がありました。その木に梯子がかけられてました。そして、その木の枝には宝箱がありました。ならば人はその宝箱を取るだろう。」
て感じ。
もっと簡単に言うなら、異性愛者が異性に惹かれるのは
「ボタンがそこにあると、押したくなる。」
て感じ。
偶然が折り重なった、と云う意味で「自然」なんだ。
何かに惹かれるってことは実は複雑で、複合的な要因が重なり合わないといけない。
実は私はセクシュアルオリエンテーションは何により形成されるのか?と云う議論においてかなり社会構築主義的なのね。
だから言うんだけど。
人が異性に惹かれる理由は色々とある。だけどそれは複合的要因が重なり合った、より偶発的な「自然」の形である。(或いは、偶発的な「不自然」の形である、とも言える。)
と、こう考えてる。
つまり、偶然が重なり合って表出された事象はすべて自然なのだと解釈する。



私は以前は「A=自然、ならば、B=不自然」のロジックに嵌ることで「どっちも不自然!」と位置づけないといけないと思い込んでた。すべてを「不自然」に位置づけないと、きっとなにかが(「自然」によって)否定されるんだって恐がってた。
でもそう考える必要はどこにもなかった。
だってその考え自体おかしいもんね?当たり前すぎて誰でも知ってることなのに、私恐怖で目がくらんでた。
そう、なにかが自然だからって他の何かが不自然になるなんてこと、ありえない話だった。
100か0かで考えてるからいけないんだ。そうじゃなくて、自然対不自然と云う構図以外にも思考展開はあったんだ。

よく言われるように、「異性愛は自然!同性愛不自然!」ていうヘテロちゃんが居るケド、あれおかしい。
自分達が自然であったとしても、それを理由にしてどうして「同性愛は不自然」と言えるのか?
「A=自然ならばB=不自然」は基本的にありえないことなんだ。
異性愛自然、同性愛不自然」じゃなく
異性愛自然、同性愛自然」だったんだよね?それを今までセクマイの人も度々言ってきたのに私ったら恐怖の所為でその理屈を理解してなかった。



と同時に、押さえて置きたい事実は、「自然」というのは観念なのだ。
なので、今回私があらゆる偶然を「自然」と唱えるなら、全く同様にあらゆる「偶然」は「不自然」と捉えることも可能なのだ。
だが、ここには決定的な無理がある。それはというと、現実の価値観に則してないということだ。
どういうことか?


以前の私は、“偶発的な重なり合い”を(どうしても!)「不自然なことなんだ!」と言ってのけたかった。
でもこれは非常に苦しい。
多くの人が実際に異性に惹かれてるというのに、「多くの人が不自然なことになっているんだ。」と解釈するのはどうしても無理がある。(でもそれを成功しないことには何かが否定されると思って必死だったわけだ。)
でも同時に考えて、「同性愛も異性愛同様、“不自然な偶然”を重なり合っている」と結論付けるとどうも居心地が悪い。
(つまり、たとえ論理的にあらゆる偶然を「自然・不自然」と捉えることが可能であっても、対象の「偶然」を「不自然」という観念によって説明するのには蓋然性がない。「不自然」という観念に導き出される私達の感覚が、「偶然」を「不自然」と位置づけるものではないということだ。)


私は幼少の頃から男同士の組んず解れつを妄想してきたのだから、今更同性間の愛だとか性的接触を不自然と位置づけるのにはかなりの無理があった。
それと同様に、異性間の愛だとか性的接触だとかを不自然と置くのは、おそらく同様に変なのではないか?ということになかなか気づけなかった。というか、無意識の中で気づかないフリをしていた。だって私は、「異性愛=自然」と捉えれば自分が崩壊する(自分だけが不自然になる)と思ってるから、どうしてもその理屈にたどり着けなかったんだ。


でも、自然って言葉って奥が深い。「自然」という言葉への私達の感覚とは一体なんなのか?それを挙げてみよう。
たとえば、
「木々が豊かな森を育む」のだって自然ならば「台風がやってきてすべての豊かさを奪っていく」のも自然なんだ。

もっと極端に言うと、
「様々な要因が重なり合い、豊潤な地球が出来た」のも自然なら「隕石によって地球が壊された」のだって当然自然。
もっともっと言うと、
バクテリアが酸素を作った」のも自然なら「人間が機械を作った」のだって自然と呼んでいいじゃないか。それが私達の「自然」という観念に則すならば。


地球が文化を生み出したことはもはや事実。宇宙規模で考えると、もはや何事も「自然」である。
なぜなら、偶発的な重なり合いを「自然」と呼ぶ価値観を私達は有しているからだ!!


偶発的要因が重なり合うことが「自然」だとするなら、そのすべての偶然は「自然」であってもよい。(逆にすべて不自然と呼んでもよいが、それは私達の感覚と合わない。)*1




私は、やっぱり人間の視点(認識)から言えば、どうしてもセクシュアルオリエンテーションというものは本質主義的な部分と社会構築主義的な部分を有することになると思う。だから、それを加味すると「セクシュアルオリエンテーション」は「偶発的な(本質と構築との)重なり合いだ」と考えられるのよね。*2
表出した事象そのものが、「表出した」という時点で複雑な経緯を経ており、その経緯からその存在を固持・固定し、形成・保存し続けている。と考える。
だとしたら、異性愛という表出は、つまり
「異性に惹かれる偶然」という意味で位置づけられると思う。
そうした時、なぜ他の対象に惹かれる「偶然」をとって「不自然」と断ぜられるか?否、できない。
仮に「異性に惹かれる偶然」を自然と捉えたとき、
「同性に惹かれる偶然」もまた等しく自然なのだ。
(なぜなら、どれも等しく単なる「偶然」だから。)
または
「ヒト科以外の生物に惹かれる偶然」も自然であり、「生物でない物に惹かれる偶然」もまた自然と位置づけなければ理屈が通らない。
なぜなら、一方の偶然を自然と意味づけたとき、他の「偶然」を「不自然」と意味づける根拠は基本的に何もないから。


そもそも本質か実存「どちらかしかない」と考える事自体ナンセンス。
どちらもあるからこそ、私達ホモサピエンスはその存在を成り立たせているのだ。(理性と云う名の本質)


そもそも異性愛と同性愛ははっきりと区分されない。なぜなら、その「〜〜に惹かれる」ということは偶然であり(社会構築的視座)、なにか一つの要因だけに起因されるものではないから。
(つまり、たとえば同性に惹かれるからと言って必ずしも異性に惹かれないという保証はどこにもない。それは私達のセクシュアルオリエンテーションが様々な要因によって偶然を起こして居るという証明なのだ。そういうことです。)



もし仮に生物学上ゲイ遺伝子なる物があったとしても、それを表出させるには、たとえばセックスが可能な身体や、思考可能な身体(脳?)を有していないといけない。そのような身体を持つこと自体半ば偶然であるし、他の条件とも一致しないとその遺伝子の表出は決してされない。
そう考えると、すべての「何かに惹かれる」というのは、すべて「偶然」であるのだ。
あらゆる偶然が重なり合ったとき、やっとその偶然は私達の目前に現れる。


こう考えるとわかりやすいだろうが、どれかの偶然を「自然」と位置づけたからって、他の偶然を「不自然」に据え置くことは難しい。
そして、私は恐がってばかりで他者を自然と認めることが出来なかった。でもなにかを自然と認めたとき、他のなにかを自然と置いてもよいはずだ。そこに共通する部分があるならば。
そして、同性愛異性愛に共通することはといえば、そう、
「それは偶然である。」
ということ。

ならば、私達は必然的にすべてのセクシュアルオリエンテーションを自然と位置づけられる。
同時に、不自然と位置づけられる。(←が、「不自然」だと、私達の感覚に合わない。)


私たちには意味づけをする自由があるのだ。ならば、私達は自己のオリエンテーションを不用意に序列化しなくてもよかったし、或いは肯定も否定も、それをする理由さえなかったのだとわかる。
「それでいいんだ」「自分はとにもかくにもこうなんだ」と自分自身が思える。これこそが、人間の最も重要で最も欠かせない結論なのかもしれない。

で、やっぱりそれでも「正しい」はない。


ここで、最後の繋げ。
さぁ、確かに「異性に惹かれる偶然」は自然でありうる。(と、同時に不自然にも置かないこともない。)

じゃあこのひとつの偶然を「正しさ」に結び付けられるか?
否、それは理論的には不可能。
偶然に正当性も不当性もない。
偶然起きたのだから『起きた』とだけとしか言いようがない。
はい、簡単すぎてお粗末ですが、「〜〜に惹かれる偶然」は自然であっても「正しさ」ではありません。はい終了。


・・・いや、まあ。補足すると。
なにかを正しいと見るためには、私達の「主観」が必要なわけじゃん?だとしたら、価値判断と云うのがあるわけだけど。
なにかひとつの偶然を取って価値判断すること自体、それは個人的な「感じ方」であるわけだし、単に「Aさんの主観から見たら正しいかもね?」と云うことくらいしかいえないわけよ。
んで、私にしたら「異性に惹かれる偶然を正しいとも思わないし、同性に惹かれる偶然も正しいとは思わない。」という価値判断が出来るわけで。(つまり1人にとって正しくても、それが全員にとっての正しさにはなりえないってこと。)
だとしたら、そんなの、単なる個々人の「主観の問題」じゃん?超個人的なことなのよね。
そんなどこぞの誰かの価値判断ごときに一々付き合ってられないので、「異性愛は正しい!」とかって言われても「あーはいはい、あんたの主観じゃそうなるんですよねー。わかったよー・・・もういい?バイバイ?」としか言えない。
まあこれは生物は生殖してナンボという規範があるわけだけど、その規範を「異性愛(者)」にだけ担わせるのは不当だし、意味不明な論理展開なので、あらゆる意味で破綻してます。(断言。)
まあ、それは単純に言えば『「異性愛=生殖」ではない』ということなんだけど。わざわざこんな当たり前のことこれ以上言いたくないので、上記の文章で済ませてね☆
で、結論としては、「〜〜と云う偶然」に正当性も不当性もないのだから、そこに「正しさ」を求めたならそれはつまり「その者の主観的判断(価値判断)の中でのみ正当と位置づけられた。」ということなだけだ。そう、何者かの主観においてのみ「正しさ」が生まれる。それだけのこと。


1人で勝手に正しいと思ってくれたらいいけど、それ単なる自己の世界でしか成立しないことだから。現実社会で「○○性愛は正しい」なんてロジック持ってこないでよ。ということです。






はい、ということで、今日はあんまりにも当然過ぎることを素面ではいえないので、ちょっとテンパってるノダダになり切ってエントリー書きましたw(とか言って間違ってたらゴメス。)
あー、肩こった・・・。なんかやたら恥ずかしいこと書いた気がする。


うふふ。超、馬鹿なこと書いたかも。・・・もしかして本当にテンパってる?私。

*1:それで、よくよく考えると、「なんで異性愛を自然と認めたからって同性愛をわざわざ不自然にしなくちゃならないんだ?」と思い至る。そう、んなこと最初から考えないでもなかったけど、どうしても自分の中のヘテロフォビアと向き合えなくてそのところに行き着けなかった。そのことに今気づいたんだ。

*2:どういうことかと云うと、生得的要素と社会文化的要素という二つの要素ががマッチング(←これが「偶然」なのだ)したときに、ある個人が「異性愛者」や「同性愛者」として表出される、と云うこと。このマッチングして出来たものはすべて「偶然」の成せるワザなのだから、偶然重なり合った事象を「自然」と呼びたがる私達の価値観と照らし合わせると「あらゆるセクシュアルオリエンテーションは自然だ」と言えるわけ。