後で書く

て言うのはすごい卑怯臭いけども。
昨日のエントリは多方面に申し訳ないことを書きました。謝ります。すいません。感情的になってはいけない。
落ち着こう、私。


追記:
少し落ち着きました。・・・本当は柳沢厚労相の発言に触れたいんだけども、無論後回し。人の批判より自分の反省。

私は今回から、とりあえず自分を、ゲイセクシュアルを有すクィアと位置づけることにします。ゲイのクィア。よろ!


私が今回反省しなければならないことは、すべての異性愛者をヘテロセクシストとイコールにし、更には監督等と同様にホモフォビックな集団であると位置づけたこと。(監督等は「同性愛」に対して偏見を口にした、それは否定しません。)


エントリに反応していただき、少しクリアになってきたのですが、そもそも同性愛/異性愛の図式がなんであるかを説明しなければならなかった。。(できればコメント欄も参照していただきたい。)
それに、気持ちよく思われない表現をしました。すいません。


それで、私が今回言いたかったことは、「異性愛者」というスタンスから見る「同性愛」への距離。これにあったのですが、前エントリでは半分も申し上げられてはいません。
私が彼等の発言で見出したことは、完璧に同性愛を他者化させた上での「架空のカテゴリ」を表現することの虚しさです。まず、同性愛を描くことの不可能性としましては、“はっきり”とした「同性愛者」という存在の不在です。
同性愛者なる存在は、言語上の存在であり、社会的に(同性愛と分類されるような事象で)可視化されたとき初めてその名称が実体と化すのですよね。
ですので、本質(?)としては同性愛者と云う人物を存在させることは、現実の上でも想像の上でも不可能性を帯びるわけです。
これはなにも「同性愛者はいない」などというヘテロセクシズムではなくて。たとえば私の場合、本来的に私は同性愛者だから自分が存在してるわけでもないし、同性愛者だから同性愛的傾向を有し・実践していたわけではないはず。実際に私がおり、その私自身が同性愛者としての立場性を引き受けているのであるからこそ*1「同性愛者」というカテゴリがここに確立(可視化)されるのですよね。そういう意味ですので、同性愛者をアイデンティファイする方の存在を否定するものではありません。
同性愛とは、なんらかの文脈なくして存在しない。


そして、そうしたとき、監督等が表現するものの虚しさとして、同性愛者をあたかも最初から存在が確立された根源的・本質的存在として、「同性愛者」を捉えてる点であります。
それは、日本人というものが、どういう形で存在するかを全く議論せず、在日(と言っていいのかわかりませんが)の方などの立場性から見える、「日本人と云う存在の不確かさ」を加味せず、無根拠に本質的存在として自明視するということと似てると思います。


先ほども言いました様に、同性愛も他のカテゴリも、文脈なくしては存在しないと思う(異論あればどうぞ)。そして、そういう文脈を経て「自分が何者かである」という部分を、私達全員が持ってるはずだと言えるのですね。何者でもないものは居ないし、何者かであるならば、必ずそこには文脈があり文脈に依存した形でアイデンティティーを保有している。そんな当たり前のことが彼等には分からなかったのです。
存在をいかなものかと考察せずどういう意味でその立場が一個の存在として社会に現れているか、を無視するようなスタンスは、ファンタジーを表現する上でとても空々しいものといえます。


そうしたことを言えばよかったのに、私は感情的に彼等を批判しました。そうする事で、私は異性愛者(というアイデンティティーを持っている、異性を愛する人達がどれだけ居るかは疑問ですが)を同性愛嫌悪の塊であるかのように一般化させました。
表記の問題を指摘する私として不適当だし、一貫していない。それは批判されるべき点でした。大してされないので自分で批判。

ホンット!異性愛者って異性愛者としてのプライドとかないね。なくていい存在として生活してるからそれはまあ分かるんだけど。私だって性愛の看板なんか背負いたくないけども。

というのは、どういえばいいか・・・。
監督さんに限らず、多くの(ココ大事)異性愛者は異性愛者である事にプライドを持っては居ないと思います。
しかしそれを「異性愛者は」と一括りにしたのはおかしかった。プライド持ってる人もきっと居るはず。不適当だし批判されるべき。
で、何が言いたかったて言うと。
訂正であちらにも書きましたが、異性愛者は、異性を愛する、ということを異性愛者としてのプライドと見ていないのね。自覚がない。つまり、自分の持つ性愛が、相対化される中で、単なる一つの可能性であり、しかし尊重されるべき可能性のひとつとは見ていないと云うこと。
それは、他者と向き合うとき非常に弱い立場性にあることを意味する。そう、「異性愛とは生殖の手段だ」という価値観がそれです。彼等はこれを、何の恥じらいもなく言い切った。


まず先に本題とそれますが言わせて貰うと。
これは、たとえ異性愛者の当事者であっても、そう簡単に言い切ってはいけないと思います。
それに、彼はおそらく異性愛男性です。男性と自認し、男性として生きている。このとき、(たとえば)異性愛女性は彼にとって他者ですね。そうした中で、勝手に彼が異性愛を生殖に安直に結びつけることは、もう1人の異性愛者である異性愛女性の存在を無許可(許可があればイイと云う話ではないですが)に生殖の機械(プ)為の存在として位置づけるということにもなります。これは「自分が〜〜と思っていれば他の誰もが同じように考えるはず」といった独りよがりな態度であり、他者に対しての抑圧といえないでしょうか?*2


で、本題。
(事実同性愛の看板を背負ってる者が居るゆえに、半ば自動的に)異性愛者の立場にある者が、このように異性愛を固定的に捉えてなんら問題がないといえるでしょうか?少なくともどこかで不満はあると思います。


私はこれを、異性愛者の諦念として見ています。あるいは、異性愛者の(生殖に対する)白旗宣言とでもいいましょうか。なんと言って言いかわかりませんが。
異性愛者の一部は時に、生殖を自分達の宿命として捉え、自己の性愛を固定的に見てるように思われます。つまり、狭い範囲に異性愛を規定するのです。生殖のための存在として・・・。

異性を愛することを、半ば子を産むことと(宿命的な関係にあり)同義だと思い込む方々も、やはり居ると思うんですね。しかも無意識的に。
しかし、そんなことは決まっていません。
それは事実とは異なりますし、そのようなものとして「異性愛」というカテゴリを規定する権利など誰にもないでしょう。(勝手に1人で思い込むことはあるでしょうが、そういう価値観が与える他者への抑圧に無自覚であってはならないと思う。)
規定しても、それを誰からも批判されないと思っちゃいけない。いや、思ってもそれに抵抗感を持つ人は実際居るでしょうし。
このように、異性愛中心主義と言っても、その中身には、別の中心主義もあるんです。・・・つまり、それは生殖主義とでも言いましょうか。それを私は「人間は生殖してナンボ」という言葉で表したりしますけれども。生殖規範は、異性愛というカテゴリと密接に関わりあいます。お互いがそのカテゴリの確立を促しあい、(規範性をも)強化してるとも言えるかな、と。生殖の価値観か、異性愛の価値観か、どちらが先かは知りませんが「異性愛」というカテゴリがいつの間にやら生まれたとき、生殖に限定される性として語られるようになった(なっている)。
そして生殖ありきの価値観が異性愛にある時、異性愛はただの生殖の手段としてしか価値を見出さない。


それでは、これを異性愛当事者の多くは気に止めるでしょうか?おそらくはしない。
きっと彼等はそれを「男女の宿命」と位置づけるでしょう。決して「異性愛の宿命」とはしないのです。
しかし、事実、男女の宿命など言うのは、あらゆるセクシュアル・ジェンダーマイノリティー等に否定されるでしょう。(男女である事は、異性間の性的接触をイコールに繋げない。)では、生殖を「宿命」たらしめてる価値観は何か?それはやはり、(少なくともゲイである私からは)「異性愛の宿命」と位置づけられるはずの価値観だと思うんですね。*3
そしてそれを無批判に受け入れたとき、異性愛とは、かくも画一的で固定化された性愛かのように思われます。これは特筆すべき点だと思うのです。だって、同性愛者の私なんかは、自己のその性愛をいかに固定的価値に収めずポジティブな意味合いに位置づけるかを努力してきた。他の同性愛者にも多く見られる傾向のはず。(そりゃ、してない人も居るでしょうが、少なくともゲイリブとしてはそういうことが言えるかと。)
この性愛の肯定を、異性愛と云う立場は(時に)しないのですね。(してる人も居るはず。異性愛の中のマイノリティがそういうふうに自己肯定するだろうことは想像するに難くない。)
はい実は、異性愛者は、異性愛を肯定しなくてもいい側面を持ち得るのです。
なぜなら彼等は、無標である、と自己を主張するからです。
無標にしたとき、彼等は異性愛者としてではなく、男として女として、女を男を愛するのです。
しかしこれはどうなのか。
これは非常に同性愛者に抑圧的価値観なので、私は批判します。いくら「俺は男として女を愛したんだ」と言って見せても、それは異性愛と無関係であったか?(否。セクシュアルマイノリティがそれを否定している。)
自分が異性愛者であるからこそ女を愛したという経緯があったのではないか?と思うわけです。それを勝手に異性愛者だけのものではないジェンダーに還元することは許されません。


そうすると、単に男女の恋愛として、異性間の関係を肯定するのは難しい。(同性愛などを不当に抑圧するから許されない。)
異性愛者は、異性愛者でありながら、自分を“単なる”「男女」にしてしまうのです。この単なる、が意味不明なのですけれど、彼等はジェンダーの看板こそ受け持つものの、異性愛の看板は背負わない。そこが、私として引っかかる点なのです。
男女であれば、直ちに恋愛するか?否しない。ですので、異性愛者は、あくまで異性愛者として、異性愛を規定・肯定するのが妥当だと思うのです。(勿論肯定否定しなくても良いけども。)
そうしなければ、異性を愛したことを、どのような立場性としても完璧にフォローしたことにならないのです。
それは、他の(自己肯定をしてきた)セクシュアリティと向き会った時、非常に弱い自己肯定しか示せないことになるかもしれない。
同性愛者は、(自己否定する人も居るでしょうが)同性愛者という看板を背負うことで、「同性に惹かれるという偶然」をポジティブな価値として見出します(つまり、負のイメージで固定的に捉えない)。ええ、私なんかが一応しています。(と言っても、正真正銘?のゲイではないので、微妙な距離からの肯定ですが。・・完璧ゲイと自称出来たら楽なんだけどな><;)
その時、たとえば同性愛者の私と対峙する時、彼等は「異性に惹かれるという偶然」をどのように肯定するでしょうか?
これは私の推測ですが、多分「異性愛者として」ではなく、そして「男女として」でもなく(この肯定は不可能です。)、個人として自己の性愛を肯定する他ないと思います。
このように、セクシュアリティセクシュアリティの対峙の面で、(もし異性愛を生殖の手段として位置づけるなら)異性愛者は自己の性愛を肯定しづらい側面を持つことになると思うのですね。多分個人的なものに位置づけることでしか不可能になる。
それは、果たして異性愛者として得か?(損得じゃないんだけども!)*4


私は、(性愛を肯定するに当たって)2つの選択肢があると思われます。

  • 一つ。同性愛と異性愛を単なる性愛の傾向とか、その姿やあり様のことだけを指す用語として位置づけるということ。
  • 二つ。異性愛異性愛として肯定する方向を取る事。


実は後者は既に下地はあると思われます。まあ、同性愛否定の文脈に頼るような卑下した形の物もありますが。
何があるかと云うと、ジェンダーの明確な別をもってして、非対称性を重んじるという行為です。
これは、「男女として」の肯定の仕方と密接に関わるので、時に不当な物になるし危ういですが。しかし、この「非対称性」というコードを持ってして、異性愛(つまり異性に惹かれる偶然)を「異性愛として」肯定することが可能だと思います。

(ただ、これは性別二元制を強化する向きもあるので、私としては注意深く批判なりをしていかなければならないと思いますが。)
しかし、これは私、暫定的な肯定の仕方と見るべきだと思っていて。後者こそが最終的に必要だと思います。(例にもよって素人見解ですが。)


前者は、つまり、「異性愛者ではなく、個人として」誰かを愛したことを肯定するやり方です。・・・これは、詭弁に他なりません(だって自己のセクシュアリティが全く関わらないで他者を愛したと断言するのは無茶がありますから。)。が、規範である異性愛者が(他のセクシュアリティを否定することなく他の性愛をも巻き込んで)これを実践するならば、一定の評価を与えてもいいと思うのです。
なぜか?それは、性愛全般を個人的な愛の歴史として解釈し、異性愛をもただの「異性に惹かれる偶然」として再定義するならば、それはセクシュアリティ概念の脱構築(と言っていいかわかりませんが)をしたことになるからです。
これをすれば、「個人として○を愛した」という言い回しが詭弁でなくなるのです。どういうことか?


そもそも「私は個人として愛しただけ」というセリフが詭弁であるのは、セクシュアリティ概念による分類が、私達の性の本質であるとされるから。
それは、
「お前が誰かを愛した」ことは「自己のセクシュアリティが与えた結果」なのだ
という、セクシュアリティ概念に基づいた価値観があるから、ということです。(誰かを愛したことを、セクシュアリティ概念を根拠にするのが有効であるということ。)


現在セクシュアリティ概念自体の価値があまりにも強く、そして意味するところが多すぎる。内包する意味(?)がありすぎるというか、セクシュアリティ概念による区分が絶対的決定的意味を持ちすぎるという点があると思われます。これがあるために、誰かを愛したことは個人的なことではなく、セクシュアリティによる結果だと位置づけられるのですね。

これを再考するためには、規範である異性愛を再定義するなりセクシュアリティによる分類法自体が構築物であるという認識を持つ必要があります。で、それを考えると、こういうことが考えられます。
異性愛を単なる「異性に惹かれる偶然」と位置づけ、同時に同性愛らも「〜〜に惹かれる偶然」として位置づければ、セクシュアリティ概念の区分によるそれ自体の“ありすぎた価値”を落とせることになる。単なる「あり様」を形容する用語となる、と云うこと。
このようなダツコウチク?をすれば、セクシュアリティ概念自体のあり方を再考できると思うのです。そして、セクシュアリティの対峙の中の不均衡が消える、ただの差異と見なされる、と私は勝手に思い込んでます。(ジェンダー論などに詳しい方はこれを否定してくれるとありがたい。)
要は、差異が差異でしかなく、その差異性は序列化されず、個人的な特徴として位置づけられるだろう、と云うこと。ここで、性愛は個人的になるのね。(「ある誰かを愛したことは、私が私と云う個人としてその誰かを愛したということだ」)


こうすれば、(後者のように)異性愛異性愛として肯定することも更に容易になり、また、異性愛としてだけでなく、個人としても自己肯定が図れるようになると思う。それはとてもバランスのいい、公平な性愛の肯定だと思うのですが・・・・どうでしょうか???



あとこれ。↓

同性愛に近づこうとすると異性愛者はどいつもこいつも「同性愛」ていう、私でさえよく分からないイメージに溺れてしまって、ナニヲしたらいいのかわからなくなっていやがるのね。

「どいつもこいつも」は言いすぎでした。すいません。(ただ、過激に言うことで何か反論されたら、一層深い議論が出来るのにな、と云う傲慢な目論見はありました。)


で、どういうことを言いたかっていうと。
異性愛者は規範の象徴ですから、その規範性に迎合的ならば、不可避的に同性愛を恐怖する他なくなると思うのです。なぜなら、異性愛者でしかない、という規範を実践したいとき、必ず自己の「両性愛の可能性」を否定しなければなりません。それは非常に困難なことです。私にも不可能です。
このように、同性愛を前にすると多くのホモフォビックな異性愛者(規範を実践したい異性愛者)は「同性愛を否定することでしか異性愛を固持できない」というジレンマに陥る。というか、このジレンマを持たないといけないことになる。目的自体が不可避的にホモフォビアを持たざるを得ない状況を作っているのね。


しかしこれは所詮独りよがりな妄想でもある。
だって、自己の同性愛の可能性*5を否定することで規範の異性愛という慣行を実践するのだから、規範(異性愛)をただの「他者の否定」に依存した物であると位置づけて見せることになるんだもの。変でしょ?そんなことしなくても、異性愛と云う立場性は否定されないだろうからこれは明らかにおかしい。自己の中の両性愛(この場合同性愛)の可能性を否定しなくても、自己の異性愛は否定されないはず。可能性を認めることと、自分が現在なんであると認識するか・したいかは別ごとのはず。(そもそもセクシュアルアイデンティティーは自己の選択で成り立つべき。)
よって、私は独りよがりな妄想でもあると思う。(まあ、同性愛/異性愛の図式自体が二者択一するより他ない宿命を孕んではいるし、妄想とも言い切れない部分もあるけども。でもそもそもアイデンティティーとは「自分は○○でありたい」という欲望に支えられてる部分があるのだから、「両性愛(両性に惹かれる偶然)の可能性』を受け入れても問題ないはずなんだけど・・・。要は自分が何でありたいか、と云う問題だし。)


これも単純にひとつのホモフォビアのあり方なんだろうな、と思う。
今回、斉藤工氏や監督等のコメントから、このような↑ジレンマが浮かび上がったと思われる。*6まあ、勝手な分析だけど、そういう意識が監督等だけでなく、『両性愛の可能性』を否定したがるホモフォビックな異性愛者の多くにもあると判断します。これがもし無理やりな一般化なら批判して欲しい。(しかし私はこれはもはや制度的な作法だと思うから、一般化でもないと思う。)


で、このようなお作法を実践する上で、表現者としていかがな物か、と云うのが今回の私の主張。


今回前エントリで書いた二つの私の文章を載せたが、どちらでも思う事はこれ。
表現者として異性愛者として*7そんな認識でいいのか?というもの。
同性愛に関心を示すことはどうでもよいとして、そのようなスタンスで、あなたは本当にいいのか?自己をそのように解釈して見せて、上記のような問題性はどうするのか?と思うのです。

そして、同性愛との距離の取り方で、自分達の立場性を何だと思ってるのか!と思いました。こんなスタンスで、他者を理解しようとすると、上記のような問題と絡んで自己の立場性を軽んずることになる。私はこれに抵抗がある!!
一つの性愛を乱暴に固定化して、他者の可能性を不可視化し、そうすることで他者をも無断で固定化する。そのような乱暴なスタンスは、私には納得がいかない。それは一般化すべき価値観ではない。
生殖ありきの性を持ってもいいよ。でもそれはあくまで個人的なことであり、全体に求めていいことではないはず。
そうしたとき、他者の立場を重んじなければならない。つまり、他者を描く上で、その描くことの不可能性を無視せず向き合えベイビー!ということだ。それをしないことには(カテゴリを理解しようとしないことには)、乱暴に他者を抑圧したり、セクシュアリティ概念による混乱を一層深めるだけだと思う。


私今回、異性愛者に対して挑発的で過激な言い方をしましたが、このような言い方をすることで、異性愛者として(?)存在する人達に私なりの疑問を呈したかったのです。
その欲望自体傲慢ではありますが、それが私の目論見でもあったし、正直いつも思う事なのです。
ですので、失礼な言い方をしてしまいました。

しかし、だからどうということはなく、すべての異性愛者をヘテロセクシストに位置づけホモフォビックだと断言する表記はなされるべきではなかったです。すいませんでした。


これにて反省文終了うぅ・・・・!!!一応書き忘れはないと思う・・・。

*1:ゴメン、あんまり引き受けてません。ここでは半分くらい引き受けてると思ってください。←ナニソレ

*2:そもそも生殖を望まないし、そもそも性的接触を一切望まない異性愛の関係も当然あるはずです。なのに、彼は異性愛を生産的と言った。

*3:私自身はそう思ってないけども。宿命視されてる要素がどれにあたるか、を考察したとき、妥当なものが「異性愛」になると思うのです。それだけのこと。本音では、それさえも私には否定の対象です。

*4:そもそも、異性愛者は自己の性愛傾向を肯定しなくても、規範として奨励される存在ですから、肯定する必要がないように思われます。しかし、明確な性愛肯定を前にしたとき、異性愛者は自己表現の一部として「異性に惹かれる偶然」をどのように示せるか?私は、セクシュアリティ概念による分類を許すのであれば、そこそこの肯定をしてみせないとマイナスだと思う。(マイナスになされる状況自体不当だが。)それに、異性愛を生殖に繋がる性愛として見たとき、生殖が出来ないしない関係にある異性愛者は、どのように自己肯定すればよいでしょうか?私は、異性愛も、自己肯定の所作が必要なセクシュアリティだと思います。

*5:つまり『両性愛の可能性』なのだが、何故か多くの同性愛を恐怖する異性愛者はこれを『同性愛の可能性』と見る傾向があると思われ。どういうことかしらん?

*6:注:あくまで彼等のコメントからそれが浮かび上がったように見える、と云うだけで、彼等が実際に『両性愛の可能性』を否定したホモフォビックな異性愛者ではないかもしれません。

*7:監督!ヘテロセクシュアルアイデンティティーでなかったら御免なさい!!でもあんたの抑圧的な言い方ってどうしてもホモフォビックな異性愛者の口ぶりと一緒だと思うのね?!だし、おそらく異性愛者だと思って言います。うふふふふ・・・。だめ?