欲望問題A面

はい、では先日の続きです。わたくし、ジェンダーについては、ほんの僅かながら興味があるのでダラダラ喋ってしゃちほこばってみたい。

欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない

欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない

私が今回レスしたいのは、第二章の部分。ジェンダーフリージェンダーレスについての部分だす・・・。これは、きっと他の論者がチキンと述べられるのを待ったほうが良いようにも思うし、素人がしゃしゃり出ても良い結果はないだろうけれど、率直な意見を自ブログで吐き垂らさせて頂きますので何卒よしなににゃんにゃん。

たたんでみゆ。



今回この本では、ジェンダーについて構築主義的視点から述べられてあるのだけれど、伏見氏はその上でジェンダーフリージェンダーレスとをはっきり分けることが困難だというんだ。


では、まず第一に「ジェンダー」について考えませう。

「じぇんだ〜〜〜、解釈!!」について。

欲望問題でも引用してある部分を抜粋。

上野 ……私流に言い換えると、ジェンダーというのが、あくまで権力関係の用語だということなんですね。[…]決定的なステップを踏んでていったポスト構造主義ジェンダー論の中で、ジェンダーが項ではなくて差異である、しかもその差異は、非対称な権力関係であるということが明晰に示されていきます。
竹村 そうなるとこの場合、厳密に言えば「差異」(defferences)という言葉は適切ではありませんね。差異はむしろわたしたちが認め、追求すべきもので、差異を権力によって階層化する「差別」(discrimination)が問題なのです。
[…]
(『ラディカルに語れば…』2001)

で、その後の会話でセクシュアリティジェンダーの関係を述べ、セクシュアリティジェンダーの非対称に拠って汚染されてるという議論を繰り広げるわけだがそれはまた違う話。


それともうひとつ。

ジェンダーは、もっとも簡潔に「性別に関わる差別と権力関係」と定義することができる。したがって「ジェンダー・フリー」という観念は、「性別に関わる差別と権力関係」による、「社会的、身体的、精神的束縛から自由になること」という意味に理解される。
[…]

(「上野千鶴子東大教授の国分寺市「人権に関する講座」講師の拒否について、これを「言論・思想・学問の自由」への重大な侵害として抗議する」2006年1月)

で、性差否定といわれる思想とは違うーと長たらしく書かれてるわけだけども、それも別の話。


そして、もう一つ紹介。これが、先のジェンダー解釈とは違うと思うものなんだが。皆様はどちらを支持するかな・・・。

江原 「ジェンダー」をどういうふうに教えるべきか、整理すべきかと云うのは、研究者の間でも議論が分かれるところ。私自身はこの数年一貫して、「性や性別に関連する社会的文化的に構築された知識・意識」と言ってます。

というわけで、先の二つの言い方とは何か違います。というのは、先の二つの解釈だとジェンダーという語自体が価値判断されたものの中の用語だとされてしまうこと。(と思う。)ジェンダーそのものが、権力や差別と云う観念と結びついたものとしての捉え方だ。


しかし私は、あくまで分析概念とした上でジェンダーを見るなら、やはり江原由美子氏の言うような中立的っぽい解釈の方が好ましいように思う。(私は。)*1

で、ここでついでだから江原氏と伏見氏の続きの談話も引用。(構築主義からのジェンダー解釈。)

江原[…]私は、性別についての固定観念を前提とした社会制度を解体しろと言ってるんですね。それに性別を解体するってどういう意味なのかよくわからないところがある(笑)。
伏見 性別があるからこそ、その差異が差別を生み出しているということではない?
江原 私はそういうことは言ってないです。
伏見 ジェンダーは作られたからいかん、と云う議論は?
江原 社会構築主義を、「社会的に構築されたものはすべて嘘」という主張だと考えるのは間違っている。それだと、すべて嘘、となってしまう。構築されているから悪いとかいうことではない。
(『現代性教育研究月報』2005年5月号)

構築主義から見たジェンダー解釈とは、このように性差というものの本質がない、と主張してるものではないということだね。
で、この社会で存在する名称を与えられた認識・対象は、どれも社会的に構築されたものであるとされても、そこに直ちに悪か善かと云う価値判断はつかない。*2(だから、ジェンダーを差別だとかに結ぶのは、私としては「?」と思う。言葉の意味が曖昧になるし、ジェンダーが権力関係によってどのような機能を働くか?と云う分析の存在意義も曖昧になりそうで私的に嫌。)
というわけで、私は今回こんなような↑意味でジェンダーについて喋りちらかします。ので、留意請う。
はい、「ジェンダー」についておしまい。

ジェンダーフリーと云う言葉の意義と、「性差否定」は同じか?

では、本題。
伏見氏は構築主義の視点から、『バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』を引用してこう言ってみせる。

 ジェンダーフリーをスローガンとして掲げている人は、ジェンダーレス(性差否定)を目指してるのではなく、性別によって何かしらの不当な制限や差別をされることなく、多様な個性を選択、発揮できる状態を目指している。(『バックラッシュ!』2006)


ぼくは、この、性別に不当な差別なしに生きられる社会を目指す、という考え方にまったくもって賛成、共感するところであります。けれど、よく考えてみますと、自分自身、「ジェンダーフリー」を性差否定とはっきり分けられません。

と述べるわけだ。
*3
彼が言うには、

厳密に言えば、性別は身体によって成立しているというよりは、社会の規範によって区分されている、つまりジェンダーと言うことになる。ジェンダーによってセックスは作られている、というのはこういう見方で、これは言語や認識の水準で考えれば間違っていません。性同一性障害の人たちの戸籍変更が認められたことなども、まさに性別がジェンダーであることの証左です。とすると、ジェンダーレスとジェンダーフリーの境界は最初から設定されているわけではなくて、どこかのレベルで引くべきものだということになります。

ということで、性別カテゴリが認識レベルでは規範性を帯びており、どこからどこまでが性別区分の不合理な扱いかは、線引きが必要な事柄だというのね。よって、ジェンダーレスという方向性とジェンダーフリーという方向性が、性別カテゴリに疑問を投げかけるとき、それらはどの「ジェンダーの解消すべき不合理」を指してるのか不明瞭であり、そのためにフリーとレスは(私たちが性の本質に直接触れられない限りは)分けがたい境界を持ちうる、と云うことなのだ。…多分←オイ!
・・・・・意味分かる?分からないよねぇ?私見で申し訳ないけども、私なりの解釈を召し上がって欲しい。(嫌なら後日トイレで吐き出して欲しい。)


あのね、構築主義から見れば本質自体が存在していてもそこに直接触れられないのが、私たち社会的存在の宿命?だと思うのね。そうしたとき、性別という区分自体も、分節化したジェンダーだといえるわけ。たとえば、インターセックス性同一性障害の人らを見るに、外見は典型的男性でも性染色体は女性とか、遺伝子レベルも性腺も何も典型的男性でも、法的に女性になれたり女性としてパスしたりする。そうすると、性別ジェンダー自体がジェンダー表現や生物学的性とかの様々なレベルに分かれてしまい、性別と云うカテゴリ自体不明瞭な境界の中で成り立ってるといえる。で、そういう分節された中で、どの性(ジェンダー)を否定するのか?という問いは非常に難問なのね。(で、それがそもそも話が別次元では?とか非常に混乱を招くからやめたら?とか思うのです。)


しかし、バックラッシュ本ではこうも記述されてある。

・・・「いろいろあってもいいだろう」とはいっても「画一的にいこう」とはいってないことだ。
[…]
ジェンダーフリーとはそもそも、[…]特定のあり方が人びとに制度的に押し付けられることを批判し、性別によって制限されることなく、人それぞれの多様な生き方が尊重されるべきだとする立場やスローガンのこと。[…]それまで意識されなかった選択肢を意識し、「伝統的」ライフスタイルをただ単に惰性で享受するのではなく、主体的に選び直す機会を得ることは、そのひとの自由度を高めるといえるだろう。

というわけだが、私がここで注目したいのは「主体的」という語だす。


主体的に、というのはつまり、自分が選択さえできずにただ与えられてるものを規範的(押し付け的)に持つのではなく、選択肢の中の一つとして自らが持つということだけれど。そういったものをスローガンを立てることで可能性を広めることと、性差否定した社会を希求することとは、本当に同一のものだろうか?
伏見氏は、一部のフェミやジェンフリ論者を挙げて中途半端だしイミフと言って誤解を生むから批判されるんだよーて指摘してるけども。(え?そこまで言ってない?)
確かにそれは意義ある指摘かもだけど、制度的扱いからの自由をジェンダーの不明瞭からレスと区別できないって言うのは・・・なんだかなぁ。疑問だわ。


そもそも、ジェンダーレスとジェンダーフリーと云う語は、(文脈にもよるんだろうが)バックラッシュの最中では、別の意味を指すように使われた経緯があるって聞いたよ。バックラッシャーらに性差否定だと批判されたから「そうじゃない」というために分けたんでしょ?実際この本でも、そのようなフェミの言葉を引用しているじゃないさ。
そうした中で、「ジェンダーレスとジェンダーフリーとが構築主義的視点から見ると区分がはっきりしない」などと云うのは、議論を混乱させる発言となるのではないかな?
・・・大事なのは、言葉の内実ではなく、言葉の意義とか意味とかじゃないのか・・・?


様々なジェンダーフリーについての研究の内に、構築主義から見ればレスと区別がつきづらいという視点があってもよいだろうけれど、何もその様々な視点をごっちゃにして取り扱わなくてもいいと思う。それも一つの視点にしか過ぎないのではないか。

それは、ジェンダーフリージェンダーレスに限らないんじゃね?


だって、そうやって構築主義からなんでも突き詰めていけば、どんな似たような言説でもいつかは引っ付いちゃうのではないか・・・?
それは別にジェンダーフリージェンダーレスに限ったことじゃない。他の用語だって同じようなことがいえるんじゃないのか?!と思うわけ。


でも、そんなこと言い出してたら、もはや色んな議論が無意味になってしまうのではないか?議論するためには、ある程度定義を押さえておいて、「別の意味で使い分ける」という議論するための区別をチキンと理解し合って別個に使用しないといけないのではないかなぁ?


とするなら、わざわざ(議論の中で文脈を読みつつ解釈しなければならないような類である)ジェンダーフリージェンダーレスとを「構築主義から言えば」云々で「はっきり分けられない」などと云うのは、議論の筋を無視した解釈でしかないのでは?と疑問に思う。
一体そのように指摘して何の意義があるというのか?と。


仮に、ジェンダーフリーの意義が、多様なライフスタイルを実現させたい欲望であるなら、なぜジェンダーレスという画一的な欲望とを(構築されたものに最初から不合理・合理が設定されてないからと言って)同列に置ける?そんな事を言い出したら、もはやどんなスローガンも「五十歩百歩」と評されることになるのではないか。
私はそこらへんがすごいモヤモヤして疑問だ・・・・。誰か!答えて!

本音。アンネ。ネンネ。ペンネ。単なる愚痴。


私は、本音としてはジェンダーレスの社会を望みたいが、それが滑稽なまでにユートピア思想なのは分かってる。でも、だから主体的に選びなおすという機会の自由度が欲しいと思うのね。そうすることで、私の中のわだかまりも消えると思うし、ジェンダーを欲望したいもうひとりの自分や、他のそういう欲望の持ち主達とも共存できると思うから。
(別段ジェンダーフリーに期待を持っていない私だからどうと云うことはないのだけれど、)だから、そのように「自由な選択の環境整備」を狙うスローガンを、主体も何も問うてはいない性差否定の欲望と同一にされるのは納得いかない。


もっともっと本音を言うならば、自由に性別を選択できるし選択さえしなくても良い社会を望みたい。その中でキーとなるのは、主体性だろうと思うのね(私は)。
ジェンダーフリーは、別になにも私のジェンダーレスの欲望を実現する方向性ではないだろう。(それは、ジェンダーフリーが掲げるような多様なあり方を否定してしまうことになる。)
けれどだからこそ、主体的に選ぶということの目標が、「すなわち突き詰めれば性差否定に繋がるだろう」みたいな当たらずも遠からず的な曖昧な批判で同一視されるのは私としても納得が行かないのよ。。感情論で申し訳ないけども!><;


伏見氏は、セクシュアルマイノリティのことは割と書いてくれたのかもしれないけれど(ゲイと小児性愛者などが中心)、原理主義フェミニスト*4とは違うジェンダーマイノリティの欲望に対してはどのように考えておられるだろう?そこらへんの議論を深めていただけると、このモヤモヤの参考になってありがたいのだけれど。(ワガママ)

*1:ていうか、「ぽい」とか言うな俺。

*2:ちなみに生物学的な側面からも、すべては作られたものだと考えられるらしい。104p105p参照。

*3:更に、野口指摘視点による「性別に基づく不合理な扱い」の定義がなされてないという指摘を軸に「ジェンダーフリーが誤解を生ませている」とジェンフリ論者を批判するわけだけども・・・・。ま、別話。

*4:て呼び方あんの?