ネタ的文章w

以下はライトなノベルを読むくらいのつもりで読める人だけご覧あそばせ。
注:以下はネタ。本気読みしてはダメ!!

男と云う区分をなくさずに男を欲望することは可能だろうか。可能だ。では、男と云う区分をなくして男を欲望することは可能か。これも可能。
それはわたしたち社会が今現在男を欲望しているからだ。男と云う区分がなくても、観念上存在する性の非対称性は望まれるだろう。それはなにも性別の本質主義的見方ではなく、性別二元制を欲望する集団に見られる欲望の傾向が、身体への記号を元に発してある部分があるからだ。ペニスヴァギナをはじめ、筋肉質か胸のふくらみがあるか、などの身体的記号を欲望する際、私たちはその記号だけで既に非対称性を欲望している。
ジェンダーを与えられていなくても、そこにある全体の平均的な性差として、身体的特徴を二分化させる思考観念は成り立つはずである。
とするならば、男と云う区分をなくしたとき、そのオトコという名称は消えるものの、記号自体を求める欲望傾向は必ずしも消えないのだから、今はまだオトコとされるその存在を欲望することは可能である。しかし、それはもはや社会的なものではなく、個々の頭の中に存在する肉体へのフェティッシュな欲望でしかない。そういう意味では、ジェンダーによる男を欲望することは叶わない。

しかし、もしそうなった場合でも、二分化した性を欲望する集団が社会の中で幅を利かせるのであれば、結局男ではないオトコを欲望することになりえるかもしれないし、そうなれば結局新たに肉体へジェンダーが付与されるだけの話だ。
ジェンダーを欲望する傾向が失われない限り、あるいは、ペニスやヴァギナを欲望する記号に拠った価値感が強い限り、男と云う区分をなくしても性はおそらくジェンダー化されるだろう。それは、新たなカテゴライズであり、新たな対立構図の生産だ。

こうしたことを予想するならば、性の非対称性を敵視しても何も始まらない。では、結局本質主義的な現在の性認識が認められてしかるべきという帰結にいたるのだろうか。
しかし問題にしたいのはあくまで、区分が区分でしかなく、そこに特権化や社会の中の実践的拘束を図る政治的な制限が発生するか否かという点だ。
では今私たちがどう認識すればよいかと言うと、性をパロディ化することなどでジェンダーの形骸化に耐えうる精神を育むことでアール。すなわち、ふたなり万歳!!という思想を広く蔓延させ、区分が区分でしかないことをいち早く自覚させることだ!!さあ!皆立ち上がれ!!ふたなり文化を育成し、早い内から情操教育として同人誌を読み聞かせるのだ!!そうすれば、ジェンダーが区分でしかないことを知り、いつのときか政府に性のあり方を規定されるようなことがあった時、「そんなことしたら萌がなくなるじゃないか!!」と憤らせることが可能となる!!そうすればもう世界はジェンダー帝国からの脱退が出来るのでアール!イェヤー!!


以上ネタ。(すごい!ノリでこんな文章が一度も読み返しも推敲もせずに完成できるなんて!もちろん書き直しとかしてませんよ。一切。)そして、多分その日の内に消します、このエントリ