私の中のホモフォビア。


丁度良い物があったのでこれもついでに載せておく。
http://lgbt-japan.com/gayryman28.php

ここからは、少し不穏なので、繊細な人は読まないでね☆それと、同性愛に関して混乱と矛盾してる少年の心境を書いたものでもあるから、これを読んで同性愛の子どもってこうなんだなぁ、とか、そうか同性愛者って普段そう思ってるんだ、とか思わないでね。書いてること矛盾だらけだからw
それをあえて書きます。出来れば反面教師にして欲しい。なんておこがましいか。




学童だった頃、というかつい最近まで私は、同性愛者との距離を置いていた。いや、もっとはっきり言って、線引きをしていた。
それは勿論、自分の中の「え?でも同性愛者って自称するには納得できない部分もあるんだけど?」という心持もあったのだと思う。でも同時に単純なホモフォビアでもあったと思う。
でも、この二つを持ってしても、私の中の「同性愛者と線引きを図る」行為は説明が出来ない気がする。
いや、そもそもホモフォビアホモフォビアだ。どういう経緯があろうと、同性愛を嫌悪していれば、ホモフォビアに変わりはなく、そこに別などないだろう。
だけど、それでもわたしは自分のした線引き行為に、「ホモフォビア」だけで説明がつくかどうか疑問。
私はちょいと昔まで何を思ってたろう。
残念ながらよく思い出せない。学童時代(特に高校時代)の思い出の多くは、一年も待たずにほとんど消えてしまった。意識的にそうしたからだ。(思い出したくないようなトラウマが学童時代にあったというわけではないけどね。)


でも、今でも思考形態は似たり寄ったりだから分かるんだ。あの頃私は、世界で自分だけがひとりのように思ってた。ううん、思ってた、というよりは、そう思わなければならなかった。



歌川氏はどうやって

いまは「同性愛者だって異性愛者だって、あたりまえにこの世に生まれて、あたりまえに人を好きになって、あたりまえに生きていく自然な存在なのだ」と確信をもって言っていますが、当時は自分のことを異常者としか思えなかった。

*1という認識から

自分のことは「欠陥品」と言われようが「ゴミ」と言われようが、言われたら言われたで「そうかもしれないなぁ」なんて思ってしまう根性ナシのワタクシでも、大事な仲間を侮辱されたら我慢できません。「そんなふうに人のことを見下すオマエこそ、欠陥品だ!ゴミだ!」と、雄叫びのひとつでもあげたくなってきます。そんな心の変化から、「ゲイでなにが悪い」とツラの皮も千枚バリで言える自分になりました。

に心持を変えていけたのか。


思えばあの頃は、自分は何者でもなく「“自分だから”寂寥感と孤独に包まれる立場にあるんだ」と思い込む日々だったなぁ。*2多分そう思ってたはず。(記憶がないので朧だけどw)
もっと率直に言うと、自分だけがこういう立場である、と思う事で、誰も自分のように孤独になってる人は居ないはず!自分以外の誰もが幸せになれるはず!*3と思ってたんじゃなかったかな。(そもそも私は幸せなんかじゃ満たされない気質だったし、幸せを求める気質自体少なかっただろうケド。)


どこまでいっても自分は自分。今だってそう思ってる。でも、(多分)今と違うところは、自分と云う立場にある人は誰一人とていない、と妄想炸裂していたことだ。
私は現在「ゲイ」でアイデンティファイしていないけど、自分の立場性は確かに「同性愛者」のそれだと思う。(勿論それだけではなく、他の立場性もあるけどね?)
でも、あの頃では「同性愛者はいない」と思い込むようなくらい馬鹿馬鹿しいことに、「自分のような立場にある人は他に誰もいない」と思い込むんだわ。
自分と同じように、日常の中の「ホモネタ」や「同性愛否定」だのに憔悴する「同性愛者」をリアルにイメージできなかった*4。こんなことに苦しむのは自分だけ。きっと自分だけが苦しいんだ。そう思う事で私は同性愛者と線引きをしていたんだ。(こんなこと完璧に思ってたわけじゃない。でもそう思う気持ちが、自分の中に矛盾と同時に存在していた。)


私は、自尊心が高いんだと思ってた。でも、多分違う。自尊心自体よく分かってないと思う。ナニソレ?って感じね。で、結局私が強く抱いてたのは、自分を守ってみせる! て気持ちと、 制度的な暴力差別に対する憤り。コレが私の支柱だったんだと思う。


そして、私はそんな性格だからこそ、自分の立場を誰一人とて同じものではない!と思ったんだと思う。
そう思う事で、私は自分を支える気概を持てた。
自分だけこんな立場なんだから、自分だけで自分を守らないと!て思えたんだ。
そうして私は、孤独な自分をイメージして、誰に対しても「外」の奴等だと意識するようになる。世界には私と私の敵だけが居る。そんな感じだったのかもしれない。*5

自分だけなら、どんな姿でも耐えられる。自分だけが苦しいのなら、私はその孤独と戦う。そんな独りよがりな自己陶酔をしていた。孤独なら、戦えると思ったんだ。なりふり構わず。
でも、実際はそうじゃない。自分と同じ立場にいたものは、学校内にもいただろうし。
けど、その事実を受け入れる気持ちにはなれなかった。
だって、私以外にも自分のような人が居ると思うと、立って居られないんだもの!自分だけなら、なんとか戦えると思うけど、他にも同様な人が居るのなら、私はその人まで守らなきゃいけなくなる!そんなの無理!!
そんな風に思って、自分しかいない、と思うことにした。
孤独は私のアドレナリンだった。孤独なら、傷つけられても立ち直れる。立ち直って殴り返してやる!世界中を敵に回しても!
・・・でも、もし自分以外にも自分と同じ人が居たら、どうしよう?とてもとても守ることなんかできやしない。でも、見捨てれば、私自身の否定にも繋がる。だから、守らなきゃいけない。でも、自分のようにズタボロの子がいるなんて想像するだけで惨めだ。いやだ。無理だ。
自分だけなら、傷つきながらも、誇り高く立って居られる。けど、もし
「お前と同じホモだぜ!ホモ同士仲良くしてろ!」
とでも言われたら、私はどうやって戦えばよいだろう?とてもじゃないけど、あの頃の私にはそんなの無理だった。では、同じ境遇の者と痛みを分かち合おうか?いやだ。そんな卑屈な姿、自分が許せない*6。私は負けてはならないんだ。不当な抑圧をする敵に負けてはならない。負けたら終わり。すべて終わり。それだけは我慢ならなかった。*7


だから私は、同性愛者と線引きをするより他なかった。自分だけが敵だらけで、自分だけが自分を守ってあげられる。そう思う事で、あの時の私は立っていられた。
今は違う。
こんな不当な権利格差があるのか!ダメじゃん!誰一人も不当な抑圧を受けてはならない!と人権問題としての認識が出来た。
あの頃はその余裕がなかったんだ。そんな権利がどうとか大きいこと、考えられなかったんだなぁ。あの頃の私にとって、同性愛差別なんて我がことでしかなかった。(←事実と矛盾してるのに、どこかでそう思い込む。)
我がこと。そう矮小化することで、「孤独でも立っていられる自分」に酔えた。ふふん!と他人をそしるように立っていられた。


あの頃の私と、今の私は違うかな?
確かに私は単純に「ゲイ」でアイデンティファイできないから、ゲイ達と居ても、同性愛者と居ても多少のズレはある。でも、そうではなく。自分が孤立してると思い込むことで立っていられる様な心持をいまだ持っては居まいか?
それでは結局何も言えないんだ。
学童時代そうやって過ごした事でわかったことがある。
「自分しかいない。」
そう思う事で、多くの道標を見失うことになるんだ。自分の現実が、どこかの誰かも味わってる。その事実を見ないことには先達から学ぶことは出来なかった。ネットワークも結べない。
そんな自分を笑うなら笑えとしか思えなかった私は、今どうやって立っているだろうか?誰の嘆きにも気にかけず、自分だけだなんだと思う事で周囲の環境自体(偏見等)を変える努力をしない。(今も大してしてない。いや、全然していない。)
あの頃私は、同じ境遇の者を誇れなければならなかったのかもしれない。

ゲイである自分の気持ちをより深く理解してくれて「ひとりじゃないんだ」と思わせてくれるのは、やはりゲイの仲間なんではないのかなぁと歌川は思うワケなのであります。ゲイの中で楽しくやっている自分がいるからこそ、ノンケにも優しくなれる。そんな気がする歌川なのであります。

私は偽物の「孤独」と引き換えに、何を失ったろう?あの頃居たのは、妄想の中でしか自分を支えられなかった気弱な少年唯一人だ。
今はどうだろう?

*1:ところで、あたりまえってなんでしょうね。

*2:それ自体矛盾してる。だって私の孤独とかは、同性愛差別・嫌悪だったのだから、私以外の人にも当然向けられていたのよ。だからこそ私も苦しかった。・・・ていうか、でも今なら同性愛者でも肯定的に自己を見られるのだろうケド。私はそれをしなかったんだな。

*3:同性愛者だってなんだって幸せになれる人はなれるんだよ!

*4:まあ、感受性は人それぞれですから、どういう受け止め方をするかは一概に言えないので注意。

*5:でも、私が孤独だったときなんかなかったはずだ。だって、私はいつも周囲の人々に守られ支えられていたし今もそう。そういう意味では、私は孤独ではなかった。

*6:ホモフォビア

*7:でも実際は何とも闘ってはいなかったんだ。