柳沢たんDEトラバ!

右腕が上がらない。私の腕は故障中。そういうことにしてもいいのかしら?


今回の柳沢発言に対する私のまとめを書く。


とらば先は三個。多いけど、よければお付き合いくださいませ。今度こそ、こいつなに言ってるの?攻撃しちゃえ〜!て思われるようなエントリ書きたいな。(何
今回の件で、結構皆さん私とは論点がずれてらっしゃるのね、と再確認。でも得ダネでは300人のアンケートで8割が辞職しちゃえ〜〜て意見だったらしいよ。


私の意見はこの方とほぼ同様なようです↓
http://blog.goo.ne.jp/shigeto2004/e/c55c5a4f85c935c9f5e2b72f05fb7708
これを読んで欲しい。そうね、後半部分だけでよいと思われます。ここに引用。

さて、今回の柳沢厚労相の発言については、野党勢力がこれを「政争の具」にしているのではないかという批判があるようである。また、柳沢厚労相はすでに謝罪しているのだから、これ以上責任問題を追及しなくてもよいのではという意見もあるみたいだが、それらの意見は今回の発言の問題点を理解していないものであると言わざるを得ない。女性を「産む機械、装置」になぞらえて自論を展開すること自体が女性差別、蔑視に該当するものであり、とても許されることではないのだが、国民を「機械、装置」に例えることも決して看過できない問題なのである。
[…]
本来ならば国民の生命や健康な生活を守るべき厚労相がそのような政策を推進する、あるいは個人の人権や尊厳に配慮することなく国家政策を論じるなど決してあってはならないことであり、とても謝罪するだけでは済まされない話なのである。

というもの。


で、これをお読みいただいてから話を進める。
では2つ目のトラバ先紹介。

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070202/p1

で、結局どうするの?て問題だと思われ。


論争の全体を纏められてるのでトラバさせていただく。

私自身、騒動の問題点は、「謝って済む問題じゃなく」するということだから、今回浮上する一部の人達の感情などどうでもよい。大事なのは、いつでも人権を尊重しなければならない、と云う前提だ。そして、この前提に立ったとき、
「言葉自体が問題系」と「大した問題ではない系」と「批判言説や罷免・辞任要求運動に違和感がある系」
は私としては今回の本質的な論点でないから、人権尊重の立場から問題化された今回の騒動とは直接関係ないことを、(特権的)問題点であるかのように言うのはやめてほしいけれど。(と言っても私は言葉自体の問題を取り扱っていた気もするけど、これの分類とは私は関係ないみたい。)
ただ、確かに問題ではあるんだけどね。なにがって、『辞任要求運動に違和感がある系』が。
私のアンテナにはいってらっしゃる方や、kmizusawaさんなんかこのことを取り上げられてて、実際女性の当事者性をよく表明されていて興味深かった。確かに野党の女性議員の発言も、誰かに対して抑圧的であったし、自己の観念からではなく「子を授かる」ことを政治的にも社会的にも一般して尊いというのは、結局は柳沢大臣の性への搾取と類似だと思う。そのことへの違和感を表明されなかったらそれはそれで問題。でも、あくまでそれは、柳沢たんの進退に関わる論点では全くない。むしろ混同すると邪魔なので個別に議論した方が得策。
そして今回私達国民が第一義的にするべき議論の「ぷらいおりてぃ」は、あくまで人権配慮をした際、大臣への対処はどうあるべきか?ということのはず。逆を言うと、他の論点はちょっとそれとは次元が違うのではないかなと思う。ので、個別に議論すべしすべし!


んで、kmizusawaさんがそれだとは別に思ってないし誤解しないで欲しいけれど、末期だなと思うのは、今回の騒動を政争の具として利用される気がするのでこれ以上騒ぐのは辞めておこう、とか言い出す人。(ゴメンそんな人それほど居るのか知らないけど。)
あのさ、じゃあ政争の具じゃなかったら議論するんですか?しないんですか?そもそも政争の具として利用されるのにウンザリすることと、しなければならないことをするのとは全く関係ないよね。
ウンザリするから人権問題をスルーしちゃうんですか?しないでしょっつーの。
柳沢たんの進退を論ずる上ですごい関係ないので、これ(うんざり)と混同して罷免辞任要求するかどうかを論じないでよねん☆してない?あらそうよかった。
(あとでもこれは私の身勝手な独り言なんですが、辞任要求運動に違和感論ずるほど見識深い人ならば、そういうのにアレルギー反応しちゃうだけでなく、「罷免か何らかの措置は必要だったけれど、それとは関係なく野党のやり方は〜〜だからよくなかった」とかそういう感じでエントリ書いてくれると嬉しい。)


ではここで私のスタンスを表明。
私は「批判すべき点は批判する」のが必要だと思う。(野党が胡散臭いから批判よそうとか言わないで!)

男女共同参画に反してますよー」
「差別撤廃条約に反してますよー」
「個人の人権を侵害してますよー」
と云う風に、批判すべき点はしっかりして、その上で妥当な進退への要求を示さなければならない。
んで、問題点はこれを「謝って済む問題」にしてしまうことそのものだ。これは絶対しないで欲しい。されたら私が困る。
今回、罷免すべきかどうかで論が別れるみたいだけど、それを論ずるなら重要なのは、「謝っても済ませない」ことにある。
済ませない根拠はこれ↓

  1. 国際的に恥。人権意識が低いことの自己申告になる。
  2. 謝って済ませると、後に同様の事が起きた際どう措置を取るべきかの正当性がぼやける。
  3. 一部的にであっても人権が侵害されてもよいと容認することになる。


まず、何が問題であるのかは「人権侵害である」、という点なのを確認取りたい。
1は別に欧米なら即罷免というのに倣うわけではないけれど、国際水準に合わない措置を取る事で、明らかに私達は人権意識において後進国ですよーと表明することになる。だめ。
2は後々同様の事が起きて、その時になって、どう判断するのか?ある時は罷免である時は謝って済むんじゃ一貫していない。つまりそれは、人権が時に踏みにじられても良いよね、人権問題なんてその時々の程度差だよ(−∀−とのたまう事と近しいんじゃないでしょうか?問題なのは、人権侵害に対するあるべき措置、といった論点であり、決して国民の溜飲が下がったかどうかではない。じゃあ溜飲が下がったら人権侵害しても良いのかと云うとそうではない。
3は2と繋がってる。今回なんかやたら女性に失礼かどうかがポイントみたいだけど、もうちょっと視野を広めに取ってもらえばわかるけど、“性の搾取”なんだよねこれ。国家意思による性のコントロールが許されるのかい?そうされることで一番割り食うのは女性と云うよりは女性の中のマイノリティだ。この層の人権が最も侵害されやすいと思われ。んで、別に失礼とかどうとかの問題でないしね。
この侵害されやすい人からすると、勝手に「生殖の頭数に入れられて子を産むことをお願いされる。」こと自体非常に抑圧なのね。そういう人からすれば、直感的に自分への不当な抑圧だとわかる。人権侵害とも思わない鈍感な女性で居られるマジョリティばっかじゃないのよ。(マジョリティにも敏感な人は居るけども。)
この人らからしたら、誤られて済ませられると困るんじゃないかな?確かに、異性愛女性でネイティブな女性であり尚且つ生殖可能な身体であった時、その人からすると謝ってもらいさえすれば自分の不快は取り除けるかもしれない。そういう人からすると、所詮今回の問題は快不快の問題だからね。(恵まれてますねー)
でもマイノリティとしては、今回の国家意思自体抑圧的に働く種類なのよ。それをマジョリティの女が「謝れば良し」にしたとしても、マイノリティがそう思うかどうかは別。もうちょっとマイノリティ視点にたって頂戴よろしくさん。
もしマイノリティである所以の特徴を持ったとして、その所以である特徴自体を、「生殖の頭数として数えられ頑張るようにお願いされる」ことで全否定されればどうか?溜飲が下がる下がらないの問題じゃないと思われ。(ここらへんは私が女でないので当事者ぶって語れないから苦しいけども。)
一部の女が許したって、一部の女が許さないんだったら、結局人権に対する配慮として最も妥当で最良の措置を求めるのが当たり前。そもそも最初からそういう問題系であったはず。


んで、これ結局女性だけの話じゃないしね。今回柳沢は「統計的な話として少子化対策を取るなら」、という文脈で女性を装置呼ばわりしたんだから、それはすなわち女性への搾取と云うよりは、国家による性の搾取なのよね。

人口推計の話をした

つまり、この発言はあくまで、国民を人口増加のリソースとして数値化した上での発言だった。なので、女性という性もひっくるめて国民の性を、国家意思(お願い)で操作する対象として見ていたといえるよね。
そもそも人口推計がどうであろうと、産みたいと思ってる国民が保障されるように、最低限の水準の環境を確保するのが憲法上の義務だろう。根本を履き違えないで柳沢たん。


んで私は男だけども、この発言を容認すれば国家による性の搾取を容認したことになり、自動的に私と云うマイノリティ性も攻撃されるのよね。
私非異性愛者だし、生殖行為は絶対にしたくないし子を望んでも居ないし、そもそも装置扱いされて自己の性を勝手に固定化されるなんて真っ平ゴメス。
そんなことがあれば海外逃亡ー。

国家と国民の距離、と云う問題。


http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070201/p1

なるほろ。なんだかケイジジョウガク的。少し目の前がクリアになる気分でございますわね。
でも私はここで議論したいのはフィクションと現実という対立図式の有用性。


Mr_Rancelotさんは、別にこういう真理があるから女性を機械扱いしたのは妥当な論理的見解だ、などとは仰ってなくって。「ポリティカルにだめ」と評している。私もそう思うのだけれど。

なんというか、世界の構造はみもふたも無いものであって、それをただあるがままに是とするのではなく、「かくあるべし」というフィクションを作り上げることによって、社会を変えてきた。社会には、つねに構造とのずれがあって、構造を浮き彫りにするために用いられる用語は社会的には不穏当なものになることがある。フィクション性が排除されるからだ。

として

現に政治的なフィクションが存在するのだから、ポリティカルな立場にある柳沢氏がそれを無視して発言することは実際的ではないと思うが、少子化担当の大臣としては、むしろフィクション性を廃した視点を持っていること自体は望ましい。

少子化という現実は、政治家の機能のうち、フィクションメーカーとしてよりはむしろ、テクノクラートとしてあたるべき実際的な問題だからである。

とする。
一見妥当だとは思うのよ。


でも、私はこのフィクションと現実的・実際的*1の対立が政治的な論理においても有用か疑問だ。


それはつまり、「かくあるべし」というフィクションを作り上げることによって、社会を変えてきたのに、なぜ政治家がそのフィクション性を廃さなければならないのか。
という点。


少子化テクノクラートとして実際的にあるべき問題とする事はつまり、政治が問答無用に少子化を非とする態度であり、また、生産を国民に要求することに繋がるのではないか?
厚労相のお願いがいかに不当であるかは、マイノリティを見てもらえばわかるはず。(分からないとか言われると困っちゃう。)
私としては、政治家の機能としてあるべきは、むしろフィクション性に基づく国民の最低水準の望まれる環境を整備することだと思う。望みを応える、という図式自体がフィクションだとも思う。
つまり、もし国民が少子化であってもある程度保障された全体的生活水準を民主主義から欲するのであれば(フィクション性)、構造とのズレをこのニーズに応える方向で利用するのが妥当なはず。
つまり、
子孫を産まないと人口が減る→減るなら財源が減る
というズレがあっても、
人口が少なく財源も少ない→が、生産を強要されるべきではない→財源と人口が少ない中で運営できる社会作りを
というかくあるべしと言ったフィクションこそを重要視すべきではないか?(おそらくこれが現在の日本のフィクション足りえると思うのだけれど。)


私の立場としては、生産主義的に15歳から50歳までの者が、生産の装置!みたいな価値観にさらされ、事実国家意思として「生殖を重んじるのが国民のあるべき本来的あり方」と位置づけられたらたまったもんじゃない。生殖は自発的であるべきだし(フィクション)、その半ば(!)偶発的な人口推移の変異を国家がコントロールしても、果たして良いのか?
ここらへんが私としての違和感。
なので、フィクションと現実(みもふたも無い構造)というのは、政治の話ではなく、学問の専門領域の話では無いかと疑問。(いや、本当に分からないんだ。)


そりゃあんた現実的ではないよ、子孫繁栄のため、国家に誘導されるべきだよ、と言われればそれまでだけど。でも私としてはそれに抵抗したいし、その実践が私にとって不当な抑圧になるのならやはり認められない。


これは私のヒステリーなのか。私はそれをどうしても違うといいたいんだ。

*1:テクノクラートの意味が分かりません><この表記だとMr_Rancelotさんの本意でないかも。