DVD『BOYSLOVE』を、私が失敗作だと思う訳。


BOYS LOVE [DVD]

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今回この感想を書きます。しかし、感想がメインと云うより、私の「同性愛」についての「創作物の表現」への考えを書かせていただきます。


それでは、ネタバレもありますのでご注意。あと、性暴力が絡む内容でしたので、それを避けたい方はご注意ください。
では・・・。


[ストーリー]
平凡な毎日を送る雑誌編集者・間宮諦信(小谷嘉一)が、偶然取材で出会った高校生モデル・如月のえる(斎藤工)。
態度こそ乱暴なものの、のえるが描いた海のイラストに強く惹かれた間宮は、取材後食事を共にし意気投合するが、そのレストランのトイレで、のえるは性急に間宮の身体を求め出す。
抗えない間宮……。
翌朝、編集部にのえるの事務所から「担当者が無礼を働いた。謝罪に来い」との電話が入る。
のえるの家に謝罪に行く間宮だったが、そこで見たものは薄汚い男と交わるのえるの姿だった。
衝撃を受けた間宮は、取材の担当を外れるが、その時にはもうのえるのことを真剣に知りたいと思うようになっていた……。

のえると間宮が主人公です。監督は、ネコであろうのえるに間宮が襲われるのをちゃんと性暴力として描こうと思ってるらしい。犯された男が最終的にどうなっていくか、を描いた話だそうです。
でもそういう割りに間宮が影薄いように思います。のえるはなかなか私にとって好印象。(でもみんな一人称「僕」なんだ・・・。)
で、言わせて貰うと彼等セックスしません。*1彼等の関係はどこかプラトニックな関係で約束を綱にした関係のようです。(そういうの好きなんですよ私。)
その約束が、「男遊び(プをしない」というものだったのですね。


彼等の戯れる姿は私としても微笑ましかったのですけれど、そいうシーンが良かった。(逆を言うと、そういう数少ないシーンだけが得点だった。)
ノエル君の裸はなかなか魅力ありました。結構異性愛男性にも分かる魅力かも??
そういうわけで、所々楽しませてもらいましたが*2、全体の作品としてはちょっとパンチが弱かった。
約束自体の内容が・・・なんだかそんなに話として大切な位置にあったのかな?と印象薄いし、「約束で成り立っていた」と云う割りにそこらへん関係性を描く上で強調し忘れてるかしら・・・。それが、モエという効果を弱めてしまったところであり、非常に痛いです。
のえるが約束を破棄したことで浮き上がる、彼等の尊い関係性。これがあまり伝わってこなかった。なんというか、読み手に与えるドキドキ感が足りない。*3


そして、作品のクオリティ自体そこまで保障できません。
なぜか国語の授業しかしない高校生。(ノエル君の高校に他に教科はないのでつか?)
間宮の部屋が質素すぎる。さらりとしていすぎて、どうも生活感というか、間宮の人間性があのオプションから表せてない。もったいなし。(やっぱ部屋の細かなアイテムなどがそのキャラクタ性を如実に表すものだと思うんですね。そもそもインテリアにこだわると作品の世界感としての重みが違います。)
あと、好みの問題かもしれないけど、映像の色が・・・なんか深夜枠の美少女グラビア番組みたい。
というか、全体的質が・・・学芸会レベルに留まってた気がする。最後のシーンの月も明らか張りぼてです。たまりません。
そして脚本が・・・・。
どうしてそんなに安直な・・・。なんだか展開が昼ドラですよ?こんな展開別に誰もドキドキしません。(特に脇キャラの嫉妬と狂気っプリッたら!刃傷沙汰ですか?)

  • 萌の要素を出し切っていない+全体的に演出力がない。

そういった感じの作品でした。



ここで、私が、具体的内容の感想でなく、この作品自体が失敗作だと思った要点を纏めます。

  1. BLとしてこの作品を演出しなかった点。
  2. 同性愛を描こうと試みてしまった点。
  3. シナリオが安直なのに、エピソード中心に構成しなかった点。
  4. 作品の空気をファンタジー色に纏められなかった点
  5. 描こうとするそのスタンスが良くわからない点。


それでは、ここで私がこの要点がいかに失敗に繋がったかを説明。と云うか、私が勝手にそう思ったこと。


[1]
今回この作品の誤りだった点は、作品をあくまでBLとして描かなかった点です。それは〔2〕にも関わることです。(後述)
BLとして描くとはどういうことか?それは同性愛(リアル)との区別です*4
よくBLへの批判であるように「こんなのありえねーよ!」「こんな男いねーよ!」というありえなさ。これが重要なのです。*5
ありえないほど、腐女子にとって理想的なキャラクタとキャラクタの動き!これを作り出すことでこの作品には味が出てくると思われます。
そもそもBLとは、理想像を追い求めるロマンス至上主義的創作ジャンルだと思います(独断)。この作品もそれを実践すればよかったと私は分析します。つまり、腐女子の追い求めるであろう理想像をサンプリングして研究し、その理想像を実体化させる作業が重要だったと思う。
そう、腐女子こそをターゲットにするべきでした。*6
どうしてかと云うと、この作品のシナリオにはパンチがありません。ですから、他でその弱点を補う必要があります。そう考えたとき、この作品は「男同士の愛」が軸ですから、それを中心に考え「補える他の要素」を探すべきです。
ならば腐女子視点を使わない手はありません。要するに萌で補え、と。
どうしてか?それは、誤解を恐れず言いますが、腐女子はシナリオの出来不出来を、絶対こだわるとは限らないからです。
腐女子は、萌をやっぱり重要視すると思います。(私もです。)そうしたとき、多少のパンチの弱さがあっても、萌を中心に置くことで作品の価値を見いだせられるのです。パンチのなさを補うように、萌がありさえすれば「シナリオはいまいちだったけど、BLとして萌を堪能できたから、その点で見る価値があった。」と評価されるはず。これをしなかったのが敗因。
腐女子に迎合的になって、萌を供給すればよかったのにしなかった。それのせいで中途半端な演出だけが残ることとなりました。


[2]*7
さて、同性愛を描くとはどういうことでしょうか?


その前に二次元という、創作世界の性質を考えましょう。
創作とは正に白紙の状態に何らかのテイストを描き加えることのはず。つまり現実を描くのではなく、あくまで(自分が描くという意味において)自分自身の世界観を新たに提示することなのです。
現実にはない世界観を白紙の上に書き連ねることで、やっと作品世界は出来上がりますよね。
そう考えると、根本的に現実の世界と作品の世界が異なるのは明白のこと。


では、同性愛となんであるか?何度もブログで言いましたが、同性愛と云うのは歴史的に最近出来上がった概念であり、その分類法自体が本質ではないのです。分類は分類であり、概念はあくまで概念です。
ですから、本質的に存在するものでなく、あくまで私達の観念の中にこそ、その実体(と思しきもの)が存在するわけです。そう、「同性愛と云う分類。概念」は私達の中の観念そのものなのです。
そうすると、同性愛とはどういう形で表出し、どういう形で存在しうるか?
それは、あくまで本質的なものでなく、「社会構造が『同性愛』という区分を必要とした」ということで表出存在する。
だから、現実社会以外において同性愛と云う名の存在は本来在り得ないのです。


で、創作とはある意味現実のパロディですから、現実を追随するのですが、これにも限界はあって。
創作と云う二次的な表現世界において、現実を模倣するということは、逆説的に現実自体を知る必要があります。(現実を<作品世界に於いて>定義する必要がある、とも言えるか。)
で、同性愛を描くとき必要なのは、現実世界における同性愛を見なければなりません。
では、同性愛とはなんであったか?先に言ったとおり、概念であり分類法の一つであり、観念なのですね。
観念と云うものは、最初から本質的ではありません。(よね?)私達の頭の中にしかありませんからね。したらばどうやって本質的でないものを模倣できましょうか?
それは、同性愛と云う特殊性*8にも増して、事実上不可能性が付きまといます。
同性愛に限らず、社会に存在する観念的なものたちは、あくまで私達の現実社会だからこそ存在しうるのですね。その観念自体を描こうと思ったとき、それは社会系映画となります。この場合、現実をシナリオ化するのですが、互換性を重視するため、シナリオ自体がファンタジー性を遺棄し読者側との協和を申請します。ですので、なんとか成立する(読者と作品との)「ゲーム」となるのですが。同性愛の場合どうでしょうか?
もうおわかりでしょう。同性愛と云う実体はないのだから、それを真実かのように扱い(カテゴリ自体を本質的存在として信じ込み)映像に映し出すなど不可能です。
そして、「同性愛を描く」という点で忘れてはならないことがあります。それは対象が「性」であること。
これは重要な違いがあります。
性とは、もはやパロディ化が困難な対象であります。それは簡単にお分かりいただけると思われますが、リアルにおいても“性”自体「存在の不確実性」と「本質の在り処の不明」という問題を含んでおり、ジェンダー論においてもこの存在自体への解釈は大変不可思議・不透明なものとなってるはず。
そのようなものを社会系としても扱うことは本来的に非常に困難です。


ココで、私が唯一同性愛を描く手法があると思うものを挙げます。
それは、


同性愛者という存在を描こうとするのではなく、同性愛者と云う経験を描写する。


という手法です。
理解していただきたい点があります。初めから「同性愛者」と云う人はいません。というかそういう本質存在は居ません。それは異性愛両性愛者等も全く同様です(!)。
同性愛者が服来てそこに居るのではなく、服着てる人が同性愛者を名乗りつつそこに存在しているのです。

ココは是非ご理解いただきたい。*9


世の同性愛者等は、なにも同性愛者として生まれたのではなく、「同性に惹かれるという偶然」に出会ったから、「同性愛者」というカテゴリを自分にアイデンティファイしたのです。自分とリンクを張った。*10


ですので、同性愛者や同性愛を描く、などといったことは本来ありえないことなんです。
同性愛という観念・現象を描くなら、「同性愛者を名乗ることにしたあるひとりの個人」自体を人物として掘り下げる必要がある。それは人物を観察する事や切り取るという事であり、個人の「経験」を映像に残すという行為なのです。これによってのみ同性愛を描くということが可能になるはず。


よって私が思うのは、彼等の敗因は、同性愛を自分の勝手な想像で「作り上げる」ことが出来ると思い違ったことです。
驕ってはいけません。悪く言うようですけれど、そもそも彼等程度に同性愛を描くことなど最初から出来なかったのです。その器ではありません。
「同性愛者という当事者」でも出来ないことを実践するよりも、作品として成功するには、腐女子視点で作品の存在価値を提示し、その部分への一定の評価をしてもらうよう媚びる事だったのです。


[3,4,5]
以上の事を持ちまして私が言える事は、
エピソードを腐女子視点で構成し、ファンタジー性を重視することをせず、「同性愛」などと云う到底描ききることの出来ない対象にメスをいれるといった無謀な行為により(何を描いたはずだったのか)不透明になったスタンス、これらによるバランスのなさが敗因だということです。


これが今回私がボーイズラブ作品の敗因だと思った点です。

ではまた明日、以下にこのDVDの特典映像であるメイキングの製作サイドの同性愛観についてコメントして行こうと思います。それではまた明日この続きにて。


ゴメン!ちょいと力尽きた!!続きは明日書くから興味あったら読んでください!!(もしかしたら明日付けのエントリで続き書くかも。その時はちゃんと告知します。)

*1:と云うのも、最初の強制フェ、ラしかなくって。以後のカタルシスのための本格的接触がなかった。

*2:私基本楽しもうとするものはすべて好意的にとる部分がある。たとえ自分の期待から離れた展開であっても、楽しみたいという目的の方を優先します。その点で、楽しみたい!と思えるようもっとそういうシーンがあったら・・・。いや、そういうシーンこそが中心だったら良かった。

*3:ところで、ノエルがこの約束を破るシーンで自分語りをするのですが、その内容が・・・陳腐。「こんなに苦しいのなら・・・愛なんていらない」とか言っちゃって。それ、北斗の拳ですから。「愛などいらぬ!!」w

*4:腐女子がよく言う「やおいはファンタジー!」は私から言わせれば詭弁なのですが、今回のような作品はその嘘をあえてつき続ける必要があった。やおいは同性愛ではない、というレトリックは詭弁である事はまた改めて。

*5:もっとも、この作品の無理やりな展開には、違った意味で「ありえなさ」を生んでますが、そんなのは論外です。私が今回言うのは「ロマンスとしての」ありえなさです。

*6:まあそもそも腐女子がこれに必ずしも食いついて来るとも限りませんが・・・。実際そんなに騒がれてないかも?

*7:製作サイドはこの作品を「同性愛の物語」と騙っています。

*8:「同性愛」という分類が特殊なのであって、本来「同性愛者」は特殊でも何でもありません。ステレオタイプの価値観を言ってるのではないので、ご注意を。

*9:これに限ったことではありませんが、何かご不明な点ありましたら、稚拙ですが私も答えられる点答えていきたいのでご質問ください。

*10:証拠に、私はかつて自分を同性愛者と名乗らなければならないというプレッシャーにより同性愛者を自我同一性として用いてましたが、いまはクィア的存在として自称したい。それは、私が「同性愛者と云う名称」からその意味と名づけられる過負荷から逃れることを意味します。・・・最近は逃れることにも限界を見出していますが、それはまた別の話。