よそ様の掲示板に書かれた文章宛にエントリ。

2007-02-16
この記事の反応で、べにすずめさんと云う方が(実はこちらのブログでも贔屓になさってくださる読者様なのだけれど)いしゆり掲示板の中でご意見をお書きになられてるんだ。そこで私の名前が出てきたわけだけども、実は前々から言いたかったことに触れられると思ったのでここでエントリを書かせてもらいます。(なんかこの程度で引用させてもらうとストーカーみたいで恐縮なんだけど。・・・皆様、申し訳ありません。)

「自分は同性愛者ではない」 投稿者:べにすずめ 投稿日: 2月16日(金)16時58分44秒
「自分は異性愛者です」
そういえばいいんですよねえ! なんで「同性愛者でない」ことを必死になって否定するのか。そんなことしたら「じゃああんたバイでしょ」ってつっこみ成り立ちませんか?(笑いたかったら笑っていいし、不快だと思ったら不快だと書いてください、2ちゃんねる行くと、日本の芸能界にはバイが多い、という憶測が成り立つのですが)。なんでそんな簡単なことに気づかないのか。これも性自認性的嗜好とあとなんだっけ? がワンセットになっているのが当たり前になっている、ヘテロせくシュアリズムがまかり通っていることの弊害なんでしょうね。でもって「異性愛者です」ってはっきり言ってもいわゆる「多数派」は「ふーん」て態度なのかも。この発言が衝撃的に移るのって……うーむ。
わたし個人のことを言わせていただければ、決定的なときがくるまで自分を決めないようにしています(最近とあるきっかけで、自分の「女の子が好き」の質について考えてもいました)。だから「異性愛者です」とはいえません。本当はそこらへんはっきりした方がいいのでしょうが(nodadaさまも言って欲しいようなことおっしゃってたような気がします。すみませんここでお名前出して)、自分に断を下すには経験不足なんですまだ(どういうことか勘の鋭い方はこれでおわかりになったかもしれませんね)。
でもこういう風に自己主張することはすばらしいアイデア(?)だから、多くの方が今日のみやきちさんの日記を見ていたらいいなあ、と思いました。
みんながみんなバイセクシャルならある意味理想的なんでしょうけど(その中にもモノガミーの人とそうでない人がいて、すべての人類の中から相手を選べる)。
http://www.interq.or.jp/sun/kayoco/

(黒字部分引用者が加工。)


以前私は「異性愛者は自分達の事を異性愛者と名乗れ!」に近いことを言いました*1。が、今は私ストレート/クィアの構図を受け入れるつもりです。*2ですので、異性愛者というポストにある者が、「自分達は異性愛者だ!」と言わないことを、今はそれほど批判しません(でもおかしいとは思ってるし、以前書いた内容は、あくまで私の本音だ。)。
というのも、私の求めるような実益がなさそうだと思うからです。現代社会では、「確かに」ストレートと云う立場性があります*3(たとえそれが私にとって不当なあり方だとしてもね。)。それを批判するために有効なのは、むしろ異性愛者があくまで「自分達は無標であり、規範そのものだ」と無自覚に思い込んでることをクィアーに「批評」することだと思ってます。そりゃ勿論、異性愛者は「異性愛者」なんだけど、事実この社会の現状ではストレートとして位置してます。それはでも、社会そのものの全体性なのですよね。ならば、社会と言う私たちを覆うものが、ストレート/クィアの構図を生んでるならその全体性をまずあるがままに見据え、それをダツコウチクしていく方が得策だと思うのです。


まずクィアってLGBTとは異なる性質を持ちますよね。LGBTのよな、個のアイデンティティーの発話があまりなされないと思う。要するにクィアってひとつの「逸脱してますよー」の意思表明とその行為なんですよ。パフォーマティブとでも言うのだろうか。だからアイデンティティーではない。*4
その意味を考えて、今はクィア/ストレートの構図を受け入れようと思います。んで、実はストレート(ま、要するにヘテロ)も、社会のひとつのパラダイムであり、クィア同様パラドックス(逆説)ですよね。つまりストレートもクィアもこの社会の現状を読ませるひとつの「文章」なんだと思う。社会の中の存在の仕方(有り様)を可視化する意識を、クィア/ストレートという構図が生み出している。それゆえに、お互いの逆説が成り立つわけよ。*5
簡単に言うと、「僕はこんな風に逸脱してる変態だぜ!?」と表明することで逆説的に、「ストレート」なる位置に立つ存在の全体性を逆照射する。(そしてその行為の中にあらゆる本質の固定化を拒む姿勢を実践するのがクィアだと思う。)逆照射されない限り、「○○至上主義(←とすら認識されないけど)は自明のことであり、唯一的本質なのだ」と語られますよね。そして実際そういう向きがヘテロセクシズムの中にある。ではそうしたとき、どうすればよいか。異を唱えればよい。けれどそこで「自分はゲイだ」と言って見せても、“マイノリティ/マジョリティ”の構図を見出すだけでそのことによりヘテロセクシズムは温存されちゃう。
なので、私としては、逸脱の様をいかに効果的に見せて、ヘテロセクシズムを嗤うか。コレこそが重要なのかと思う。それは、むしろ同性愛者を笑いものにすることもいとわない作業です。だって、「同性愛」というあり方は、クィアな視線からすると異性愛/同性愛という固定的な構図であり、むしろ批評対象だもの。(て勝手に素人が言うのも気が引けるけどね。)


それでね。「自分はゲイなのだ」と認識して表明するのではなく、自己のゲイ性を越えた形でいかにストレートから見て逸脱してるかを表明した方が、私の求める実益に適ってると思うのよ。
ストレートとはこんなに違うんだよ!ストレートと違ってこぉんな事も出来ちゃう!ほらほらあんた等の好きなホモっぽさだよ〜と見せ付けるほうに力入れたほうがよさそうな気がするのね。
実はそうする事で、ステレオタイプの再生産を生むデメリットをメリットに変換できるかもしれないと感じる。だって、私がホモっぽさを演出する中で、その逸脱行為がストレートの実体を逆照射して浮かび上がらせられると思うから。*6
説明のため、ものっそい単純に言うと。
私が「女性のように*7男性を愛する」ことで、「女性だけが男性を愛する」というステレオな常識を超えた実践を見せ付けることになるわけだ。そうすると、「あれ?女性だけが男性を愛するわけではなくって、社会的に男性のはずのノダダでも男性を愛するんじゃん。どうして?おかしいよ。僕らは(社会のメインストリームは)絶対的に、女性が男性を愛するはずなのに。」と、ストレートの立場性に対してある程度「かく乱」が出来るわけ。そうしたらば、ストレートの中の、「男性を愛するのは女性だけ」という実は矛盾してる有り様を、「矛盾」として逆照射出来る事になるのね?
更に良い逆照射の例は・・・たとえば、男性性が(女性に対する)異性愛指向と対応してるかのように扱われてること。どういうことかって言うと、ヘテロ男性は、自身の男性性を、異性愛とごっちゃにしてるよね?たとえば、「女を守るのが男らしさだ!だから女を愛するのは男の務めであり、男らしさの極意だ!」というのが端的な(極端な)例。
でもこれを同性愛者がかく乱します。だって、自身の男性性(や女性性)を同性に向けちゃうから。そもそも男性性とか女性性ってのは私らが思ってるより広い解釈が出来るのね。実は広範囲にその男性性だのが表出されるわけ。*8そうした中、男性性と云うものが同性愛の為に活用されだすとどうなるか?そう、異性愛と男性性が対になっていた根拠が薄弱になり、異性愛の中の男性性はダツコウチクされたり再定義されたりと、「かく乱」させられるわけ。「なんで男が女を愛すためだった男性性が、同性愛者にもこんな風に実践されてるんだ??!・・・じゃあ結局、男性性って一体なんだったの??!」てなもん。異性愛者だけだと「男性性=異性愛のための道具」ていう暗黙の諒解は可視化されなかっただろうケド、(或いは相対化されなかったろうケド)同性愛者の立場性が男性性の全体を明るみにしてくれる。このように、暗黙の諒解だった規範が、(たとえば)同性愛者などがかく乱することで暗黙の諒解ではなくなり逆照射されるのね。


で、ストレートは、有無も言わさず世界の中心として位置づけられてる。←ポイント。その中で、暗黙の諒解である全体の意識であるはずの規範を、逸脱行為により「でも、それ矛盾してるよ?君たちが真実だと思ってた真実は、実は真実ではなく固定化された虚構だったのでは〜?」と批評できる・・・。
そう、クィアな姿勢って、いかに固定化された真実を相対化やダツコウチクにより虚構だと暴くか、という壮大な遂行型の行為なのね。
ですから、私は批評するためには必要不可欠な「ストレート/クィア」の構図を受け入れる気になったのです。
と言っても、今ではまだこのブログでその実践が出来ておりませんが!!


ちゅーことですから、異性愛者が異性愛者でなく、あくまで自分達を「ストレート」としか位置づけないありようを否定しないのです。
それをあえて観察するための装置だと認識することで、やっとこさアイデンティティーと云う名の虚構を暴くことが出来るし、(固定化するような)社会全体のありようを批判できる。
結論。
私は同性愛/異性愛の二項対立を(観察対象として「なかったこと」にはしませんが)本来的には望みません。が、ストレート/クィアの構図は、社会の現状を読み解き、更に解きほぐすための視座なので、受け入れます。
その上で、異性愛者がストレートであること自体を拒否するスタンスではありません。だってそのありよう自体がこの社会の現状を批判する意味と理由になるもの。要はそれを批評するのが目的だから。そして本質への定義の固定化から逃れるのが私の求めるところ。

蛇足

べにすずめさんは、役者が「自分は同性愛者ではない」と言うのに必死なのを、芸能人にはバイが多い、という噂から「じゃああんたバイでしょ」とつっこめるだろうと言う。
そのことを、「性的指向と性別がワンセットになってる、というヘテロセクシズムの弊害だ」、と仰られてる。
確かに「男(女)は女(男)を愛するものだ!*9」という「常識」があるために、性的指向性自認の混乱が生まれるわけだけども。それもヘテロセクシズムの問題点。


でも、私としては今回のそれは、あくまで役者個人の心理面に問題の焦点があるんだと思う。
先ほど言いましたようにストレートという立場性は逆説的なのね。それもあからさまな程に。
そうすると、役者の心理としては、「“同性愛者”ではない」ことだけを表明すれば、自動的にストレートの位置につけるわけだ。つまり、同性愛者でなければ即ち正常。ペドフィリアでなければ即ち正常etc。という(滑稽な)暗黙の諒解がそこにあるわけ。(勿論、その構図自体そもそも論理的に成り立たない論法なんだけどね?)
こんな現状の中でなぜ役者が異性愛者を名乗らないで自己の同性愛の否定に走るのかは、あくまで自己の地位が危ぶまれる、という危機意識がそこにあるからなわけで。
この危機からの脱出に関して言えば、「異性愛者かどうか」、が焦点ではなく、むしろ「同性愛者でないかどうか」が焦点になるわけだ。だって、現代社会には上記のような逆説的な構図があるわけだからね。だから、役者が危機から逃れるのには、まず「同性愛者ではない」という表明こそがプライオリティになる。


これは結局「ヘテロセクシズムの弊害」と言えるわけだけども、その弊害の中身が(べにすずめさんが言う「性自認性的指向のワンセット」という弊害とは)異なるんだと思う。
ヘテロセクシズムはセクシズムであるからこそ様々な混乱をきたす。そこを分離的に見つめることも重要なのだと思う。ですから私としては、
役者がなぜ「異性愛者だ!」と言わず「同性愛者ではない」と云うかという謎は、クィア/ストレートと云う構図の逆説による、(脅迫的な)ヘテロセクシズムこそが原因だ!(多分!)
と言わせてもらいます。
↑こう言うと結構説明がいくと思うし、整理つくと思うんだけど。どう?


あと、バイセクシュアルに関してなんだけど。
まずね、バイセクシュアルってアイデンティティーは基本確立されづらいアイデンティティーなんだと思う。だって、現代社会はあくまで同性愛/異性愛の構図を主軸にしてる上でのヘテロセクシズムで成り立ってるからさ。
バイセクシュアリティみたいに同性愛でもなく異性愛でもない立場性は、(上記のよな社会においては)そもそも主軸からズレてるがために、表出されづらいのよ、きっと。
だって、バイセクシュアリティーとは同性愛者ではない、異性愛者ではない、という文脈でしか(政治的には)存在しないじゃない?(まあ、単一的アイデンティティーとして成り立つ可能性はあるのかもしれんけども。そこは議論の余地アリだけどもよ。)
ほら?やってみたらわかると思うけど、こんな社会においてバイセクシュアルって立場性を同性愛と異性愛という文脈なしで説明するのって限りなく困難でしょ?
だけど、だからこそ、バイセクシュアリティーというのは、社会の規範性を形骸化させられる要素を併せ持つと思うのよ。どういう部分でかって言うと、モノセクシュアリティへの対抗のことだ。世の中は、一対一の対の関係だけで成り立つものではない。そればかりが真実ではない!という発話をするんだと思う。ですので、同性愛/異性愛の二項対立図式からではない形でのヘテロセクシズムへのアプローチ(異論)がなされるのね。そう言う意味では、ほんの一部分としては(とある立場性の視点からすれば)理想的に見えるかもしれない*10
だけれど、ヘテロセクシズムの問題点は、なにもバイセクシュアリティに対する「不可視化とそれに伴う強制異性愛主義*11」だけでないから、仮に「皆がバイセクシュアル」だとしても問題点は残ると思うな。・・・いや、だってね?私から言わせればそもそもバイセクシュアルの可能性なんて(バイセクシュアリティーの原義上)誰だって持ってるんだよ*12。でもそれを不可視化させてるのが現代社会だからさ。仮に皆がバイセクシュアルだったとしても、それは最初から(強制異性愛主義社会においては)加味さえされないと思うんだ。て言うか実際されてないし。
なので、仮に皆がバイセクシュアルという指向性を潜在的に有してたとしても、大して意味はないしそれほど理想的でもなんでもない(むしろ弊害が多い)ってのが事実だと思うなー。


ううん、それについてべにすずめさんを批判してるわけでなくって、単純にそれは問題の焦点ではないのでは?と意見を述べさせてもらってるわけです。
もし不快な気持ちにさせてたら申し訳ありません。


長くなりました。それではトラバや引用などありがとうですた。

*1:厳密に言うなら、ノーマルと名乗ることはコミュニケーションする上で危険だし有害だと述べたのですが。それと、筋が通ってないことに対しても憤りがあって、それは勿論今も変わらないんだけど。

*2:そして、異性愛者が異性愛者だと名乗ることが、あまり政治的に有効でない事を悟りました。以下参照。

*3:だからこそ「異性愛者です」ってはっきり言ってもいわゆる「多数派」は「ふーん」としか言わないわけです。

*4:なんていうのかな。「クィアと云う私」ではなく、「クィアな私」という、名前ではなく動的な様を言うのだと思う。「今日はクィアなドラマがやってて最高だったよー!」とか「クィアな視線で現代社会を読み解く!」とかね。

*5:クィアはストレートの存在により表出され、ストレートもクィアの存在によって初めてその立場性が明らかとなる。

*6:やり方次第だけどね。あくまでかく乱がキーだからね。

*7:コレを厳格に言うなら「ヘテロ女性のように」、て言うべきだけど、そこはあえてステレオタイプに迎合的になるのが乙。

*8:メンドイから説明はパス。これについては個々で男性性女性性に関してイマジネーションして見てください。

*9:あー馬鹿馬鹿しい思い込みw

*10:逆を言えば、ある立場性からすれば、抑圧になる。

*11:しかもモノガミー。

*12:ごめん、言いすぎだったら指摘お願い。